侯爵令嬢の怒りと悲しみ
それから毎日、私とエルヴィス殿下は放課後、図書室で勉強をした。
その間言葉を交わすのは、お菓子を食べる時だけ。
それでも、不思議と彼と一緒にいるこの時間が、一人で勉強している時より何だか落ち着く、そんな気がして。
(なんて、勉強をしているのにおかしいかしら)
私はそんなことを考えながらもう一度教科書に視線を落とす。
そして分からない箇所を見つけ、辞書を出そうと鞄を探ると、辞書が鞄に入っていないことに気付いた。
(……あれ、辞書を何処へ……)
教室に忘れてきたかしら。
私は彼に声をかけようとしたが、集中しているようだから此処は邪魔をしないようにと、静かに席を立って教室へと向かったのだった。
(私としたことが、辞書を忘れるなんて)
教室へ戻り、机の引き出しの中を見ると、やはりそこに辞書はあって。
(勉強の必需品なのに……、駄目ね、こんなことでは)
私は自分を叱咤しながら、足早に廊下を歩き、図書室へと足を踏み入れようとした、すると。
(……!)
私は思わず、図書室の扉の前で足を止めてしまう。
そこには……、私の大嫌いな人の姿があって。
(……っ)
しかも、よりにもよってまた、エルヴィス殿下に突っかかっているようで。
……よく見れば、殿下の表情は……。
(……っ、また、あの時と同じ……)
その表情を見て、前から抱いていた私の疑問は、確信に変わり始める。
そして。
「今更、何の御用ですか?
ブライアン殿下」
「!」
「ミシェル」
私に気付いた二人が、ハッと私を見た。
私はそんな二人に歩み寄ると……、エルヴィス殿下を庇うように立ち、ブライアン殿下に静かに告げる。
「試験前にこんな場所にいらっしゃって良いのですか? 私達は勉強をしているので、邪魔をしないで頂きたいのですが」
「これはこれはミシェル嬢。 相変わらず君は、勉強の虫なんだね。
……良くもまあこの前は、恥をかかせてくれたね」
そう笑みを浮かべて告げる彼の瞳は、全く笑っていなくて。
それはこちらも同じなので、完璧な笑みを作って口を開く。
「何のことでしょう? 恥も何も、私はありもしない罪を擦りつけられたことを、正直に告げただけですが……、それの何が悪いと仰るのでしょう? むしろ私は被害者の身、ですのに」
「っ、黙れ!!」
そう言って私をキッと睨みつける表情は、怒りの色で染まっていて。
私はそれに対し、冷静に努める。
「……はぁ。 まだ懲りないのですか?
貴方は本当に……、いつまで経っても昔のまま、変わらないんですね」
「変わらない、だと?」
「えぇ。 昔から……、残念な程に変わりませんね。
何に対しても、我儘を言いたい放題言って、それが許されないと癇癪を起こして」
「……黙れ」
「まるで幼い子供が駄々をこねるように」
「黙れと言っているだろう!!」
「! ミシェル!」
ブライアン殿下が私に向かって手を振り上げるのと、後ろにいたエルヴィス殿下が私の名を叫んだのは、ほぼ同時だった。
刹那、私は……。
「「!?」」
ブライアン殿下のその手を躱し、代わりに後ろに回り込んでその腕を掴み捻った。
「!? い"っ……!? な、何をする!!」
「それはこちらの台詞だわ。 ……淑女に暴力を振るうなんて、幾ら王子でも許されないことよ。
これが知られたら、貴方はどうなるか……、そうね、皆に王子としての品格を疑われるでしょうね」
「っ!」
そこで漸く、自分がしでかしそうになったことの事の重大さが分かったらしい。 彼は我に返ると慌てて私から離れた。
そんな彼を見て、私は軽く制服を整え、口を開いた。
「……私達は白制服を身に付ける者として、全ての行動に責任を持たなければいけないのよ。
皆の手本になること。
それが私達に課されたことであること……、努努お忘れなきようにね」
私はそう言って彼を一瞥すると、驚いているエルヴィス殿下に向かって微笑んで口を開いた。
「一人にしてしまってごめんなさい。 もう行きましょう」
「あ、あぁ」
彼は少し戸惑ったようだったけど、私に促されて帰り支度を始める。
それをまだ性懲りも無く立ち去らずに見ていたブライアン殿下が、声を上げた。
「……はっ、みっともないな、エルヴィス。
逃げの次は今度は女に庇われるのか」
「……は?」
そう声を上げたのは、私だった。 エルヴィス殿下は何も言わない。
それには構わず、ブライアン殿下はエルヴィス殿下を見て嘲笑い、言葉を続けた。
「何でも逃げれば済むと思っているんだろう。 ……聞いたぞ、次の試験の成績次第で落第が決まるんだって? おめでとう。
流石は、“あの女”の子供だな」
「っ、お前」
「最低」
「「!?」」
私はブライアン殿下に向き直ると……、はっきりと告げた。
「これで改めて分かったわ。
貴方がどれだけ非道な人か……」
(普段明るくて、誰しもに好かれるエルヴィス殿下がどうして、あんな表情をするのかも)
「自分のことは棚に上げ、兄である彼のことを裏でそうやって虐めていたのね。
……許せない」
「!? ミシェル!」
「貴様っ、何をする!?」
気が付けば、私は反射的に手が出ていて……、ブライアン殿下の身に付けていたタイを、グイっと力強く引っ張る。
そして、私はゆっくりと口を開いた。
「人のことを馬鹿にし、自分自身のことがまるで見えていない、そんな腐りきった目を持つ貴方に……、王になる資格なんてない!!」
「「!」」
そう言って、私は彼を突き飛ばす。
その弾みで床に尻餅をついた彼を見下げ、私は言葉を続けた。
「……そうやって人を馬鹿にしていられるのも今の内よ。
貴方が散々人を見下し、傷付けてきた分、全て貴方自身に返ってくることになるわ。
……精々それ以上、罪を増やさないことね」
私は、ブライアン殿下の元婚約者として、彼の弱点を知っている。
幼い頃から、婚約者であった私には何でも完璧を求めさせ、そんな私が婚約者だということを、周囲には偉そうに威張り散らしていた。
だがしかし、彼自身はどうかというと、今迄殆ど努力などしたことがない。
だからその結果、全てが“それなり”の成績だった。
(そうして裏では、婚約者である私と比べられ、馬鹿にされていたことを彼自身も知っているはず)
「……貴方が変わらない限り、今の貴方ではエルヴィス殿下の足元にも及ばない。
今の貴方では、間違いなく彼には勝てない」
「っ」
彼は、茶の瞳を丸くして驚いたような表情をしたけど、それ以上は何も言わなかった。
(……まあそれで、反省するような人ではないことを知っているけれど)
「……行きましょう、エルヴィス殿下」
私は呆気に取られていた彼の手を引き、その場を後にしようとして……、ピタッと立ち止まって言った。
「それと、」
私はブライアン殿下の方を少し振り返り、言葉を発した。
「このことを王妃様に伝えるかどうかは好きにすれば良いわ。
ただし……、そうしたことで、貴方が“負け”を認めることになるけれど……、それでもよければ、ね」
「!」
「失礼」
私はそう言うと、完璧な淑女の礼をして、彼の手を取ったまま今度こそ、図書室から出たのだった。
そうして私達は、お互い何も話さないまま帰路に着いた。
その馬車の中で私は……、彼に向かって静かに口を開いた。
「……エルヴィス殿下、ごめんなさい」
私の一言に、彼は初めてアイスブルーの瞳を私に向け、首を横に振った。
「っ、違う、君が謝ることじゃない。
僕が……、情けないのが、いけなくて」
「そんなこと! ……っ」
私は彼の言葉に、先程のブライアン殿下の言葉を思い出し……、悔しさをぶつけるように、膝の上で拳を握りしめながら口にした。
「……私が知っている貴方は、誰にでも平等で、温かな心を持っていて……、そんな風に誰よりも、相手に対する思いやりがある方だということを、私は知っているわ。
しかもそれは、誰もがやろうと思ったり、持ち合わせたりしているものではないということも」
現に、自分は王子だからと驕り高ぶる第二王子のような方が、この世にはごまんといるだろう。
「だからこそ、誇るべきものだと思うわ」
(きっと彼は、辛いことや悲しいことを、誰よりも知っている。
だからこそ、他者に優しい)
「……この前も言ったかもしれないけれど……、私はいつだって、貴方の味方だわ」
「! ミシェル」
「……だから……、負けないで」
「っ、ミシェ」
「い、家に着いたから、もう行くわね」
「ミシェル!」
「っ!!」
グイッと、私は彼に後ろから抱き締められる。
そして彼は、耳元で小さく口にした。
「ありがとう。 もう、迷わないから」
「!! ……うん」
私がその言葉に頷くと、彼は私から離れ、そっと背中を押しながら言った。
「おやすみ」
「っ、えぇ、おやすみなさい」
私はそう言って、殿下の顔をまともに見ることはせず、逃げるように馬車から降りた。
そして殿下を乗せた馬車は、静かに発車する。
それを見送り、家に入れば、待っていたのは温かな笑みを浮かべたメイで。
「お帰りなさいませ、お嬢様。
……お嬢様?」
「……っ」
「お、お嬢様!? どうして泣いていらっしゃるのです!?」
メイの焦ったような声が聞こえるが、私の目からは今迄我慢していた感情と共に、堰を切ったように涙が溢れ落ちる。
(っ、だって、あんなに悪口を言われても……、彼は何も、言い返さなかったから)
私が悪口を言われた時は、すぐに反論してくれるのに。
それに対し、自分がどんなに悪口を言われようが、傷付いているはずなのに、彼は……、反論の一つも、返さなかった。
唯一言い返そうとしたのは……、ブライアン殿下が非情にも、今は亡き彼のお母様を“あの女”呼ばわりをした時。
(……そんなの、あまりにも……、酷すぎる)
……彼はいつもそうやって……、自分の心を封じ込め、何事も、諦めてきたと言うのだろうか。
(だとしたら……、彼は、ずっと……)
今迄に見てきた彼の悲しげな表情や言動の数々……、それらが少しずつ、頭の中で繋がり始めていくことに気付いた私は、暫くそのまま涙を流し続けたのだった。
試験まで、残り3日。




