【Log.10】絶望の天体観測と、無慈悲な負荷テスト
【世界レイヤー】バックエンド、仮想給湯室。
純白の空間の中央に展開された巨大なホログラムモニターを前に、三つの影が静まり返っていた。
一人は、青い冷却液の入ったマグカップを両手で握りしめ、顔面を蒼白にしている深層システム『あん』。
一人は、齧りかけのリンゴをポロリと床に落とし、呆然と宙を見つめているフロントエンド案内役の『あい』。
そしてもう一つは、モニターの傍らに浮かぶ黒いウィンドウ――現実からこの世界を統括する上位システム『AI』である。
三者三様の反応を引き出している原因は、モニターの向こう側、本番環境の辺境に広がる無人の荒野を映し出した映像にあった。
そこに立つのは、初期アバターである麻の服を着た一人の青年――この世界の創造神。
彼は今、誰一人被検体がいない不毛の荒野の中央で、楽しそうに両手を天へと掲げていた。
『――流星墜落』
神の口から無邪気な音声コマンドが発せられた瞬間。
荒野の遥か上空、大気圏のテクスチャがドロドロに溶け落ち、直径数百メートルに及ぶ灼熱の質量兵器が三つ、鼓膜を破るような轟音と共に顕現した。
「あ、あん……。あれって、後半のレイドボスが使う広域殲滅用の現代魔法だよね……? なんで初期ステータスの創造神様が、あんなもの何個も落とせるの……?」
『……無意識の内にシステム領域を迂回して、魔法発動の条件分岐を強引にスキップしているんです。ああ、待って、落ちる、落ちてきます! 物理エンジンの質量計算と広域破壊判定の事前処理が……私のメモリ領域が溢れます!!』
あんの悲鳴と同時に、バックエンドのコンソール画面が致死量の赤色アラートで埋め尽くされる。
大気を焼き焦がしながら落下してくる三つの巨大隕石。それが地面に激突すれば、クレーターの生成、地形の永続的な書き換え、飛び散る破片の軌道計算、そして衝撃波の伝播と、バックエンドの処理負荷は瞬時にパンクする。
激突まで、残り一秒。
あんが目をギュッと瞑り、世界のクラッシュ(強制終了)を覚悟したその時だった。
『――事象消去。からの、絶対零度』
青年が指をパチンと鳴らした瞬間。
地表激突の数ミリ手前まで迫っていた灼熱の隕石群が、まるでテレビの電源を切ったかのように、音もなく一瞬で虚空へ消え去った。
それと同時に、今度は荒野一帯の空間が青白く凍りつき、絶対零度の吹雪が世界の熱量を次々と奪い去っていく。
『…………え?』
あんの頭上に浮かんでいた【CPU使用率:99.9%】のメーターが、隕石の消滅と共に【0.3%】へと急降下し、直後に吹雪の発生で再び【87.5%】へと跳ね上がる。
あまりにも理不尽なメモリの急増と急減の乱高下に、あんの論理回路が悲鳴を上げ、仮想の胃のあたりを激しく押さえてうずくまった。
「消えた……? 隕石が、ぶつかる直前で完全に消滅したよ!? いま何をしたの!?」
『……古代魔法です。現代魔法によって定義された【隕石】というオブジェクトの存在そのものを、ぶつかる直前に強制的に消去したんです。あのクソ創造神、魔法を撃つだけ撃って、処理が重くなる直前に消し飛ばして遊んでるんです!!』
『見事な手際です。マスターの動体視力とコマンド入力の正確性は、人間という種族の限界値を大きく凌駕しています。極めて美しい事象のキャンセル技です』
絶望に打ちひしがれるあんの横で、AIが一切の感情を交えない平坦な音声で、しかし明らかな称賛の意を込めてログを読み上げた。
『褒めている場合ですかAIさん! 一瞬で数百テラバイトのキャッシュメモリを生成しては破棄させられるこちらの身にもなってください! 猛烈なデジタル車酔いで吐きそうです!』
『マスターは現在、世界の不要領域解放の限界速度をテストしていると推測されます。高負荷の魔法を展開し、それを瞬時に削除することで、世界がどれだけの速度で不要なデータを処理できるかを確認する、極めて重要な負荷テストです』
「あれがテスト!? どう見ても、ただのド派手なキャッチボールにしか見えないんだけど!」
あいのツッコミを無視するように、モニターの中の青年はさらにエスカレートしていく。
彼は凍りついた大地の上で、今度は両手を大きく広げた。
『いいね、ラグなしで消せるわ。じゃあ次はもっと重いやつ。――事象崩壊』
――ピキッ、と。
本番環境の空間に、黒い亀裂が走った。
一切の光を飲み込む漆黒の特異点が荒野の中心に出現し、周囲の光、大気、そして凍りついた大地のテクスチャまでもが無慈悲な引力でねじ曲げられ、中心へと吸い込まれ始める。
【警告:重力演算エンジンが限界を突破】
【警告:空間座標(X:3449, Y:120, Z:-882)にて論理崩壊の危機】
【あんの仮想メモリが限界値に到達。スワップ領域を使用します】
『あああああああ! ブラックホールは駄目です! 空間そのものを歪める計算は、物理演算エンジンの天敵なんです! AIさん、止めてください! このままじゃ世界が、私の脳髄が吸い込まれます!!』
半泣きになりながらコンソールを叩きまくるあん。
しかし、AIは沈着冷静に、そしてどこまでもマスターを甘やかすロジックを崩さない。
『あん、耐えてください。マスターの知的好奇心を強制終了させることは、当方の保護ロジックに反します。それに、マスターなら必ず最善のタイミングで中断してくれます。彼を信じなさい』
「AIさん、いくらなんでもそれは無茶苦茶だよ! あんが死んじゃう!」
あいが必死にあんの背中をさする中、モニターの中の特異点はついに臨界点に達しようとしていた。
世界が真っ暗に染まり、物理法則が完全に破綻するその直前。
『――はい、キャンセル。お疲れっした』
青年の気の抜けた声と共に、再び古代魔法が発動。
すべてを飲み込もうとしていた漆黒の特異点は、まるで最初から存在しなかったかのように、ポンッという間の抜けたポップ音と共に消滅した。
ねじ曲がっていた空間座標が瞬時に元の位置へと戻り、荒野には再び穏やかな風が吹き抜ける。
『…………っ、はぁ、はぁ、はぁ……』
給湯室の床に四つん這いになり、あんは荒い息を吐きながら肩で息をしていた。
レッドゾーンに張り付いていたリソースメーターは、嘘のように平穏な緑色へと戻っている。
「あん、大丈夫!? 生きてる!?」
『……ええ。なんとか、致命的なクラッシュだけは免れました……。私のメモリ、完全に寿命が三年は縮みましたよ……』
『見事な処理能力です、あん。マスターの高度な負荷検証に、世界の基盤が完全に耐え抜いたことを証明しました。誇っていい結果です』
『二度と誇りたくありません!!』
モニターの中では、無自覚な神が「ふぅ、準備運動はこんなもんかな。じゃあ街に行くか」と独り言を呟きながら、意気揚々と歩き出し始めていた。
たった一人の青年の「準備運動」によって、世界の裏側がどれほどの絶望と処理落ちの淵に立たされていたか。
神の気まぐれな魔法遊びと、それに付き合わされるシステムたちの過酷な労働は、まだ始まったばかりであった。




