第十話
第十話
講義室の空気は静かだった。
ルシアンは席に座り、前方の黒板を見ている。
教師のハロルドがチョークを取り、大陸の輪郭を描いた。
「本日は地理と世界情勢について説明します」
円を描くように広がる大陸。その中心に、小さな印が打たれる。
「ここが学園都市――アーカディア」
「どの国にも属さない中立都市です」
軽くチョークが触れる。
「各国から優秀な人材が集まり、人類の発展に大きく貢献しています」
ルシアンは視線を止める。
(中央に置く理由がある)
教育だけではない。
集めることで意味を持たせている。
東へ線が引かれる。
「ここが現在我々がいるアルケシア王国」
さらに周囲へ。
「周辺には小規模国家群、そして大国レグナス帝国」
北へ。
「北方には聖国リュミエル」
「信仰を基盤とした国家であり、聖職者の力が強い」
さらにその先へ。
「山岳地帯にはドワーフの集落が存在します」
南へ。
「南方には大国バルセリオン王国」
そしてその下。
「大森林地帯にはエルフの領域」
ハロルドは一度言葉を区切る。
「エルフは非常に長命で、高い魔力を持つ種族ですが――」
わずかな間。
「極めて閉鎖的です。他種族との関わりを避け、森の外へ出ることはほとんどありません」
「他にもいくつか国はありますが、こんなところです」
「そして…」
西へ。
チョークが静かに走る。
「魔族領」
短い言葉。
それだけで空気がわずかに変わる。
「魔王を頂点とする勢力です」
黒板には、大陸全体の構図が描かれていた。
国家、種族、魔族。
それぞれが存在している。
それだけで、十分に複雑だった。
ルシアンは静かに整理する。
(単純な対立ではない)
重なり合う関係。
それがこの世界。
「――ただし」
ハロルドの声が少しだけ低くなる。
「これは“現在”の話です」
教室の空気がわずかに変わる。
「神話の時代――」
チョークが止まる。
「かつては、神々がこの世界に顕現していました」
静かなざわめき。
「人は善神の加護を受け、魔族もまた対となる悪神の加護を受けていた」
「そして――」
わずかな間。
「大きな戦いが起きました」
誰も口を開かない。
「その戦いによって、国も、種族も、そして神々自身も大きな損害を受けたとされています」
淡々と語られるが、その重さは伝わる。
「それ以降、神が直接この世界に現れることはほとんどなくなり、魔族との大規模な戦いはなくなりました」
ルシアンは目を細める。
(消えたわけではない)
そういう表現だった。
「なお、この時代には――」
ほんの一瞬、言葉が選ばれる。
「邪神と呼ばれる存在についての記録も残っていますが」
軽く流す。
「その記述はどれも断片的で統一性がなく、詳細は不明です」
あえて踏み込まない。
だが、印象だけは残る。
(記録はある)
つまり、存在は否定されていない。
ルシアンはそれだけを拾う。
「そして現在」
話が戻る。
「我々が直面する現実的な脅威が、魔物です」
チョークが再び動く。
「魔物は人間、魔族を問わず脅威となる存在です」
「強さはランクで分類されます」
「Gから始まり、F、E、D、C、B、B+」
「A、A+、S、S+」
少し間を置く。
「SS、SS+、そしてSSS」
教室が静まり返る。
「SSSランクは、現代の冒険者には存在しません」
だが――
「魔物には存在します」
はっきりと言い切る。
「太古から生き続ける竜種」
「かつて国家を壊滅させた存在」
短い沈黙。
「一晩で一国を滅ぼす程の力を有しているとされています」
誰も動かない。
「記録では、三つの国が一夜で消えた例もあります」
静かに続ける。
「それらはもはや“討伐対象”ではありません」
「災害と同じものとして扱われます」
人の手に余る領域。
「遭遇した場合は――」
「逃げることだけを考えなさい」
短く締める。
「以上です」
講義は終わった。
⸻
午後。
中庭には木剣の音が響いていた。
「もう一度」
ローデリックの声。
ルシアンは踏み込む。
打ち込む。
受け止められる。
流される。
体勢が崩れる。
「軌道は悪くありません」
淡々とした評価。
だが届かない。
数度繰り返し、動きを止める。
呼吸を整えながら、ルシアンは口を開いた。
「ローデリックさん」
「なんでしょう」
「先ほどの話ですが」
わずかに間を置く。
「Sランクの魔物というのは、どの程度のものなのでしょうか」
ローデリックは木剣を下ろす。
少しだけ視線を遠くに向けた。
「私は戦っていません」
静かな声。
「ですが、見たことはあります」
それだけで十分だった。
「距離はありましたが……」
言葉を選ぶ。
「分かりました」
短く続ける。
「近づいてはいけないと」
ルシアンは黙って聞く。
「気配だけで圧される」
「立っているだけで、場の空気が変わる」
わずかな沈黙。
「騎士団であっても、どうなるかは分かりません」
それ以上は語らない。
だが、それで足りていた。
ローデリックは木剣を構える。
「ですから」
「今は基礎です」
「はい」
ルシアンも構える。
踏み込む。
打ち込む。
弾かれる。
だが――
ほんのわずかに、踏み込みが深くなる。
軌道が鋭くなる。
ローデリックの目が一瞬だけ細くなる。
何も言わない。
ただ受ける。
木剣の音が、一定のリズムで響き続けていた。




