月女神の神殿
目を開けるとそこは白い世界だった。
三日月……?
夜空にぽっかり浮かんだ三日月にしては、ずいぶんと巨大なような……?
ぼやけていた目が焦点を結んでくると、自分の真上にあるものが月ではなく三日月型の窓なのだと分かった。乳白色のすりガラスがはめ込まれた天井窓。
どうやら私は仰向けに寝っ転がっているらしい。降り注いでくる月光は、窓ガラスが増幅しているのかまぶしいぐらいだ。
これと似たようなものを見たことがある。その時は太陽の光だったが。
……たしか、パイシーズを追い出される前、神殿で見た気が……。
「おう、目ぇ覚めたか」
心臓が跳ねた。
乱暴な口調こそレグルスに似ているが、奴ではありえない声。
やや低音だが明朗な響きの……女性の声だった。
反射的に身体を起こそうとしても腕に力が入らず、くたりと倒れ込みそうになる。
「おっと、無理すんなよ。お嬢ちゃんは三日も寝こけてたんだぜ? 急に動いちゃ体がついてかねーよ」
「あ……すいません」
細いけれどしなやかに筋肉のついた腕に支えられ、至近距離でその女性を見てしまう。
思わず見とれずにはいられないほどの美貌だった。
月光を紡いだような、という形容が当てはまる淡い金髪。レグルスの髪よりも白金に近い色をしたその髪を、活動的に結いあげている。
意志の強い瞳に、弓なりの眉。
高貴さをまとうのに、どこか野性味を帯びた不思議な女性。
彼女はからからと笑って言う。
「いいって、いいって。礼なんざいらねーよ。そこのクッションにもたれかかっとけ。上体あげとくのしんどいだろ?」
「……ありがとうございます」
体がだるいのは事実だったので、お言葉に甘えさせてもらった。
そうして彼女がベッドの縁に長い足を組んで座ったところで、ようやく気がつく。
彼女の右手には包帯が巻かれ、三角布で肩から吊られていた。……骨折でもしているのだろうか。
「あ、これ? いや、ちょいとしくじっちまってね。赤毛の毒サソリにぼきんとな。あーあーあー、あんな小僧にしてやられるとは、あたしも老いたもんだ」
気まり悪そうに折れた右手に視線をやり、頭をがしがしと掻くさまはまるで悪童のようだ。行儀悪く高々と組んでいるせいで絹のローブの裾からのぞく足は、最上級品らしい絹布よりもなめらかで美しい。
「どこをどう見ても老いたなんて言うお年には見えませんが……?」
「おーう、嬉しいこと言ってくれるねぇ、お嬢ちゃん」
「……私は今年で21になりますけど……。お嬢ちゃんと言われる年では……」
「かかっ、あたしから見たら十分お嬢ちゃんだ。こー見えても結構な年になるんでね」
見た目と実年齢が合っていないということだろうか?
けれどこの目の前の美女は、見た目も言動も若々しすぎてとてもそうは思えないのですが。
当人はにやにやと音がしそうな笑みを浮かべて、私に顔を近づけてきた。
「さって、と。何から聞きたい? 疑問がいっぱいあんぜ、って顔してっから端からあたしが解消してやるぜー?」
とにもかくにも、話しを聞かないことには始まらない。
尋ねたいことは沢山あるけど、まずは……。
「ここはいったい、どこなんでしょうか?」
「ま、当然の疑問だよな。ここはあたしが統括してる神殿の『新月の間』、ってとこだ。ちなみに今お嬢ちゃんがいるのは祭壇な」
「ちょっ、罰当たりな……!?」
慌てて祭壇から降りようとすると、またもやからからと楽しそうに笑う美女に腕を引かれた。
「いいっていいって。ここはあたしの気に入りの昼寝スポットだぜ? クッション置いてあんのがその証拠だろうが。大丈夫大丈夫、月女神様は祭壇で男女がやらしーことするレベルの罰当たりやらかさねぇ限り、大目に見てくれるって」
「うわあ、それでも気になるんで降ります」
「疑りぶけーなー。神官長のあたしが言ってんのによー」
なんか今、ものすごくぞんざいな口調で大事なことを言われたような。
「……神官長、ですか?」
「ああ、そ。あたしの名前はレアネイラ。このサジタリアス王宮の左神殿で長をやってる。ったくよー、政治の中心で神官職とかまじで大変でさー。タヌキ爺どもがうるさいのなんの。今の国王陛下は頭が良いっつーかずる賢いっつーか、有能なあたしを楽隠居させてくんねーし」
「サジタリアスの……王宮?」
阿呆のように言葉を繰り返すしかできない私に、レアネイラ……様はうんうんと頷き返してくれた。
「そりゃびっくりするわなー。でもよ、あたしも嬢ちゃんが運び込まれてきた時はびっくりしたんだぜ。なにせあの冷徹鉄面皮で通してる銀髪のお犬様が、眉間に苦しげーなシワよせて『この女を助けろ』ってぇ駆け込んで来たんだからな」
明瞭な声で紡がれた言葉だが……どうにも良く分からない。
…………銀髪の、お犬様?
何ですか。私は人間に連れられてきたわけじゃないんですか?
けれど『銀髪』『犬』という単語だけ抜き出せば、記憶の泉からぱっと飛び出してくる名前がある。
「……まさかシリウス、が?」
「そのとーり。ったく、あのお犬様は恋心なんつー愚かしいもんの持ち合わせはありませんってな澄ました奴だったくせに、腕に抱いてあるもんが大事で仕方ないって顔してて爆笑もんだったぜ」
「レグルスは……私の旅の連れはどうしたか、知りませんか?」
レグルスの手を握って、眠りに落ちたことは覚えてる。
けど今ここにレグルスがいなくて、シリウスに連れて来られたということは眠っている間に私は捕まったんだろう。
頭に浮かんだのは、レグルスが斬り捨てられたのではという可能性。
嫌な予感に背筋を冷たい汗が伝った。
「あー、レグルスってのは……リーオーの王子様だろ? そいつも今、この王宮にいるぜ」
なぜか気まずそうな顔をして、レアネイラ様は肩をすくめた。
「ま、息をしてるのは確かだから安心してくれ。嫉妬に狂ったお犬様に斬られたりしてねぇから。……でも会えるとは、思わないでくれよ。今はな」
「それはどういう……」
意味ですか? と問いかけたかったのに、勢いよく扉が開いて言葉を呑みこんでしまった。……前にもこういうことがあったような気がする。
「レアネイラ様っ! エセルさんが目を覚ましそうって本当ですか……ってエセルさん! 良かったですっ! お目覚めをこのミーファ、お待ちしておりました!」
軽やかな足取りでベッド……じゃない祭壇のそばまで来たのはドレス姿の美少女だった。
ふわふわのミルクティー色の巻き毛が腰まで豊かに流れ、薄紅色の地に幾重にも光沢のあるレースを重ねたドレスと調和している。
黒曜石のような瞳は大きくて、今にもこぼれそうな涙をたたえてうるんでいて、愛くるしさ倍増だ。
こんな砂糖菓子みたいに可憐なお姫様、知り合いにいないはずだけど……。
本人が言った名前と、記憶にある声は見事に一致してしまうのだ。
「…………まさかミーファ?」
「はいっ! ……ああっ! そういえば人間姿でお会いするのは初めてでした! これは失礼を! では、改めましてミーファです。あああ、でも証拠がありません! びっくりすればウサギになれますが、どうしましょうか。レアネイラ様、わたしを驚かせてくださいませんか?」
「いやいやいや、大丈夫だよミーファ。その声と口調で十分納得できたから」
そう言うと、ミーファはへにゃっと笑み崩れて……私にがばっと抱きついてきた。
綿菓子系美少女の姿になっても、その感触は温かでやわらかで……ウサギミーファを抱っこした感触と似ていて、思わず笑ってしまう。なごむ、というのはこんな気持ちを言うのかもしれない。
サジタリアス国王陛下もこのなごみ具合にまいってしまったのだろうか。
「……王様愛しのお姫様が駆けつけてくれるとは、おそれ多い感じがするよ」
「大丈夫ですっ!」
「…………王様に怒られたりしないの?」
「はいっ! エセルさんが運び込まれましてから、このミーファ、気が気でならず……よって授業にも身が入らず、お叱りをいただきました! そして『ただでさえ出来が悪い上にやる気もないとはどういう了見だ、この馬鹿ウサギ。そこらで大人しく草でも食んでいろ』と陛下じきじきにお許しをいただき、自由時間が増えたので問題は皆無です!」
「………………えーと、ごめん。なんか色々とごめん」
なぜ謝られたのか分からないと、きょとんとするミーファ。
……本当に分かってないんだろうなぁ。天然ってすごい。
というか国王陛下の人物像に、辛辣というキーワードが加わった。
ミーファが離れたので、確認を行ってみる。
自分の寂しい胸元をのぞいて……うん、しっかり黒い刻印があるね。消えてたらいいなとは、都合のよすぎる思惑だったか。けれど体調はそんなに悪くない。体がだるいのは何日か寝ていたからだろう。まったく、王宮に運び込まれるまで目覚めないとは何事だ。
……幻覚が出てきそうな感じも、今のところ、ない。
それだけ確認し終えると、ようやく少し落ち着いた。
顔を上げるとレアネイラ様と目が合う。にやり、と笑われて、確認すべきことはまだまだあると再確認した。




