24.若き領主フリューゲル……⑦
「フンヴェの野郎、あのじゃじゃ馬を、箱入りのただの小娘だと思って舐めてたんだろうよ。館に閉じ込めときゃ、泣いてるだけで何もできやしねぇってな」
『事実だけを言えば、塀を越え、『密輸船』に潜り込み、他星の領主の執務室に侵入し、本棚の裏から領主に突撃しました』
「並べて言うと、とんでもねぇな」
ミューラーは、天井を見上げ笑った。
もう笑うしかない。とんだ跳ねっ返り娘だ。だが、嫌いじゃない。
「蟻の一穴ってやつだ。どんなにでかい堤も、蟻が1匹開けた穴から崩れる。あの野郎のご立派な計画は、一番舐めてた小娘に、穴を開けられたんだ」
『問……その穴を、さらに広げるのが、本船の役割ということですか?』
「……まあ、そういうこった」
再び前を向き直り、視線をテーブルに向けた。
テーブルの端には、銀のワインクーラーが置かれていた。砕いた氷の中に、緑色の瓶が1本、首だけを出して冷えている。このワインに毒が入っていないのは、既に確認済みであり、ミューラーが顎をしゃくると、ナターシャが音もなく立ち上がった。
瓶を氷から引き抜き、白い布で水滴を拭い、グラスに注ぐ。手つきは、一流の給仕と見分けがつかない。
ミューラーはグラスを受け取ると、ラベルには目もくれず、脚をつまんでゆっくりと回した。
月明かりに透かす。香りを嗅ぐ。目を閉じる。
一口含んで、舌の上でしばらく転がしてみる。そうしたかっただけで意味はない。
繊細な風合いや、味など、この男に分かるはずがなかった。
何せ普段口にしているのは、1食3ユニーの豆と乾燥肉のスープやパサパサの黒パンばかりであり、嗜好品は港で一番安い合成コーヒーだ。
高級酒は好きだが、それは値札を見てありがたがっているだけで、舌が何かを覚えているわけではない。
本人も、それは分かっている。分かっているのだが、領主館の迎賓館で、銀のワインクーラーから注がれた酒を前にすると、どうにも一度、それらしいことを言ってみたくなった。
「……なるほど」
低く、もったいぶった声だった。
「この透き通るような金色。口に含んだ瞬間に広がる、蜂蜜みてぇなまろやかさ。喉の奥に残る、樽の香りの余韻……」
『樽ですか? このワインはアンウッディッド。非樽熟成品です』
「うーん、そうだな……この鼻に抜ける、こう……ブーケ? が……うん、テロワールしてやがる」
『告……テロワールは動詞ではありません』
「これは絶妙なマリアージュの……タンニンの……そういう、余韻だ」
『言葉として成立していません。また、白ワインのタンニンは、ごく微量です』
「ああ、これは85年のセントリアだな。間違いねぇ。良い酒だ」
『根拠が一つも提示されていません』
「良いんだよ、雰囲気で言ってんだ」
ミューラーは、満足げに頷いて、もう一口呷った。
何を言っているのか、言っている本人にも、さっぱり分かっていない。以前会ったワイン好きの取引先が口にした言葉を思い出しているだけだ。
ナターシャの視線が、答え合わせするかのように、手元の瓶のラベルに落ちた。
エルケ産。収穫は昨年。この星の酒場なら、どこでも置いてある。領主の館に置いてあるワインの中でも極めて日常に用いられ、使用人でも気軽に飲むことができる。ブドウ本来のフレッシュな果実味やキレのある酸味を、誰もが手頃な価格で楽しむことができるのが売りのワインだ。
迎賓館も、突然の来訪と、イケメンだがどうにも胡散臭い風体も相まって、手近なワインを放り込んだのだろう。
それでもミューラーは、気にしていない。用心深く見えて肝心な所が抜けている。
ラベルを見れば一目で分かることを、見ないで語る。クロスボーンとの契約書を流し読みして、第37条を見落とした時から、この男は何一つ変わっていない。
ヴァイスが、彼をいつまでも「坊主」と呼ぶのは、こういう所だった。
『船長、そちらは……』
「問題は……だ。どこで、どうやって連中を釣るかだな」
訂正しようとしたナターシャを遮り、ミューラーは何事もなかったかのようにグラスを置いた。
足を組み直し、両腕を組んで思考を巡らす。
「エルケの軍は他領に出せねぇ。だったら、連中の方からエルケに来てもらうしかねぇ」
『エルケの宙域内で、本船が襲撃を受けた場合、エルケ領主府は自領の治安維持として対処できます。他領への派遣にはあたりません』
「そういうこった。俺の船が囮になって、連中をエルケの庭先まで引っ張ってくる」
『告……その場合、本船が被弾する確率は……』
「言わなくていい」
『なお、本日分の迎賓館の滞在費は領主府負担ですが、本船の宇宙港停泊料は、自己負担です。1日あたり……』
「それも言わなくていい」
ミューラーは、空になったグラスをテーブルに置いた。2杯目は注がなかった。
いつもなら、こういう夜は瓶の一本も空けているところだ。だが今夜は、これ以上は飲む気になれなかった。
『報告……扉の前に、5分ほど前から生体反応があります』
「……早く言え」
ミューラーが天井を仰いだ、その時。
扉が、控えめに叩かれた。
「……開いてるぞ」
扉が開いて、入ってきたのはジークリットだった。
「悪ぃ……ちょっと良いか……」
口調は貴族のものではない。ミューラーに向ける『いつもの』口調だった。それでも、淡い色のナイトドレスに薄手のショールを羽織っていると別人のように見える。
ドレスを着ていた時に結い上げていた髪は下ろされ、薔薇色の髪が肩から背中へ流れていた。
昼間の令嬢の顔でも、艦橋の山猫の顔でもない。どちらとも違う、年相応の少女に見えた。
ミューラーは、反射的に視線を窓の外へ逸らした。
『告……船長の心拍数が、上昇しています』
「うっさい……」
ジークリットは、部屋の中を見回した。テーブルの上には、空のグラスがひとつと、栓をし直したワインの瓶。それから、ナターシャが映し出した星図のホログラムだけだった。
「……なんだ、一杯だけかよ。てっきり酒盛りしてると思った」
「メイクが落とせないからな」
ミューラーは、ガウンの襟を正しながら答えた。
「ここは領主閣下の屋敷だ。いつ誰に顔を見られるか分からねぇ。それに、船を接収されそうになったら、すぐに逃げ出せるようにしておかなきゃならねぇ。酔いどれていたら、操船もできねぇだろうが」
「エーリッヒ様は、そんなことしねぇし」
「ああ、分かってる……それでも……だ」
握手はした。条件も呑ませた。あの若い領主が約束を違える男でないことも、たぶん分かっている。
それでも、最後の最後で自分の船を守れるのは、自分だけだ。
明日をも知れぬ根無し草の自由商人は、そうやって生き延びてきた。
「……そう」
ジークリットは、それだけ言ってミューラーの向かいのソファーに腰を下ろした。




