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その者、ハリケーンにつき  作者: いさ
晴天の虚ろ
4/4

Adieu, prends soin de toi.

嵐は過ぎるもの。去ってしまえば過去のもの。



【人物】

イザヤ・ニルセン:ロマの魔術師。笛吹きを副業にしている。

キリアス・ロア:貴族の次男坊。騎士を志望して家出中。

 酒場で聞いた噂なんかにほいほい着いて行ったのが間違いだった。ある豪商が至急人手を探していると聞いて行ってみたら、依頼された仕事は何と豪商の娘の死体番だった。

 横暴な父に縁談を強制され、心を病んだ末に命を絶った娘の遺体を、仮の葬儀が済むまでの間守って欲しいと言う。使用人まで総出で行う葬儀の何が仮なのかと問うと、娘の想い人が葬儀に乱入してくる恐れがある。娘を追い詰めて死なせた男には死に顔さえ見せたくないと、豪商は苦々しく唸った。


 いやいや、追い詰めたのはその恋人じゃなくてあんたじゃねえの、とキリアスは心の中でこっそり突っ込んだが、上辺ははあそうですかと頷いておいた。娘を自分と同じ年代の貴族に嫁がせようとしていたという話を聞く限り、どうにもきな臭い成金親父だ。

 とはいえ友人と二人で借りている宿の代金もそろそろ心もとなくなってきていることだし、賊と斬り合うよりはマシか、とざっと報酬や段取りの打ち合わせを済ませ、そのまま使用人に扮して邸宅内に潜り込むことになった。

 どうやらキリアスが紛れ込んでいることは他の使用人にも秘密らしく、時間が来るまでは滅多に使われていなさそうな物置に潜んでいろとの仰せだ。どうやら、父親は娘の恋人を特定することが出来ず、葬儀の場でそれを確かめるため邸宅内の人間のほとんどを葬列に参加させるつもりらしい。


 一晩死体の傍で過ごすのはかなり気味が悪かったが、服毒自殺で外傷もなく、死に化粧を施された娘はただ眠っているだけか、あるいは精巧な人形のように見えた。旅の道すがらに時折遭遇する、生き倒れや野党の被害者に比べれば綺麗なものだ、と脳が麻痺したことをぼんやりと考える。そうでもしなければ何か出そうでやっていられなかった。

 相棒はその日別の仕事を請け負っていて、連れて来ることは出来なかった。それは仕方のないことだが、話し相手がいないのなら、せめて本の一冊でも借りておけばよかっただろうか。

 結局キリアスは不気味な一夜を依頼通りまんじりともせずに過ごし、報酬の銀貨を受け取ってこっそりと屋敷を追い出された。肉体労働もなく、不気味である以外にはかなり楽な仕事だったが、口止め料も兼ねて豪商の羽振りは良かった。


 睡眠を求めてずきずきと疼くこめかみを押さえながら、ようやく宿の戸をくぐったのが小一時間前。予定では上質とは言えないながらも落ちつける寝床に潜り込んで、朝市帰りの相棒が作る朝食を兼ねた昼食の匂いで目が覚めるはずが。


「どうして俺はこの寒い中濡れネズミのまま説教されているのでしょう」

「それはお前が馬鹿で下世話だからだ。仕事は選べ。そして懲りろ」

「懲りた。心底懲りた。すげえ寒い」


 事のきっかけは今回の仕事についてイザヤに何の相談もなく請けたことだ。とはいえいつもべったりくっついている訳ではなし、それぞれ得意分野も違うのだから各々勝手に日銭を稼いでくることは珍しくない。まして身分というものに密かにコンプレックスを抱えている相棒に、お家騒動に抵触する仕事だなどと言えば嫌な顔をされるのは明白で、あえて黙っていたのだ。いつもはそれとない気遣いで済むことなのだが、今回はどうにも、それが悪い方に転がってしまったらしい。


 大あくびをかましながら部屋の戸を開けたキリアスを見て、長い黒髪を手櫛でまとめていた友人が目に見えて固まった。ばらり、と手から零れた髪が肩に落ちる。


「お前……今度は一体何に首を突っ込んできたんだ!?」


 両目を大きく見開いた後、一気に顔を険しくして声を荒げたイザヤの剣幕に、キリアスは後ろめたくなってつい頬を掻く。


「えっと…………要人……警護……」

「嘘をつけ! たかが護衛でそんな怨念まみれになって帰ってくる奴があるか!」

「ええっ怨念!?」


 叩きつけられた声に面食らって思わず自分の身体を見回したキリアスから、イザヤは思い切り距離を取る。まるでキリアスが汚物にまみれて来たかのように手で口と鼻を覆って顔を顰めた。


「うわくっさ! キリ、それ以上部屋に入るなよ。ちょっとそこで待ってろ」

「臭いってなんだよ!」

「死霊臭い! 祓いに行くから少し待てと言っているんだ!」

「しりょおおおお!?」


 ぞわわっと全身に悪寒が走る。イザヤは旅荷とひとまとめにしてあった剣と外套を取り、ぱちぱちと暖かそうに燻ぶる暖炉から灰をマグにすくい、棚から一番純度の高い酒のボトルを出してほぼ一挙動でキリアスを部屋から蹴り出した。そのまま人目の少ない井戸まで追い立てられて、あれよあれよと言う間に下着一丁に剥かれ、灰を混ぜた冷水をぶっかけられる。

 ちなみに、現在冬真っ盛りの早朝である。足元の土は霜が立っていて、ざくざくと裸の足に刺さって痛い。


「ぎゃあ! ちょ、おま、この寒いのに何の修行!?」

「うるさい黙れ。お前のような馬鹿は熱でも出して大人しくしていろ!」


 このぼんくら! 脳足りんめ! と罵声と一緒にまた水を浴びせられる。他人に見られたらいじめか、あるいは変態行為だと思われそうだ。人格を疑われる。

 がちがちと歯を鳴らすキリアスに構わず、イザヤはすらりと剣を抜いて峰をキリアスの裸の肩と背中に当てる。冷えた金属の感触にひいっと悲鳴を上げるキリアスにうるさそうに忠告するイザヤの声は、剣と同じくきんと冷え切っていた。


「動くと切れるぞ」

「ばばば馬鹿言うなっこれがっ」


 じっとしておられるか! とキリアスは吠える。対してイザヤは冷めた視線のまま、歯で栓を抜いた酒のボトルをキリアスに押しつけた。


「それで口を漱げ。三度だ。それから……気休めだが向こうに向かって十字でも切っておけ」


 向こう、と言ってイザヤが示したのは紛れもなく昨晩を死体と過ごした屋敷の方角で、ああ、完全にバレてやがる、とキリアスは肩を落とした。

 残った酒をキリアスにだくだくと頭からかけながら、イザヤは抜き身の剣をキリアスの影にざっくりと突きたてる。

 まあこんなもんだろとひとりごちるイザヤの横で、キリアスは寒さと酒気で目を回しかけていた。アルコールの気化熱で加速度的に体温を奪われた上にあまり得意ではない酒の強い匂いに意識がもうろうとし始める。ぐらりと大きく傾いだ感覚を最後にキリアスの意識はブラックアウトした。




 次に目を開けた時、そこはどうやら自分たちの宿の寝室のようだった。部屋にはポタージュの旨そうな匂いが漂っている。帰宅する直前まで夢見ていた状況だったが、酷い頭痛と見下ろす相棒の険しい表情で夢見心地は紙吹雪のように儚く飛び去る。


「起きたか」

「頭、いてえ……」

「熱があるからな」

「あれで風邪引かなかったら奇跡だろ……」

「胸とか腹とか、他に具合の悪いところはあるか?」

「ん……多分ない……でも腹が減った」


 食欲があるなら大丈夫だな、とやっと表情を緩めてイザヤは席を立つ。どうやら今はもう夕方のようで、寝室の窓から差し込む光は弱い。枕元に鎮座する抜き身の短刀にぎょっとしつつ半身を起こすと、ベッド脇に寄せられた椅子とサイドテーブルの上の物が目に入った。

 広げられた布の上に、削りかけの黒い石と彫刻用の道具が置かれている。何となく触ってはいけない気がして手を出さずに覗きこむ。不透明な黒い石は、どうやらそこらで拾ってきた石ころではないようで、不思議な光沢を放っている。こんな石、一体どこで手に入れたのだろう。


「まだ作りかけだ。触るなよ」

「お、おう」


 深皿を手に戻ってきたイザヤに釘を刺され、予想はしていたがキリアスは慌てて身を引く。銀の刃を指して訊ねると魔除け、と簡潔な答えが返ってくる。皿とスプーンをキリアスに手渡し、イザヤは小刀を取り上げると手の中でくるりと器用に回し、鞘に収める。

 受け取った皿を見下ろして、キリアスは頬を緩めた。皿によそわれたポタージュは無論イザヤの手作りだ。野菜は不ぞろいだしやや塩気は強いし、決して洗練されているとは言えない味だが、自力で調理ができるという時点でキリアスには尊敬の対象だ。何しろ、キリアスは竈に薪をくべるところから教わらなければならなかったのだから。今でこそ野ウサギを焼くくらいなら出来るのだが、ただ出来るというのと、美味く作れるのとはまた別問題だ。


 キリアスがポタージュを飲み終わるのを待ってイザヤは皿を下げ、起こしていた上体を横たえる。そして額に濡れた布を畳んで乗せる。意識を失うまで鬼の形相で罵声と水を浴びせかけていた少年と同一人物とは思えない甲斐甲斐しさだ。一体どうしちゃったワケ? と見下ろす顔を見つめ返すと、イザヤはバツが悪そうに肩を竦めて詫びた。


「悪かったな」

「何が?」

「お前が性質の悪そうな霊を背負って帰ってくるものだから、うっかり加減を忘れた」


 とは言え、怨念を連れて来たことにはまだ腹を立てているらしく、昨晩は何をしていたのかと、問う声が硬度を増した。観念して昨日引き受けた仕事の事情を一切合切白状すると、イザヤは目元に手を当てて天井を仰いだ。ありえん……と呆れかえった呟きが上から落ちてくる。


「何の準備もせずに未練タラタラの女の死体と一晩過ごすなんぞ、これだから……これだから素人は……!」


 苛立ちをふんだんに含んだ声だ。いわく、恋人と引き裂かれた令嬢と、恋人に先立たれ罠に掛けられた男の恨みの念をキリアスは見事に引き連れてきてしまったらしい。


「まだ死んでそう経っていないからだろうな。恨みつらみが妙に生々しくて気持ちが悪かった」

「うげえ」


 心底嫌そうに話すイザヤは、まだ気味の悪い感じが抜けないのか、しきりに腕をさすっている。道中に死体を見かけようが人を斬ろうが、大して表情を変えない友人の珍しく怯えたような様子が妙に引っかかった。


「なあ、お前もしかして幽霊とか、苦手?」

「ああ嫌いだ」

「……祓えるのに?」

「それとこれと、何か関係があるのか?」


 むっと不機嫌に口を歪める。だって彼は霊が見えて、追い払うことが出来る。見えない悪意から逃げ回るのとは随分違うと思うのだが。感じた旨を口にすると、イザヤは脱力したように肩を落とした。


「あのな、解毒薬を持っているからと言って好き好んで毒を含む奴がいるか? 崩れると分かっている崖に敢えて近づく奴がいるか? そういうのは馬鹿か狂人か死にたがりって言うんだ」


 馬鹿か幼児に諭すような口調が癇に障ったが、言われてみれば当たり前の回答だ。キリアスは決まり悪く視線を泳がせ、ふとあることに気付いた。


「あれ……これから出かけるのか?」


 もう日も暮れる時間だというのに、イザヤは外出用の上着を着込んでいる。見れば腰かけている椅子には襟巻と手袋が引っ掛けられていた。イザヤはちらと防寒具を見やり、頷く。


「お前についてきた霊の始末をな。朝のはあくまでお前から念を引っぺがしただけだから」


 不幸な恋人たちに引導を渡してやらないとな、と言って薄く浮かべた笑みは憐れみか。


「……面倒かける」

「こういうのは俺の専門だ。気に病むな」


 サイドテーブルの上に広げていた黒い石と彫刻用具を片づけ、熱が下がるまでは大人しくしていろよ、と掛け布団を軽く叩いてイザヤは部屋を出ていった。

 引導を渡す、と言うが実際に何をどうするのか、キリアスは知らない。今までにも性質の悪い悪霊の始末をイザヤが頼まれて請け負うことはあった。そういう時、イザヤは往々にして「いつもの」仕事着で出かけていくのだが、実際霊と相対しているところをキリアスが見たことはない。イザヤがキリアスがその場に同行することを良しとしないからだ。気にならないと言えば嘘になるが、霊だの魂だのは門外漢のキリアスが粘っても仕方がないので今まで敢えて深く問わないでいた。下手に穿って、やっと出来た友人との間に溝を作りたくはなかった。

 こうして帰りを待つのもいつも通りなら、秘密主義の友人にもどかしい思いをするのもいつも通りだと、キリアスは諦めて布団を被った。




「生きてこその……何とやらってな」


 星のない夜空を背にそびえ立つ邸宅を見上げて、イザヤは皮肉っぽく口を歪めた。無駄に仰々しい屋敷に、主はひとりだ。妻は既に亡く、親族は財産争いを恐れた主が寄せ付けない。止まりこみの使用人を除けば正式に住人と言えるのは主とその娘だけ。その娘は、先日死んだ。今やひとりきりで玉座を温めている豪商は果たして何を思っているのだろう。大きいばかりでがらんどうの住まいなど、虚しいだけではないのだろうか。

 業の行く末とは言え家族を皆喪い遺された男の胸中をちらと考えてみる。


「なあ、あんたはどう思う?」


 左手で正面に掲げた鞘から抜いた刀身に訊ねると、すすり泣く声が空気から滲むようにして届いた。


「自分のせいで娘に死なれてさ、あんたの親父さんはどう思ってるかな。それとも悔やんでる? 悲しんでる? そうでなけりゃ、怒ってるかな」


 剣を寄り代に閉じ込められた娘の魂が知らぬと声を上げて泣く。


「大事な彼と引き裂いた親父の心なんて、知ったことじゃないか」


 娘は彼を返してと喚く。嘆きに応じて明滅する刀身を指で弾き、イザヤは笑う。


「自殺のあんたと違って殺されたあんたの恋人は嘆きより恨みの方が強かったからね。とうに「そこ」にいる悪魔の腹の中さ」


 きん、と硬い音を返した刀身が石を受けた水面のように揺らめく。剣の中に潜む悪魔は今はまだ押し黙ってはいるが、娘の魂をいつ喰らってやろうかと焦れているのが分かる。イザヤにさえ伝わるのだから、すぐ傍らにその気配を感じている娘の方は生きた心地がしないだろう。まあ、もう生きてはいないのだが。


「馬鹿だよなあ。死後の世界で一緒になれるとでも思った? この世ですらままならないのに、死んで今より良くなる訳ないだろ。あんたは健気な想いで命を捨てたのかもしれないけどね、それはただの犬死にだよ。悔しくないか? 何にもできないで。死ぬほど辛い目にあんたを合わせた、父親がさ」


 一矢報いたいのなら、手伝ってあげる。あんたの心を裂いた父親のところまで、導いてあげる。とびっきり優しい声音で、イザヤはすすり泣く令嬢の耳元に囁いた。


「悲哀よりは怒りの方がいい。嘆きよりは憎しみの方がましってもんだ。あんた、生きてる間に心底怒ったことないんだろ?」


 イザヤが言葉を重ねるに従い、流れ落つ娘の涙は燃えあがる憎悪へと移ろっていく。己の言葉がどこまで真実かなど、イザヤは斟酌しない。ひたすらに娘の怒りを煽り、敵意と悪意を育てる。それこそが一文にもならない除霊をイザヤが引き受ける代価だからだ。


『お父様の、あの男の所へ、連れて行って頂戴』


 嘆きに曇っていた娘の魂がはっきりと意思を持って訴えるのを聞き、イザヤは剣に縛り付けていた魂を開放する。泣き腫らした目で己を見上げる娘の手を掬い、うっそりと微笑んだ。


「ああ、そう。でも残念。あんたはここで仕舞いだから」


 娘の顔が驚愕に歪んだ刹那、今か今かと待ち構えていたイザヤの使い魔が寄り代を失くして無防備になった魂に躍りかかる。ばくりとひと咬みにされた魂には、断末魔を挙げる暇も与えられなかった。

 びちゃり、と手にかかった魂の残滓を不快に払い除け、イザヤは鼻を鳴らす。


「愛しい彼とは悪魔の腹で一緒になりな。逃げ出したあんたにはそれが似合いさ」


 いつの間に晴れたのか、気がつけば空を覆っていた雲の隙間から月明かりが差し込んでいる。しんと冷えた夜気に当たって、両手はすっかり冷えてしまっている。石畳に淡い光が浮かび上がらせる陰影を何とはなしに見下ろし、零す声は苦々しかった。


「……あんたがいくら可哀相な人生だったからって、あいつを俺から取り上げていい理由にはならない」


 寒さも、痛みも、生きていればこそのものだ。愛情や憎悪すら、死んでしまえば塵ほどの価値もない。死者の遺したそれを見つけてやれるのはイザヤのようなはみ出し者くらいだが、例え見つけられたとしてもその末期は精々使い魔の餌だ。無為の箱庭で生者は足掻いて、死者となって無為に溶けて消えていく。


「……やってられねえな」


 凍えた溜め息がひとつ、路地に落ちた。



 ***



「やる」


 熱が下がり、キリアスがすっかり回復したのを見計らって、イザヤとキリアスは町を発った。凍える季節に野営はあまりに厳しいため、護衛を引き受ける代わりに商人の馬車に乗せてもらうことにした。見通しの悪い道や森の中を抜ける時以外に護衛の仕事はなく、ふたりはもっぱら時間を持て余していた。イザヤが黒い鉱石を削り出して作った小刀を突きつけてきたのは、そんな平穏な昼下がりのことだった。

 うっすらと見覚えのあるそれはナイフと言うには原始的な作りで、薄く尖らせた刃に穴を開け、そこに通した針金を巻きつけて柄にしている。どうみても実用品ではない。中指程度の大きさしかない小刀の柄には革紐が結わえられていて、長さから察するに首にかけるためのものであると思われた。


「やる……って」

「魔除けだ。一晩死体の番をしただけでばっちり取り憑かれて来るような霊媒体質、このまま放って戦地に出せるか」

「えっ」


 霊媒体質と断言されてぎょっとするキリアスを他所に、イザヤはキリアスに握らせた小刀をひょいと取り上げ紐を首に掛けさせる。


「なあおい、霊媒体質ってどういうことだよ」

「そのまま。霊だの念だの、引きずりやすいんだ、お前は。前々から危なっかしいとは思っていたんだが、自分自身や親しい人間だけじゃなく初対面の相手でも見境なしだってのがこの前の件で分かったからな。俺が傍にいる間はいい。大抵の奴はルシフの気配に怯えて寄ってこない」


 でも、軍に入って戦に出るなら用心しておいた方がいい、と使い魔を収めた剣の鞘を指先で叩いて語る。


「あとはそうだな……心がけとして、まず死者に気持ちを向けるな。共感するな。憐れむな。万一何か見えたり聞こえたりしても無視しろ。それが例え付き合いのあった人間だとしても、死んじまったからにはお前に出来ることは何もない。それを理解し、受け入れろ」


 ぴっと目と鼻の先に指を突きつけ、脅すように畳みかけるイザヤの目は冗談を言っているようには見えなかった。相棒の迫力に気圧されキリアスがこくこくと頷くのを見て、イザヤは満足気に頷いた。


「ありがたく受け取って、肌身離さず持っていろよ。この俺の貴重な気遣いが詰まってんだからな」

「照れ隠しにしてももうちょっと可愛げのある言い様、ねえのかよ」


 とんっと拳で胸を叩いて吐かれる小憎たらしい口調もいつもと変わらない。救護のためとはいえキリアスが寝込むような仕打ちをしてしまったことをひっそりと気にしていたらしいイザヤは、この数日やけに面倒見がよかった。特に食事面で。本来キリアスと交代制の食事番をずっと一人で引き受け、一品一品のレパートリーを増やすだけに飽き足らず、朝夕での組み合わせまで考慮して食事を出してくるようになった。それだけ練習すれば腕が上がるのも当然と言えよう。

 今現在彼らが馬車の荷台で頬張っているキッシュも、勿論イザヤの手作りだ。危険度の低い道中に二人も護衛をつけることを馬車の持ち主に頷かせた、最大の功労者だ。相変わらず、自分を売り込むことの巧みさには感服する。


「なあ、何でいきなり料理の腕、上げようと思った訳」


 がっぷりと次の一口を頬張った友人に訊ねてみる。イザヤが何を考えているのか、コンビを組んでから随分経った今でも分からないことだらけだ。だから分からないなりに、知っていくしかない。

 むぐむぐと口の中のものを咀嚼し嚥下したイザヤに、キリアスは自分の口元を指で示す。同じ個所についていたパンくずを親指で弾く。


「どうせ学ぶなら色々やってみようと思った。そうしたら宿の女将が妙に張り切って放してくれなくてな」

「なし崩し的に上達したと」

「そういうこと」


 女ってのは年齢に限らず強引で押しつけがましいもんだとぼやく声が聞こえたらしく、手綱を握って背中を向けていた商人が堪え切れずにふき出した。


「言うねえ、坊主」

「盗み聞きかよ、おっさん」

「いやすまんすまん、暇だったんでな。それでもまあ、そのうち口やかましいのに救われることもあるってのが分かるだろうよ」


 妻のことでも思い出しているのだろう。やかましいと言いながらも商人と口調は柔らかい。


「そんなもんか……?」

「特にこうやって、なーんもねぇ原っぱでひとりぼっちなんて時にはうるさいのがいてくれた方が楽しいね」


 相棒は荷袋の中から引っ張り出したボトルを手に、ふうん、と首を傾げる。酔いよりも味よりも保存を第一に考えて造られたワインは正直飲むに堪えないが、長旅に水は不向きだ。舌の痺れるような粗悪なワインに口をつけ、イザヤは眉を顰める。


「……飲む?」

「今はいい」

「そうか。おっさんは? 不味いけど」

「飲めりゃ構わねえさ」

「はいよ」


 栓をしたボトルを商人に放り、揺れる馬車の向こうに広がる景色に視線を投げる。ぼんやりと地平線を見つめている横顔は眠たげだが、こういう時のイザヤは大抵何か考え込んでいる。

 邪魔をしないように刃の手入れでもするか、と鞘に収めた剣を引き寄せ、打ち粉が見当たらないことに気付く。出発の際には確かに確認したはずなのに、どこに仕舞ったっけ? と荷物を漁っていると、隣からぽつりと声がかかった。


「お前は……やっぱり兵士には向いていないと思う」

「何、急に」

「我慢ばっかりするし、理不尽な仕打ちをされてもあんまり怒らないし、簡単に騙されるし、下世話で、お節介で……」

「おい」


 イザヤはキリアスの欠点を指折り数え始める。寛容で我慢強いと言えこの野郎、と晒された頬を人差し指でぐりぐりと抉ると、真面目な話だと手を払われた。


「余計なことに首突っ込んでばっかりで……そんなんじゃいつかお前は、同情した相手に殺されるよ」

「……寝首を掻かれるってことか? その危険なら重々承知してる。腹黒いやりとりなんて家で腐るほど、」

「そうじゃなくて」


 そうじゃない、とイザヤは首を振り重ねて否定する。キリアスを見据える双眸には批判や皮肉はなかった。キリアスが心配だと強く訴えていた。


「兵の上に立つってことはさ、人殺しを束ねるってことだ。自分は覚悟決めて斬ることはできても、嫌がる部下に殺してこいって命令がお前に下せるか?」

「…………」

「代わりに答えてやろうか。無理だ。人の気持ちに簡単に共感して、同情してしまうような奴には荷が重すぎる」


 とん、とキリアスの首に下げた小刀を指で押しながら、削り出された表面の凹凸をゆっくりとなぞる。鉱石の表面がイザヤの触れている箇所から僅かに波打つ。まるで水面にたつさざ波のように。


「恨みや呪いは……集めれば集めるだけ呼び寄せる力も害も強くなっていく。戦に出て功を立てて、部下が拾ってきた呪いを……きっとお前は無意識に引き取っちまう。寿命を縮めるだけだ」


 イザヤが何をそんなに危惧しているのか、キリアスにもようやく得心が行った。今回の幽霊騒ぎで、イザヤは不安になったのだ。キリアスの知る限り、霊だの悪魔だのに対して有効な対処を出来る人間は目の前の友人が唯一だ。大概は影響されていることにさえ気づかない。多少の不幸は「ついていない」程度で済んでしまうものらしい。しかしイザヤが「霊媒体質」と呼んだキリアスには、事情が異なると言うことなのだろう。いずれ道を別つキリアスの行く末の無事を、イザヤは案じたのだ。案じて、くれたのだ。

 馬車の荷台に手をついて迫っているせいで胸元の高さにある深い紺碧を見下ろし、キリアスはお前はその常人ではない目で俺の何を見たんだ、と問い詰めたい衝動に駆られた。経験や勘では語れない何か、未来が見えているような節が彼にはある。問うたところで、決して答えてはくれないが。


「それでも、騎士は諦められない?」


 だから、イザヤが言うからにはいつか俺は化け物に取り憑かれてえらい目に遭うんだろうなと確信めいた予感をキリアスは抱いた。そして、その上で迷いなく頷く。だって、騎士を目指さなければ、キリアスは貴族の次男坊として適当に贅沢で適当に堅苦しい退屈な人生しか選べなかった。この変わり者に出会うこともなかった。自身の選択も、待ち受ける未来にも後悔はない。


「だと思った」


 力強く首肯したキリアスから離れ、イザヤは諦めたように笑った。そして安堵とも嘆息ともつかない深い息を吐いてばったりと後ろに倒れる。眩しすぎる日差しを腕をかざして遮り目を細めながら青空を眺めている。

 それきりイザヤが口を閉ざしてしまったので、キリアスも自分の作業に戻る。……打ち粉がない。これだろ、とイザヤがおもむろに自分の荷物の中から取り出した包みを振り返ったキリアスの顔の前でぷらぷらと揺らす。


「俺の荷物ん中に紛れてた。本当、抜けてんなあ」

「あー……」


 イザヤは額を押さえるキリアスを下から見上げてくつくつと喉で笑い、不意に笑みを引っ込める。


「……なあ」

「ん?」


 ひょいと軽く状態を起こし、イザヤはキリアスに向き直った。転がっていたせいで纏めた長い髪が少し乱れている。


「色々言ったけどさ、お前のそういう甘いところは、きっと時代が平和なら、血の流れない所でなら……美徳とされるべき人柄だ。でもキリ、お前が進もうとしてるのは人でなしが褒めそやされる道だろ。お前がその環境に耐えられるか……気掛かりで仕方ない」

「今日はやけに饒舌なんだな、イーズ」

「うっせえ。年上のくせに気揉ませんな。お坊ちゃんめ」

「まーだ言うかこのチビ」


 ぐりぐりぐり、と脳天を押さえて髪を更に乱してやる。やめろっと振り払う手を掻い潜って、頬に掌を宛がう。ぱち、と小気味いい音が手の中で鳴った。


「優しいだけじゃ、守れないだろ。そんなの、ちゃんと分かってる。それに意外と人当たりのいい奴の方が冷酷だったりするんだぜ? お前みたいに不器用な奴の方が割り切りが出来なくてもやもや悩んだりするもんだ」


 トモダチの将来案じて、そんな心許なさそうな顔をしてくれるな、とぺちぺちと何度か頬を軽く叩く。吃驚して固まっていたイザヤだったが数度瞬きをしてキリアスの言葉の意味を理解すると、むっと眉間に皺を寄せた。

 危険を感じて手を引っ込めた瞬間、がちりと上下の歯のぶつかる固い音が鳴る。


「うおわっ! 犬かお前はっ」

「次ガキ扱いしやがったら喉を狙う」


 気まぐれに擦り寄ってくるところは猫そっくりだが、犬歯を剥いて唸っている様はまるで不機嫌な犬だ。なるほど裏の界隈の奴らがこぞってこいつを野良犬呼ばわりするのはこういう一面のせいか。それこそ懐いた相手以外にはこういう凶犬じみた顔しか見せていないに違いない。

 実際咬まれたわけではないが思わず手の甲をさするキリアスを横目に、イザヤはつんとそっぽを向いてしまう。

 多分、真剣に考えていてくれたからこそ茶化されたようで気に障ったんだろうなあ、と風に流される後ろ髪を見やりながら思う。キリアスにしてみれば身寄りも財産も国籍も持たないイザヤの方が、余程危なっかしく映るものだから、そんな友人に心を砕かれている事実が気恥ずかしくて、つい茶化してしまったのだが。失敗したなあ、真面目ぶってりゃよかった。

 膝を抱えている背中に自分のを預けて彼がしていたように空を仰ぐ。青空を切り取るように円を描く鳶がひょろろ、と猛禽らしからぬ暢気な声で鳴いていた。


「心配してくれてありがとな」


 拗ねてしまった背中に声をかける。機嫌取りではなく、覚悟を伝えるために、宣言する。傍らに転がしていた剣を鞘からすらりと抜いて青空に突き立てる。陽光を浴びた刃が雲ひとつない空を映してきらと輝いた。


「ちゃんと叶えて見せるからさ。お前がどこにいても、俺の名前がお前の耳に届くぐらい、上り詰めてやる。そうしたら、」


 俺の所にとは言わないから、俺が作る国の形を、確かめに戻ってきてくれないか。


 一所に留まるのが嫌いで、土に縛られることを恐れる友人に、キリアスが元気で変わりないと伝わることを願った。外れ者で、勝手気ままで、意地が悪くて、気を許した相手にはとことん心を砕く一途なひねくれ者が、十年後も同じようにキリアスのことで気を病むことがないように。自分自身の幸せに手を伸ばしてくれるように。


 遠い空の下でも、どうか元気で。

次シリーズ・霞の絆に続きますがイザヤ少年編はこれで終わりです。読んで下さってありがとうございました!

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