黒騎士とガラスの魔女
気晴らしに出かけないか。そう誘ったのは俺だった。町はずれの丘の上に、二人で行ってみないかと。そこに何かがあるわけではない。ただ綺麗な景色が見られると聞いたから、同じ時間を共有したかった。
頷く彼女は、相も変わらず、綺麗な笑顔を浮かべている。けれどもその裏に、数多の感情を隠していることを、俺は知っていた。そんな彼女も二人きりになると、時折、本当の意味で表情を和らげてくれる。
つまるところ、俺は彼女に、もっと甘えてほしかったのだ。弱音を見せてほしかったし、そのためにも、建前を作ることを決心した。そしてそれは、俺にとっては建前ではなく、偽りのない、純粋な本心だった。
俺はその日、彼女に告白することに決めたのである。
昼下がりの丘は、鮮やかな萌黄色の草に覆われていた。辺りに乱立する木は、崖に近づくにつれて、まばらになって行く。
「カイン! こっちよ!」
笑いながら木々の間を駆けていく彼女の、なんと眩しいことだろう。スノウベルの銀の髪は、差し込む日差しに辺り、静かに煌めいている。
誘ったのは俺だというのに、スノウベルは嬉しそうに、道ならぬ道を進んでいく。
無邪気な笑い声に、俺はなぜか胸が締め付けられるような切なさを覚え、目を細めた。
「待ってくれ、スノウベル」
不意に、彼女が木々の向こうに消えてしまうのではないかと、恐ろしくなったのだ。
王に殺されるはずだった魔女。そのスノウベルは今、生きている。
俺達は運命に打ち勝ったのだ。それでも俺は、時折こうして、怖くなる時がある。
もしもこの先、再び彼女を傷つけようとする者が現れたら。そいつが見過ごせないほどに、直接刃を向けたなら。俺はきっと、その刃をこの剣で受けるだろう。そうしてそいつに、とどめを刺してしまえるだろう。そう思えてしまうほどに、俺はスノウベルを愛していた。
「スノウベル」
木々が不意に開け、崖の先が見える。風を浴び、草は波となって打ち寄せていた。彼女の長い髪は揺れ、日の光に照らされている。
「カイン」
少女が振り返る。
「見て、とっても綺麗よ」
ああ、それは確かに、とても綺麗な光景だった。眼下には聞いていた通り、王都の町並みが広がっている。中央の城と、それから俺たちの通う学園と、遥か彼方には聖ドルムト協会の塔が見える。家々は同心円状に広がり、鮮やかな色を敷き詰められたように並んでいるのだった。
そうして目の前のスノウベル。広い世界を眺める俺の魔女は、何もかも覚悟して、それでいてとてもやさしい瞳をしている。
俺は彼女の目が澄んでいることを、奇跡のように嬉しく思った。それはきっと、俺が手を貸した結果なのだけれど、彼女自身が強いことの、証明でもあるように思われた。
「ああ、本当に綺麗だ」
俺が眩しさに目を細めれば、彼女は不思議そうに瞬きした。
「カイン? また何か、おかしなことを考えているのね」
俺が小さく息をつくと、白魚のような両手が伸ばされた。細い指先が俺の頬を包み、紫の瞳が、やさしく細められる。
「どうしたの? 魔女に言えないことでもあるのかしら?」
ああ、本当にこの子にはかなわない。俺は少しだけ躊躇して、正直に口を開いた。
「時々、君が消えてしまうんじゃないかと、思うことがある」
スノウベルは笑った。まるで、そんなことあるわけないじゃないと、そう言われているようだった。
「馬鹿ね。――リナリアも似たようなことを言ってたわ。でもわたしは、勝手に消えたりしない」
俺が視線を上げれば、少女は美しい瞳で微笑む。
「賢い魔女は、忠実な騎士を置いて行ったりはしないのよ」
「――スノウベル」
風が吹いている。彼女の髪が頬にかかっていた。それを耳にかきあげてやり、俺はとうとうその言葉を紡いだ。
「君が好きだ」
透明な瞳が、大きく揺れる。白い頬に徐々に赤みが刺していく。
「好きでたまらないんだ」
まるで信じられないというように、彼女の瞳はうろたえている。俺の言葉に動揺しているスノウベルは、今は魔女ではなく、ただ一人の女の子だった。
もっと格好よく伝えられたら良かった。でも俺にはこれがせいいっぱいだ。
自分の気持ちを、彼女に伝えたかったし、そうして彼女に、甘えることを赦したかった。この気高い魔女が、少しでも寄りかかってくれることを、悪い俺は期待してしまうのだ。
じっと見つめれば、スノウベルは俯いてしまう。その表情はうかがえない。俺は少しだけ不安になって、でも彼女を信じることにした。
風が俺たちの合間を吹き抜けていく。スノウベルはようやく、顔を上げた。
「あなた、なんにも知らないのね」
彼女は赤くなった顔で、困ったように笑った。
「わたしのほうが、もっとあなたを好きよ」
その言葉に、俺は胸が痛くなる。なぜかムキになって、片眉を上げた。
「へえ。君こそ俺を知らないんだな。俺の初恋は君だったんだぞ。それもずっと前からだ」
「そんな――わたしだってあなたが、」
そう口を開きかけて、彼女はふと動きを止めた。ちらりとこちらを伺う視線と、俺の視線が絡み合う。俺たちは二人とも、真っ赤になっていた。
「やめよう。――とにかく、俺の気持ちは事実だ。……俺が君に、何を求めているのか分かるか?」
噛みしめるように言えば、少しののち、ようやく彼女はこちらに向き直った。
「……分からないわ」
「じゃあ教えてあげる。――俺にもっと、頼ってほしいんだ」
彼女が眉根を寄せる。なんとも言えない表情だ。その仕草も何もかもが愛おしく感じる俺は、ある意味重症だろう。
「俺に甘えればいい。もう少し、重心を預けてくれていい。だって俺は、君を愛しているし、君の騎士なのだから」
魔女の瞳は揺らいでいた。揺らぎながらも、芯はまっすぐにこちらを見据え、俺の心臓を射抜いた。
「いいわ」
彼女は瞼を閉じ、再び開くと、不敵な笑みで微笑んだ。
「善処しましょう。わたしの騎士カイン。――でもあなたも、もっとわたしに甘えるべきよ」
はっと、俺は目を見開く。今唐突に突きつけられるまで、その考えは、俺の頭から抜け落ちていたのだ。
「わたしを気遣うのなら、少しは自分を気遣うことね。」
「……つまり俺は、もう少し主張をしてもいいということか? それが何を意味するか分かっているか?」
言いながら、じっと彼女を見つめてしまう。
「例えば、君にキスをしたいと言ったら、どうする?」
告げた瞬間、ぶわりと少女は耳まで赤くなった。
「な、なぜそうなるのよ!」
「甘えていいと言ったろ」
懸命に続ける俺の声は、緊張でからからだが、最後の秩序でそれを表には出さなかった。
「これが俺なりの、甘え方だ」
彼女はぐっと両手を握りしめ、何かを堪えるように息を吐いた後、静かにこちらを眺めた。
「いいわ。許可します」
がん、と鈍器で頭を殴られたような心地になった。いや俺だって、勝算もなしにこんな提案をしたわけじゃない。でもいざ本人から許可を出されると、なかなかの破壊力があった。
「さ、どうぞ」
固い声で告げる少女は、目をつぶることも知らないらしい。
じいっとこちらを眺める視線は、冷ややかでいて熱かった。俺は震えそうな手を彼女に伸ばす。そっとその顎を掬い、勇気を出して身をかがめた。見開かれた瞳に、ああ、はじめてなんだなと、妙な充足感を覚える。
重ねた唇は、柔らかい感触だった。やさしく、怖がらせないように、俺はそっとそれを汲む。
そうしてゆっくりと、身を離した。
身体が熱い。平静を保っているように見えて、これだけで俺はいっぱいいっぱいだった。
どうにか余裕のあるふりをして、口の端を上げて見せる。君だけしかいないのだと、そんな意味を込めて見つめれば、スノウベルに思い切り目を逸らされた。なぜだ。
「……何か不満だったか?」
「いいえ」
口元を抑える彼女は、どこかはにかんだ表情だ。嫌がっているわけではなく、照れていただけだと分かって、愛おしさがこみ上げる。
「俺は君の騎士だ。どこにも行かない。――だから君も、傍にいてほしい」
「及第点ね」
ようやく調子を取り戻したのか、スノウベルは静かに笑った。その頬はまだ赤かったけれど、それでいて気高さをまとっていた。
「カイン・エーベルト。愚かなわたしの騎士。――わたしはあなたを離さないわ。あなたが後悔しても、もう逃がしてあげない」
「望むところさ」
俺は彼女と同じように、熱い頬を隠し、食えない笑みを浮かべてやる。
そう、これが魔女と騎士の物語の、終わりであり始まりだった。
もうどんな未来であれ、何が訪れて来ようとも、俺達はそれを、まっすぐに見据えることができるはずだ。
新たな運命を待ち受け、迎え撃つ準備はできた。
見渡す限り、王国はいつもと変わらず、それでいて鮮やかだ。
広がる世界は、透き通る風に吹かれ、古くからそうであったように、そこに存在していた。
俺の胸には、臨む未来への熱い期待が宿っていた。
きっと俺達なら、どこまでも進んでいけるだろう。
ねえ、君もそう思わないか、スノウベル?
ちらりと視線を向ければ、まるで当然だというように、魔女は美しく微笑んだのであった。
これにて黒騎士の物語はひとまず終わりです。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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また、次回作の転生物も書いていますので、リンクを本編の下に貼っておきます。そちらも良ければよろしくお願いします。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。