幕間 第八騎士団の夜は、どうやら「出来なかったこと」を静かに数えるには少し向きすぎた場所のようですわね
第八騎士団への仮出向初日が終わった夜、私は与えられた部屋で、しばらく椅子へ座ったまま動けなかった。
疲れていた。
それは間違いない。
だが、身体の疲れだけではない。
頭の奥に、まだ昼間の音が残っている。
歩く音。
短い指示。
馬の気配。
荷の動き。
止まらない足。
そして、“見るな。回れ”という言葉。
あれは、思っていた以上に深く入った。
騎士学校でも、速く動けとは言われる。
遅れるなとも言われる。
だが、第八騎士団で言われるそれは、少し違った。
速く、ではない。
止めるな、なのだ。
その差が、今さらじわじわと重くなってくる。
私は机の上へ手を置いたまま、ゆっくり息を吐いた。
……かなり嫌ですわね。
ですが、かなり良いですわね。
嫌なことほど、必要なことが多い。
それはもう、一年の頃からよく知っている。
知っているのだが、今日は少々、見せつけられ方が丁寧すぎた。
学校で通る形。
現場で残る形。
その差を、初日だけでここまで露骨に見せてくるとは思わなかった。
私はしばらくそうしていたが、やがて机の引き出しから記録帳を出した。
騎士学校へ入ってから続けている、自分用の整理帳である。
部屋が変わっても、場所が変わっても、これがあると少しだけ頭の中が静かになる。
羽根ペンを取る。
インクを置く。
そこまでやって、私は一度だけ小さく笑った。
今日、わたくしは一度も“整ってから書く”ことを許されませんでしたのに、こういう時だけは書く前にきちんと整えたくなりますのね。
それは少しだけ可笑しかった。
だが、笑えたのは良かった。
笑えないほど詰まっているわけではない、ということだからだ。
私は書き始めた。
第八騎士団初日。
ここは、学校の延長ではない。
学校の基礎は意味があるが、“学校だから通る一拍”はすぐ遅れになる。
見るな。回れ。
考えるな、ではない。回りながら理解しろ。
整えるな、ではない。回りながら整えろ。
そこまで書いて、私は手を止めた。
今日一番痛かったのは何か。
そこを、少しだけ正確に切り分けたかった。
視線を落とす。
記録帳の紙面を見る。
それから、ゆっくりもう一行足す。
わたくしはまだ、“見えたものを一度自分の中で綺麗にしてから出したい”癖が強い。
ええ。
そこですわね。
見える。
だから整理する。
整理したうえで、正しい位置と正しい言葉を選ぶ。
それは今まで、かなり私を助けてきた。
騎士学校でも、屋敷でも、家族の中でも、それで何度も筋を通してきた。
だが今日は、それが半拍遅かった。
つまり、今の私に必要なのは“もっと見えるようになること”ではない。
“見えたものを、整える前に置けること”なのだ。
かなり面倒ですわね。
その時、扉が二度ほど軽く叩かれた。
「誰かしら」
「仮出向組だ」
聞き覚えのある声だった。
同じ騎士学校三年から来ている、別の仮出向者である。
私は立ち上がり、扉を開けた。
そこには、同じように少し疲れた顔の青年が立っていた。
手には水差しが一つある。
「補給。ついでに、生きてるか確認に来た」
私は少しだけ目を瞬かせた。
それから、水差しを受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
彼は部屋へ入る気はないらしい。
扉口のまま、少しだけ壁にもたれて続けた。
「きつかったな」
「ええ」
「お前、最初に見た時よりは平気そうだ」
私は少しだけ首を傾げた。
「そうかしら」
「少なくとも、折れてはいない」
それは悪くない評価だった。
「お互い様ではなくて?」
「いや、俺はちょっと折れかけた」
その返しに、私は少しだけ本気で可笑しくなった。
こういう正直さは嫌いではない。
「では、今は」
「ぎりぎり戻した」
「よろしいですわね」
彼は苦笑した。
「よくないけどな」
「それでも戻したのでしょう?」
「まあな」
そこで少し沈黙が落ちる。
気まずくはない。
ただ、互いに少しずつ今日の重さを測っている感じだった。
やがて彼が言った。
「第八騎士団、どう見た」
良い問いだった。
私は少し考え、それから答える。
「待ってくれませんわね」
「だよな」
「ですが、雑ではない」
「そうなんだよな」
彼は深く頷いた。
「急げ、じゃないんだよ。止めるな、なんだ」
「ええ」
私は少しだけ目を細めた。
「そういう意味では、かなり教育的ですわね」
「教育的って言えるの、お前くらいだろ」
「そうかしら」
「そうだよ」
だが、その言い方に棘はなかった。
むしろ少しだけ安心したような響きがあった。
「なあ」
「何かしら」
「お前、戻ったらどうする」
「騎士学校へ?」
「いや、その前に。ここで三か月終わったら」
私はその問いに、少しだけ考え込んだ。
まだ初日だ。
終わりの話をするには早い。
だが、早いからこそ今の答えは本音に近いかもしれない。
「順番を持ち帰りますわ」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を丸くした。
「順番?」
「ええ。たぶん、ここで削られるのは技術そのものではなく、出す順番ですもの」
彼はしばらく黙った。
それから、少しだけ笑う。
「……お前と話すと、何か妙に整理されるな」
「それは何よりですわ」
「でも、その整理が追いつかない速さなんだよな、ここ」
「ええ」
私は頷いた。
「そこが面倒ですの」
「だよな」
その一言で、妙に空気が軽くなった。
彼は最後に、水差しを顎で軽く示した。
「ちゃんと飲め」
「ええ」
「それと、記録つけるなら寝る前にやめとけ。詰まりすぎるぞ」
「……ご助言、ありがとうございます」
「俺もさっきやった」
「なるほど」
かなり説得力があった。
彼が去ったあと、私は扉を閉めて、水を一口飲んだ。
冷たい。
思っていた以上に喉が乾いていたらしい。
それから、先ほどの言葉を少し反復した。
記録は、整理になる。
だが、整理しすぎると詰まる。
それは今日の“考えてから動くな”と、どこか似ていた。
つまり、ここでは夜でさえ、
全部を綺麗にしてから休む、が少し重いのかもしれない。
私は記録帳へ、短く一行だけ足した。
どうやら第八騎士団の夜は、“出来なかったこと”を全部数えるには少し向きすぎていて危ないようですわね。
そこまで書いて、私は羽根ペンを置いた。
今日はこれでいい。
全部は要らない。
明日に繋がる一つだけあればいい。
そう思えたのは、悪くなかった。
寝台へ腰を下ろし、帯剣を外し、部屋の灯りを落とす。
暗くなると、また昼間の音が少しだけ戻ってくる。
だが、最初ほどではない。
私は目を閉じながら、最後に一つだけ思った。
明日も、たぶん待ってはくれない。
ならば、待ってもらう前提で動くのではなく、待たれないまま残る形を少しずつ覚えるしかない。
それはかなり嫌で、
かなり良い。
そして、少なくとも今の私は、それをまだ嫌がれる程度には折れていない。
ならば十分だ。
――こうしてルクレツィア・フォン・ヴァルツェンは、第八騎士団での初日を終えた夜、現場の速度と自分の“整えてから出したい”癖の差を静かに噛みしめながら、それでも全部を綺麗に整理しきるのではなく、明日に繋がる一つだけを持って眠るという、新しい種類の夜の終え方を覚え始めるのだった。




