13.
二〇一四年九月六日土曜日。本日の空模様は快晴。
『いや〜、二人の熱いやりとりを聞いておじさん嬉しかったよ』
全身黒ずくめの変装姿で慌ただしく家に来たRAITは、『暑いね』と言うや否や目深に被った黒のキャップと黒マスク、サングラスをダイニングチェアへ放った。
日焼け防止のためか、気温が三十度近くある九月でも長袖長ズボンを徹底しているらしい。室内に入ってようやく袖を捲りあげ、肌を露出させた。
キッチン横の棚に常温で保管しているペットボトルの水を手渡した。RAITは一息に半分ほど飲んだ。
そして冒頭のセリフとともに笑顔を咲かせた。
「…ごめん、配信してること忘れてたし、電話も気付かなかった」
⬛︎⬛︎が俯き、RAITに謝った。それをRAITはうんうん、と頷くだけだった。
しばらく沈黙が流れ、RAITがゆっくりと応えた。
「いいよ、とは簡単に言えないけど、ひとまず⬛︎⬛︎の本音が聞けてよかったかな」
久しぶりに直視するRAITは、同じ種類の人間とは思えないほど肌のキメが細かく、透明感、オーラ、瞳の輝きまでもが別の存在のように思えた。
「ただ、今日は説教しようと思ったわけじゃなくて、広太くんの様子を見に来たのと、実はね、この時を待っていたんだ」
独特な周波数で音を振るわせるようなRAITの声質はダイレクトに耳の奥へ響くようだった。喉を潰した人の声とは思えない。
「⬛︎⬛︎が真面目なのは出会った頃から知ってる。頑固なところも、負けず嫌いなところも、人一倍、頑張りすぎるところもね」
RAITへの申し訳なさか、目を伏せたまま黙っている⬛︎⬛︎をよそに、RAITはゆっくりと話を続ける。
「俺が契約金のことを許したせいで余計な負荷をかけていたって気付いたんだ。俺が許した相手ってつまり、⬛︎⬛︎をこんな目に遭わせた人だよね。だから⬛︎⬛︎はいつまでも返さなきゃって思考に囚われてるんだよね」
RAITの言うことがよく分からなかった。
微笑んだ口元が真一文字に結ばれた。
「今、俺が考えているのは二つ」
RAITの口調の変化に気付いたのか、⬛︎⬛︎は顔を上げ、目を見てはなしを聞く姿勢をとった。
「ひとつは、⬛︎⬛︎の母親を提訴する。示談は認めない。言葉通り、罪を償ってもらう」
⬛︎⬛︎の目が僅かに見開かれた。
「二つ目は…、俺の自己満になっちゃうけど」
晴れた空のようにカラッと笑うRAITは言った。
ーーーもう一度、ステージに立とう。
こころなしか、RAITの声がよりクリアに聴こえる気がした。ぼんやりとRAITの話し声に耳を傾ける。トントン拍子で進む話に追いていかれるような感覚をおぼえた。
「親子関係にある空が訴えようとしたから取り合ってもらえなかった。俺が訴訟を起こせば、刑事事件になる。横領、窃盗、罪状はなんでもいい。空が間違っていないことはさっきの配信でおおよその人が感じ取った。SNSでは大地が派手にやってくれてるし、勝てるよ。
俺は空を苦しめたくはない。空がお母さんを憎むなら、俺が法的措置をとる。騒ぎを大きくするのなんて簡単。だって、空はすごい人なんだから。東京ドームを2days借りられるすごい人なんだから、世間が見捨てないよ。俺は、空のお母さんを許さない。空をこんなに苦しめた人を、許したくない」
力強く空を説得するRAITの瞳には涙が溜まっていた。
「そ、ら」
久しぶりに聞いた響きを声に出してみた。というより、気が付いたら声に出ていた。
急いで確かめなければいけないことがある。
名前を呼んで、目を見て、もう一度名前を呼んでみて、勢いよく席を立つ。
勝手に同居人の部屋へ侵入して、勝手にカバンを漁った。慌てて落としてしまった財布を拾うより、手に掴んだ免許証の名前を凝視したい。
…読める。
床に散らばったキャッシュカードや病院の診察券に書かれた文字が、曇りなく見える。
「広太…?」
後から部屋に来た同居人の名前が分かる。
「そら」
「うん?」
「そら…」
「どうしたの、広太」
「ごめん、俺、ずっと」
「うん」
「空の名前、分かんなくて」
「え?」
「書けなくて、呼んでも、呼んでる気がしなくて、認識できなかった」
「……」
「ごめん、そら」
「呼べてるよ。毎日、ずっと、呼んでくれてるよ」
「うん、意味分かんないと思うけど、ずっと靄がかかってるみたいで、分からなかった。でも、思い出した。空は空だ。空だった。ごめん、遅くなって」
「……」
ーーー丹羽 大空。
芸名みたいな名前で恥ずかしいと話していた。大空じゃ長いから、勝手に空って呼んで、疎まれても呼び続けた名前をどうして俺は忘れたんだろう。
「広太、ありがとう。いつも、そばにいてくれて」
あの日、空の母親に掴み掛かった日、服が伸びきるほど強く揺さぶった。手のひらが真っ赤になるくらい、強く、長い間、叫び続けた。
『空がどんな思いで生きてきたか分かってんのか』
『お前のせいで空は一生絶望しながら生きてる』
『空がお前に何をした』
『空の何が気に入らなくてこんな酷いことをする』
『空の感情を殺すな』
『空の人生を返せ』
『お前が空の分まで苦しんで死ね』
『空よりもっと苦しくて辛くて死にたくても死ねない絶望の中で死ね』
『俺が殺す、絶対に殺す』
『死ね、死ね、死ね』
実際俺は、空の母親の首を絞めていた。目の前で泡を吹く姿を見た。白目になって、力が抜けて、人を殺す感覚を味わった。殺してしまったというショックで全てを忘れた。
幸い、早めの処置で殺人犯にならずに済んだけれど、殺人未遂に変わりない。どうして俺が捕まらずにここにいられるのか、そんなの簡単だ。俺の父が権力を振り翳した。それ以外に考えられない。
空が大変な時に、自分は冷静さを欠いて、迷惑をかけた。
きっと、殺人犯になっていても、父に護られていたのだろう。
空は俺が怖くなかっただろうか。優は自分を無力だと呪ったりしなかっただろうか。俺の自制心の弱さを、自分のせいにしたことはないだろうか。
幼馴染が殺人犯になろうとしているのを二人は恐ろしく思わなかっただろうか。
思わないわけがない。
自分だけ易々と記憶を無くして、自分勝手だと責められてもおかしくない。
「空、こんなんで、本当にごめん。無力なままで、本当に、ごめん」
「謝らないで。俺は…広太が怒ってくれるのが嬉しい。代わりに言ってくれてるみたいで、スッキリするんだよ。こう言ったら良くないのかもしれないけど、あの時、薄っすら見えた親の死んだような顔を見て、心の底から安心した。これで解放されるって、広太の気も知らないで、自分の気持ちだけで喜んだんだ。自分の手は汚さずに広太にあそこまでさせといて、自分本位だった。だから広太は謝らないで」
「空は、怖くなかった?友達が目の前で殺人犯になる瞬間」
「なってないし、怖くない。なんで怖がるんだよ。広太だぞ。口うるさいと思うことはあっても、怖いと思ったことなんて一度もない。全部俺のためだってわかってるし」
「あと一歩のところだった。今なら分かる。人の呼吸が止まる瞬間、手の中で暴れる脈を押さえ付ける感覚。それを止めるんだって明確な意思を持ってた。リミッターが外れたら、何をするかわからない。それが俺だよ」
「そんなの、俺だって。リミッターが常にぶっ壊れてる親に育てられたから、俺も一回壊れたら元に戻らないと思う。でも、広太はそうじゃないから、あの時、俺の代わりに怒ってくれて本当にありがとう。ずっと言えてなくてごめん。俺はもう大丈夫だから」
空はまっすぐ俺を見て言った。
床に散らばったカード類を拾う空の横顔はどこまでも苦しそうで、今もまだ救いきれないもどかしさに狂ってしまいそうだった。




