第65話
長く閉じられていた瞼が、静かに上がる。現れたのは、何かを見据えた鋭い瞳。彼は体勢を変えずに話を始めた。
「ずっと、勘違いだと自分に言い聞かせてきました。店の子達が”先生が来る日のママは気合が入っている”なんて揶揄いも、僕の体調を気遣ってこまめに連絡をくれることも、僕が特別扱いされているわけではないし、全ては金のためなのだから、自惚れるなと。でもあなたの行動の中で二つだけ、誤魔化しきれないことがあったんです」
祐毅は、むくっと頭を起こす。体は背もたれに預けたまま、視線だけを動かし、婚姻届を見つめた。
「探し物が見つかったと連絡をもらって店に伺った時、あなたは着物と髪飾りに胡蝶蘭を用いていた。胡蝶蘭は祝いの際によく贈られる花。ですがあの時、ざっと見た限りではケーキやシャンパンを置いているテーブルは見当たらず、店内で誰かを祝っているような雰囲気はありませんでした。僕の探し物が見つかって、計画が一つ進むことを祝してくれている、なんて思ってしまったんです。そしてもう一つは、このネクタイピン」
祐毅は上半身を起こすと、ネクタイピンを外し、大事そうにゆっくりとテーブルに置く。両肘を両膝について前傾姿勢で停止すると、眉尻の下がった顔でネクタイピンの裏側を見つめた。
それは、彼女から理事長就任祝いとしてもらった物。クリップで一部が隠れてはいるが、裏側には”For your success(あなたの成功を祈って)”という文字が彫られていた。
「あなたの夢は叶ったのに、ただの口約束を守って、ずっと僕を支えてくれた。僕ですら成功すると思っていないのに、あなたは僕のために成功を祈ってくれた。ただの客に、知人の異性に、贈るにしてはあまりに気持ちが籠っている。僕の計画を知っているからこそのメッセージに、理事長になる僕の立場を考えた選択。そして、心臓の一番近くに身に着ける物。深く考えすぎているとは思ったのですが、素直に嬉しかった。でも同時に、心苦しかったんです」
祐毅は、両手をギュッと組むと、自身を叱るようにコツンと額にぶつける。はぁっと小さく一息つくと、続きを語った。
「僕はいつか、この人を悲しませてしまうんだ、そう思いました。いずれ世間に知られることは目に見えていて、その時が来たら出頭して、最後は自分の命を利用して世に訴えかけると、最初から決めていたんです。だからもっと早く、あなたから離れるべきだった。池神大臣の情報は、他の筋から十分手に入れられたので、僕が理事長になった時点で、あなたに協力してもらう必要はなくなっていたんです。取引は終わりだと告げて、店に行くことを止めれば良かったのに、僕にはそれができなかった。どうしてか、わかりますか?」
祐毅は上体を起こすと、顔だけを彼女に向ける。対面した顔は、目鼻に赤みは残っているが、規則正しく呼吸をしており、どうやら気持ちは落ち着いたようだ。
「あなたに会いたかったんです。どれだけ忙しくても、あなたの顔を見れば元気になれたから」
祐毅は、にこやかな笑顔を見せると、すぐにまた顔を背け、テーブルに視線を落とす。彼女が呆然としていることには、気づいていない。
「昔は、疲れた時や辛い時に、よく家族の笑顔が思い浮かびました。この世ではもう会うことができないその笑顔には、幾度となく使命感を掻き立てられた。でも、あなたに出会って、どのくらい経ってからかは憶えていませんが、時折あなたの笑顔が思い浮かぶようになったんです。歳を重ねて、ぼんやりとしか思い出せなくなった家族の代わりに、あなたの笑顔を思い出すことが増えた。あなたが支えてくれているから頑張ろうと、何度も励まされました」
ふぅっと一息吐くと、祐毅は再び顔を上げた。少しだけ腰を浮かせ、彼女の方に近づいて座ると、二人の膝が静かに触れる。祐毅の顔の位置に合わせて彼女が僅かに顎を上げると、真剣な眼差しと目が合った。
「僕も、玲良さんのことが好きです」
出会った当初は、玲良の職業に偏見を持ち、初日の態度に悪印象を持っていた祐毅。だが、彼の信念を理解しようと話を熱心に聞く姿勢や計画遂行を支えてくれた数々の行動に、彼も気づかぬうちに心惹かれていた。
祐毅の言葉の後、二人は暫くの間、見つめ合う。この恋は実らないと思いながらも、7年想い続けた玲良。互いの想いが通じ合った瞬間、彼女が見せたのは笑みではなく、涙だった。
「何度も傷つけてしまってすみませんでした。別れを電話で済ませたのは、あなたの顔を見たら、一緒に逃げようと手を引かれたら、決意が揺らぐかもしれないと思ったからなんです。そんな恐怖を覚えるほど、いつの間にかあなたの存在が、僕の中で大きくなっていました」
両手に顔を埋める玲良の肩に、祐毅はそっと手を置くと、空いている手を鞄に伸ばす。中からハンカチを取り出し、すぐに彼女の手に近づけた。
「でも、僕ではあなたを幸せにできないんです。多くの罪を犯し、死刑を免れたとしても、恐らく刑務所から出て来られない。夫婦になんてなったら、寂しい想いどころか、あなたを苦しめてしまうかもしれません。そんな僕より、あなたに相応しい男は他にいるはずです。金持ちの男も、誠実な男も、容姿が好みの男も、この先きっと現れる。あなたが幸せな人生を送れるなら、その相手は僕でなくてもいいんです。離れることでしか、あなたを守れないし、幸せにできない僕の気持ちを、わかってはもらえませんか?」
祐毅は、時に穏やかに、時に力強く、声音に波を持たせながら玲良に語り掛ける。その顔は真剣そのものだが、しくしくと泣き続ける彼女が、それを見ることはなかった。
話が終わると、玲良はハンカチを何度も目元に当てる。耳にはしっかりと届いていたのだろう。問いに答えを返そうと、せわしなく左右にハンカチを往復させながら、深呼吸で気持ちを宥めた。
「私のことを想ってくれているのは、すごく嬉しい。でもね、祐毅君」
ようやく拭き終わったのか、ハンカチを降ろすと、玲良は凛とした瞳を祐毅に向ける。
「私の幸せを、勝手に決めないで」
僅かに残る潤いで煌めく瞳が、祐毅の視線を捉えて離さない。
「私が今一番欲しい幸せは、祐毅君と一緒になることなの。お互いが好きだってわかった以上、簡単には諦められないわ」
玲良は、肩に置かれている祐毅の手を取り、ハンカチと共に両手で包み込む。
「あなたを批判するニュースを何度も見たわ。それはこの先も続くのでしょうけど、あなたの過去や人を救いたいっていう強い想いを知ってる私だけは、味方でい続けようって決めたの。私は、あなたの夢にも惚れたから。だから私は、あなたのことも、あなたの夢も諦めたくない」
「……やっぱり、あなたは強い人だ」
熱のこもった瞳に、はっきりと力強い声。玲良の想いは伝わったのか、祐毅は目を瞑ってコクコクと頷く。何かに納得し終えて瞼を上げると、空いている手で鞄を引き寄せ、中を漁り始めた。
ここで、祐毅の全ての作戦が終了した。最後の作戦は、突き放さねばならなかった理由や本心を正直に話し、今を諦めて未来に踏み出してもらう事。それができなければ、玲良の願いを叶えると、心に決めていた。
鞄から取り出したのは、ボールペン。そっと手を解くと、カチッと音を立てて婚姻届に向き直る。ペン先を白地に接地させると、滑らかに手を動かす。だが、その動きは、それほど長くは続かなかった。
突然手を止め、ボールペンをテーブルに置くと、祐毅は玲良に膝を向ける。彼女の右手を自身の左手で、左手を右手で、下から掬い上げるように掴むと、優しく握った。
「改めて、玲良さん……僕の妻に、なってください」
少しはにかみながらも、祐毅はしっかりとプロポーズの言葉を口にする。言葉を受け取った玲良は、目に涙を浮かべながら、うんうんと頷いた。
「ていうか、私から申し込んだのだから、別に言わなくても」
「いや……男としてちゃんと言うべきかと思いまして」
「あなたが今更、男がどうとか気にするの?私が良いって言っても抱かなかったくせに」
「なっ……それと一緒にしないでください」
ニヤニヤと面白がる玲良に、一瞬唇を尖らせるも、すぐ微笑みを浮かべる祐毅。二人が織りなす雰囲気は、ようやく普段と遜色ないものに戻った。
「でも、すごく嬉しいわ。顔を赤くしてまで、言葉にしてくれるなんて」
祐毅の微笑みは、突然固まった。せっかく平常時の色に戻った肌が、指摘を受けて再び赤みを増していく。
「……甘いのは苦手って言ったでしょ」
「ふふっ。そういう意味で言ってたの?」
居た堪れなさに目を逸らす祐毅。そんな彼の視界に、婚姻届が映り込む。弄ばれている空気を変えるべく、祐毅は婚姻届を二人の間に引き入れた。
「ちゃんと全部書きますが、もう少し待ってもらってもいいですか?玲良さんが危険に晒されないように、裁判が結審するまでの間に出来る限りのことをしておきたいんです。懸念と対策を御武に相談してから……いや、一緒に相談しに行きましょう」
「……えぇ、一緒に行きましょ!」
記入されていたのは、氏名と生年月日だけ。この先の夫婦生活、玲良の安全をいかに守るかを法的視点も交えて判断すべきだと、祐毅は冷静に考えていた。
玲良は満面の笑みで祐毅に同意する。彼が敢えて”一緒に”と言い直したことで、自分の中でも、彼の中でも、二人の関係性が変化したことが純粋に嬉しかった。
「それと、二人の間でもいくつか取り決めを作っておきたいんですが、まず一つ目に、入籍することは出来るだけ周囲に知られないようにしましょう。家族と、信用できるごく一部の人間だけに報告するということで、いいですか?」
入籍は好事なのだが、浮かれてばかりはいられないと、玲良は素直に頷く。祐毅が自身を案じてくれているからこそ制限を設けているのだと、彼女はすぐに理解した。
「二つ目は、記入して早々にする話ではありませんが、もし玲良さんが他に幸せを見つけたら、離婚を申し出て下さい」
「何それ!?そんなこと絶対に……」
「絶対とは言い切れないでしょ。幸せとは、相対的なものであると思うんです。僕達の特殊な夫婦関係を基準として、周囲の夫婦関係との差に不満を抱いたり、理想的な男があなたの前に現れたり、あなたを取り巻く環境だけが変化する。それに合わせて心境も変化すると思うんです。支えると言ったのだからと、意地を張らなくていい。僕はあなたが幸せになれるなら、文句を言わずにサインします。いつでもあなたを想っているということを、忘れないでください」
玲良は口を開きかけたが、なぜか言い淀んだ。祐毅は強い信念を持つ男だと、彼を見続けてきた玲良は知っている。そしてその信念を、自身を見つめる熱い瞳から感じた彼女は、黙って首を縦に振ることにした。
合意を得られたことに、僅かに笑みを見せる祐毅。だが、次は眉を顰めながら顔を背け、それと、と話を繋ぐ。
「雅綺だけでなく……父のことも、可能であれば気にかけてもらえるとありがたいです。小夜ママが一緒にいるとはいえ、あの人も歳なので、いつ何が起きてもおかしくない。時折でいいので、様子を気にしてもらえれば……」
人前で”父”と呼ぶことはあっても、心を偽らずにそう呼んだのは、幼少期以来のこと。祐毅の脳も体も崇志の変化を受け入れたのか、以前よりも込み上げてくるものは少なかった。
玲良は、祐毅が”父”と口にしたことに目を潤ませながら、大きく頷く。
「家族になるんだもの、当たり前じゃない。任せて」
「その代わりにはなるかはわかりませんが……あなたのために生きると約束します。御武の力を借りて、必ず死刑を免れてみせます」
その言葉で、玲良が瞳に留めていた涙が零れ出す。ようやく祐毅からはっきりと”生きる”という言葉を聞けたことが、彼女にとっては何よりも嬉しかった。じとついたハンカチを左右の目に交互に押し当てながら、口元だけは微笑んで見せる。
「例え側にいなくても、あなたがどこかで生きていて、同じ気持ちでいるって思えるだけで、私は頑張れるの。だから、その約束を忘れないでいてね。私もちゃんと、約束を守るから」
左右交互に現れる玲良の瞳を真っ直ぐに見つめ、はい、と力強く返事をする祐毅。互いを大切に想う気持ちだけでなく、共に生きるという信念も共有した二人は、柔和な笑みと泣き笑いする顔を見交わした。
「じゃあ僕は、さっちゃんか雅綺に証人になってもらえるか、頼んできます。あと、御武に空いている日時を確認したら、連絡しますね」
「わかったわ。じゃあ、気を付けて、いってらっしゃい」
ホステス達が出勤する前に店を発とうとする祐毅。彼にはまだやらなければいけないことがあり、その一つは鞄の中に仕舞い込んだ。見送ろうとする玲良と挨拶を交わし、出入り口の扉の前で立ち止まると、半回転して彼女に向き合う。目を合わせ、ニコッと微笑む祐毅。対して玲良は、ぎこちなく微笑むと、一歩彼に近づく。祐毅の腕と脇腹の隙間に自身の腕を通し、彼の背中に手を回した。
ドサッ。
鈍い大きな音が店内に響く。それは鞄が床に落ちた音。祐毅は反射的に、玲良を抱き締めていた。片腕は肩を締め付けるように強く抱き、もう片方は頭を包み込むように優しく抱く。
玲良は、穏やかに微笑みながら、彼の胸に耳を当てた。ドッ、ドッ、と早く強く聞こえる鼓動に、安心と幸福を覚える。だが、頭に感じる微弱な振動が、夢心地から目を覚まさせた。腕の中を藻掻き、顔を真上に向けると、揺らめく瞳が彼女を見ていた。
「ごめんなさい……僕の人生に、巻き込んでしまって……」
ごめんなさいと口にするたびに祐毅の頬を伝い、玲良の頬に落ちる雨。彼女は両手を祐毅の顔へと伸ばし、頬を覆った。
「謝らないで。私が、祐毅君といることを選んだの」
春光のような笑顔を見せる玲良は、背伸びをして祐毅の首に抱き着く。彼は彼女を支えるように、ギュッと体を抱き寄せた。
互いにずっと秘めていた心情。恋心だけでなく、相手を案じる気持ちまで理解し合った二人なら、これから先にどんな苦難が待ち受けていようと、彼等なりの幸せを掴んでいけるだろう。




