第3章 ねらわれる
ガサッ。
草むらの奥で何かが動いた。
幸一の体が、ぴたりと止まる。
見えない。
けれど、何かがいる。
頭で考えるより先に、体が危険を知らせていた。
ガサッ。
次の瞬間、黒い影が草の間から飛び出した。
幸一の体が、ぴたりと止まる。
ネズミだった。
人間だったころなら、公園や道ばたで見かけても、
「珍しいな。」
そう思うくらいだった。
せいぜい写真を撮るか、子どもに「ネズミだよ」と教える程度だっただろう。
けれど、今は違う。
目の前にいるのは、小さな動物ではない。
自分を食べようとする天敵だった。
ネズミの黒い目が、幸一をまっすぐ見つめる。
幸一は後ろ足に力を込めた。
体が矢のように宙へ飛び出す。
さっきまでいた場所を、ネズミの鋭い前歯がかすめた。
(速い!)
着地した瞬間、もう一度跳ぶ。
草を越え、茎を越え、夢中で前へ飛ぶ。
後ろを振り返る余裕などない。
ネズミは一直線に追いかけてくる。
幸一は全身の力を振り絞った。
もう一度。
もう一度。
後ろ足で地面を力いっぱい蹴る。
その瞬間だった。
背中の殻がわずかに持ち上がった。
「えっ?」
その隙間から薄い羽が勢いよく広がり、体がふわりと宙へ浮く。
幸一は草むらの上を滑るように飛んだ。
「と、飛んでる!」
自分でも信じられなかった。
跳ぶことしかできないと思っていた体は、羽を広げると短い距離なら飛ぶことができた。
ネズミは草の下を必死に追いかけてくる。
幸一は夢中で羽ばたいた。
思いどおりには飛べない。
ふらふらと風に流されながらも、ようやく背の高い草むらへ飛び込むと、ネズミはしばらく辺りを探し回り、やがてあきらめたように走り去っていった。
幸一はその場にうずくまった。
心臓が激しく打っている。
足は震え、しばらく動けなかった。
(食べられる……。)
その言葉が頭から離れない。
人間だったころ、「命の危険」をこんなにも近くで感じたことは一度もなかった。
けれど、この草むらでは違う。
さっきまで夢中で草を食べていた場所が、ほんの一瞬で命を奪われる場所になる。
草を食べるときも、休むときも、空や草むらの音から目を離せない。
少しでも油断すれば、その瞬間に食べられる。
(これが、トノサマバッタなんだ……。)
バッタにとって生きるということは、食べることだった。そして、食べられないように逃げ続けることだった。
幸一は大きく息をついた。
「少し休もう……。」
そう思った。
ところが、そのわずか数分後だった。
ぐう……。
また強い空腹が襲ってきた。
「もう?」
幸一は自分でも驚いた。
さっきあれだけ食べたばかりなのに、お腹はもうぺこぺこだった。
本能に引き寄せられるように、目の前の草へ飛びつく。
むしゃ、むしゃ、むしゃ。
夢中で草をかじる。
「あれ……。」
幸一は頭を上げた。
「この草、おいしいな。」
みずみずしくて、やわらかい。
かめばかむほど甘みが広がる。さっき食べたクローバーとは別格だった。
「ススキだったのか。」
秋になると風に揺れていた、あの草である。
ふと周りを見渡すと、あちこちで草を食べるトノサマバッタたちの姿が目に入った。
一匹、二匹ではない。
十匹近いトノサマバッタが、思い思いに草をかじっている。
争うものはいない。
ときどき近くの葉へ跳び移るくらいで、みんな夢中でススキをかじっていた。
一面に広がるススキの草むらを、やわらかな風が波のように揺らしていく。暖かな日差しが降りそそいでいた。
幸一はホッとした。
(ここなら、ちょっとは安心できるかもしれない。)
そう思いながら、近くにいた一匹のトノサマバッタへ、そっと近づいてみた。
「ねえ。」
「ここは安全かな?」
そう話しかけたつもりだった。
けれど返ってきたのは、
ギチ……。
という小さな音だけだった。
相手のトノサマバッタも、こちらをちらりと見ただけで、何事もなかったように草を食べ続ける。
(やっぱり話はできないか……。)
幸一は寂しく笑った。
それでも、同じトノサマバッタがこんなにも集まっているのだから、この場所はきっと安全なのだろう。
ほっとした幸一は、触角を揺らしながら辺りを見回した。
すると、一匹のオンブバッタが目に入った。
小さな体を背中に乗せて、草の葉を渡るように歩いている。
親子じゃない。あれは、つがいだ。
幸一も、それくらいは知っている。
それなのに――。今の幸一には、不思議と親子にしか見えなかった。
背中の小さなバッタが翔太に見えてくる。
「パパ、抱っこして。」
あの声が耳によみがえった。
仕事へ向かう朝も、休みの日も、翔太はよく両手を広げて甘えてきた。
「もう大きいんだから。」
そう言いながら抱き上げると、翔太はうれしそうに笑っていた。
幸一は空を見上げた。
「また、抱っこしてやりたいな……。」
葉をかじる音が、ふいに消えた。
幸一が顔を戻すと、さっきまで草を食べていたトノサマバッタたちが、一斉に動きを止めている。
何があったんだろう。
幸一が視線をたどると、草の奥で細長い緑色の影がゆっくり揺れていた。
緑色の大きな影が草の間から姿を現した。
カマキリだ。
幸一は息をのんだ。
目の前に現れたカマキリは、人間のころに見ていた姿とはまるで違っていた。
全身は鮮やかな緑色。
三角形の顔はぴくりとも動かない。
それなのに、大きな目だけが獲物を逃さないように幸一を見つめている。
細長い体を左右に揺らしながら、一歩、また一歩と近づいてくる。
そして何より恐ろしかったのは、胸の前で静かに折りたたまれた鎌のような前足だった。
あの鎌が閉じれば、ひとたまりもない。
幸一は頭で考えるより先に、本能でそう感じていた。
カマキリは急ぐことなく距離を縮めてくる。
その姿は、まるで「お前はもう逃げられない」と言っているようだった。
幸一の体が凍りつく。
(逃げろ……。)
そう思ったときには、周りのバッタたちは一斉に跳び始めていた。
幸一も力いっぱい後ろ足を蹴る。
体が宙へ舞う。
そのすぐ後ろで、
バサッ。
カマキリの前足が勢いよく閉じた。
一匹のトノサマバッタが捕まった。
「……!」
幸一は思わず振り返る。
仲間は必死にもがいていた。
けれど、カマキリの前足から逃げることはできなかった。
幸一は目をそらし、夢中で跳び続けた。
止まったら、自分も同じになる。
そのことだけは、本能が教えてくれていた。
草むらをいくつも飛び越え、ようやく安全そうな場所へたどり着く。
幸一はその場にしゃがみ込み、しばらくじっと動かなかった。
さっきまで楽園だと思っていた場所は、ほんの一瞬で命を奪い合う世界へ変わっていた。
この草むらには、本当に安全な場所などないのかもしれなかった。




