1.前世の最後と天使の男の子
痛みが全身に走り、叫ぶ暇さえなかった。
スニーカーの底が空をける。身体が宙を浮く。視界が不自然に大きく傾き、景色がすごいスピードで流れる。
ガツン、ガツンと頭や体を激しく打ちつけながら転がり落ちる。
先ほどまで私の立っていた場所を見上げると——階段の上で見下ろしていたのは、酒臭い息を撒き散らし、真っ赤な顔で私を睨みつける『夫』の顔だった。
(ああ、また酔っているんだ……)
結婚してわずか三ヶ月。
特別熱烈な恋愛をしたわけではないけれど、穏やかな家族になれると思っていた。それなのに、結婚してわずか2か月で彼が見せた本性。酒癖の悪さと、理不尽な暴言。
「態度が気に入らない。かわいげがない。」という理由だけで私を突き落とした。
息が苦しい、どこが痛いのか、熱いのか、わからない寒いのかもしれない。
結婚前は夫のいい所しか見えておらず、呑気にこの人とだったら幸せになれるかなと思っていた。自分の見る目のなさに落ち込みながら、離婚に向けて準備を始めたというのに、なんで今。もう少しで、また他人に戻れたのに。
(ふざけるな!!!お前に私の人生を終わらせる権利なんでないはずだ。死ぬほど後悔して、苦労すればいい。)
文句を言ってやりたかったが声は思うように出ず、視界が急速に黒く塗りつぶされていく。
穏やかで平凡な人生を寿命まで生きると思っていた私の1度目の人生は、あまりにも突然呆気なく終わった。
——次に目を覚ました時、私は異世界の男爵令嬢、アメリア・フォン・バーンズになっていた。
◇
「アメリア、今日からお隣の公爵家にお邪魔するわよ。あそこの幼い坊っちゃんは……少し、特殊な方だから、失礼のないようにね。何かあったら逃げるのよ」
「おかあさま、なんでにげるの?」
色々あるのよ…と、濁す母に連れられて、
アメリア(7歳)が初めて公爵家を訪れた日のことを、私は今でもはっきりと覚えている。
案内された庭園の奥、木漏れ日が降り注ぐガゼボの中に、その男の子はぽつんと一人で座っていた。
「……ヴィンセント様です」
公爵家の使用人がそう紹介した瞬間、私は息を飲んだ。
ふわふわとした金糸のような髪に、宝石のルビーをそのまま嵌め込んだような透き通った赤い瞳。陶器のように白い肌と、キュッと結ばれた小さな唇。
……天使だ。
前世を含めて三十年以上生きてきたけれど、絵本の中から飛び出してきたような、こんなに可愛らしく愛おしい生き物を私は見たことがなかった。
ヴィンセント・フォン・グランヴェル。当時、私より二つ年下の5歳。
彼は、その愛くるしい容姿とは裏腹に、生まれつき規格外の魔力を持っていた。
この世界では、強い魔力を持つ子供は邪悪な魔導士や誘拐犯に狙われやすい。そのため彼は屋敷から出ることを禁じられ、同年代の友達も作れず忙しい両親とも中々会えず、ずっと屋敷の中の決められた場所で過ごしていたのだ。
「……こんにちは、ヴィンセント様。アメリアです」
私が話しかけると、ヴィンセントはびくっと肩を揺らし、怯えたように赤い瞳をうるうると揺らした。
「……僕に、ちかづいちゃダメだよ。僕のちかくにいると、わるい人にねらわれるから」
幼い口調で、一生懸命に私を遠ざけようとするヴィンセント。
その小さな身体がかすかに震えているのを見た瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。
彼には兄がいたが、ヴィンセントを狙った誘拐犯に襲われたところに居合わせたことがあり、ヴィンセントの両親は2人を兄の安全のために、引き離して育てることにしたのだ。
(なんて健気で、可愛いの……!
でも、簡単に心を許してはだめ!)
私の目には、とても可愛い天使にが写っている。しかし、残念なことに私に人を見る目は皆無だ。穏やかそうだと思った元夫は私を殺した、クソみたいな人間だったし。
今度の人生では、前世の失敗を繰り返さないために仲良くなる人の人間性は慎重に見極めていく予定だ。
私の穏やかな今後の人生に、邪悪な魔導士や誘拐犯の登場はあってはならないが——こんなにも可愛らしくて守ってあげたくなる天使を、一人になんてしておけない。
「大丈夫ですよ、ヴィンセント様。私が守ってあげますから!」
胸を張って宣言すると、ヴィンセントはぽかんと目を丸くした。
「アメリアが……僕を、まもってくれるの……?」
「はい! だから、ずっと一緒に遊びましょうね」
私が微笑みかけると、ヴィンセントの頬がポッと赤く染まった。
そして、小さな手で私のドレスの袖をぎゅっと掴むと、消え入りそうな声でつぶやいた。
「……あ、あのね、アメリア。僕、大きくなったら……アメリアのおよめさんにしてあげるね」
(お嫁さんってなんか逆だけど……可愛いからなんでもいいわ!)
幼い子供の無邪気なプロポーズに、私は「楽しみにしていますね」と笑って答えた。
その日は、ヴィンセントとお話をしたり一緒に花かんむりを作って過ごした。
花かんむりを被った姿は、妖精にも見えた。
ヴィンセントは、天使であり、妖精だったのか…
こんなに可愛かったら、みんなが彼を狙うのも無理はない。
1人でヴィンセントが狙われる理由に納得した。
数日前のことを思い出す。母と魔道具を購入した際、私はあれこれと質問を投げかけていた。
なぜだかその時の私は「魔道具なんて簡単に作れる」と思い込んでおり、「彼を守るために、私がたくさん作ってみせる」と息巻いていたのだ。
しかし、自分が持つ平均より「少しだけ多い」程度の子供の魔力と、勉強を始めたばかりの知識では、幼い彼を守るための魔道具どころか、初歩の魔道具である明かりをともす魔道具ひとつ作るだけで1週間寝込んでしまうなんて思わなかった。




