虫取り
幸一は夢中で跳び続けた。
カマキリの姿が見えなくなっても、止まることはできなかった。
止まったら、また襲われる。
そんな気がしていた。
どれくらい跳び続けただろう。
ようやく足を止めると、辺りはさっきまでいた場所とはまるで違っていた。
草はまばらで、土がところどころ見えている。
見渡しても、トノサマバッタの姿はほとんどない。
さっきまでの楽園とはまるで別の世界だった。
幸一は草の陰に身を寄せ、その場にうずくまった。
「助かった……。」
幸一がほっとしたのも束の間だった。
「ママ! こっちにもいないよ。」
聞き覚えのある声に、幸一ははっと顔を上げる。
虫取り網を持った小さな男の子が、草むらの中を歩いている。
翔太だった。
その後ろを、春が歩いてくる。
「今日は虫さんが少ないね。夕方、雨が降るって天気予報で言ってたからかな。」
春は草むらを見回しながら言った。
翔太は残念そうに空を見上げる。
「うん。いつもはもっとチョウが飛んでるんだけどな。」
考えるように首をかしげると、翔太はふっと笑った。
「パパがね、黄色いチョウは一ポイント、白いチョウは二ポイント、大きいチョウは三ポイントって決めたんだ。」
「そうだったよね。」
春も笑顔でうなずく。
「どっちがたくさんポイントを取れるか、いつも勝負してたもんね。」
「うん!」
翔太は元気よくうなずいた。
「ママは虫取りが苦手だから、その勝負はパパとしかできないんだ。」
「早く、またパパと勝負したいな。」
幸一の胸が熱くなった。
きっと翔太が本当に求めてたのは、虫を捕まえることでも、勝負に勝つことでもない。
ただ、自分と一緒に笑う時間だったのかもしれない。
(翔太……。)
今は、抱きしめること、話しかけることもできない。
それでも――。
(何か一つでも、翔太の力になりたい。)
幸一は、気づけば体が前へ跳んでいた。
(そうだ。あっちには大きなカマキリがいるぞ。)
いつも図鑑を見ながら、「大きなカマキリを捕まえたいな」と話していたのを思い出した。
幸一は必死に羽を震わせる。
ギチッ、ギチッ。
「あっちだよ。見てごらん。」
そう伝えたいのに、人間の言葉にはならない。
翔太はその音に気づき、ゆっくりと振り返った。
「ママ!」
翔太の目は幸一だけを見つめていた。
(違うんだ、翔太。)
(教えたかったのは、パパじゃないんだ。)
翔太は、幸一を見つけると目を丸くした。
「わあ!大きい!」
「ママ、見て!すごく大きいトノサマバッタ!」
春もしゃがみ込み、目を丸くした。
「本当だね。こんなに大きいのは珍しいね。」
翔太はうれしそうに虫取り網を構えた。
「よーし!捕まえるぞ!」
その姿を見た春は、足を止めた。
「翔太!待って」
「そんなに立派なトノサマバッタ、翔太にはちょっと難しいんじゃない?」
「ママも捕まえられないから、やめといたら」
(そうだ、春。そのとおり。)
(今日はそのまま帰ろう。)
幸一は心の中で何度もうなずいた。
翔太は少しだけ考えた。
でも、首を振る。
「ううん。パパに見せてあげたい。」
「パパ、こんな大きいトノサマバッタ見たことないと思うから。」
その一言が、幸一の胸に深く響いた。
翔太は虫取り網を握り直した。
いつものように勢いよく追いかけることはしない。
逃げられないように、一歩ずつ、そっと近づいてくる。
きっと翔太にとっても、こんなに大きなトノサマバッタを捕まえるのは初めてなのだ。
その姿を見ていると、幸一は思わず笑みがこぼれた。
(そんなに頑張ってくれてるんだな。)
(おとなしく捕まってやってもいいかも。)
「いくよ!」
翔太がそっと網を振り上げる。
その瞬間だった。
幸一の後ろ足に勝手に力が入り、体は本能のまま高く跳び上がっていた。
(違う……!)
(逃げたいんじゃない。)
幸一は必死に振り返ろうとした。
だが、後ろ足は止まってくれなかった。
遠くから翔太の声が聞こえた。
「あっ、逃げちゃった……。」
網を持ったまま、残念そうに立ち尽くす翔太の姿が小さく見えた。
バッタの体は、翔太から離れるように動き続けた。
本能のままに翔太から逃げた幸一は、草の陰へ身を潜めた。
まだ胸は激しく脈打っている。
けれど、それ以上に恐ろしかったのは別のことだった。
逃げようと思ったわけじゃない。
体が勝手に逃げたのだ。
(どうして……。)
幸一は自分の後ろ足を見つめた。
お腹がすけば草を探し、危険を感じれば考えるより先に跳び上がる。
少しずつ、自分の体はトノサマバッタになっていく。
そのとき、不意にある考えが頭をよぎった。
(もしかして……。)
(もう、人間には戻れないんじゃないか。)
朝から何度もそう願った。
目を閉じれば元に戻っているかもしれない。
もう一度眠れば夢から覚めるかもしれない。
けれど、どれだけ時間が過ぎても、自分はトノサマバッタのままだった。
幸一は目を閉じる。
もし、このまま人間に戻れなかったら――。
ぐう……。
また強い空腹が襲ってきた。
悲しんでいる暇などない。
幸一の体は、本能のまま草を探し始めていた。
(こんなときまで、お腹が減るなんて……。)
幸一は苦笑しながら草にかじりつく。
悲しくても、怖くても、お腹は減る。
草を食べなければ、生きてはいけない。
それが今の自分だった。
むしゃ、むしゃと葉をかむ音だけが、静かな草むらに響く。
幸一は葉をかみながら、目を閉じた。
(人間の心だけは、忘れたくない……。)




