五章 その②
「女性がひとりで、ここから飛び降りるとは考えにくいな」
ティアナの部屋の窓から暗い外を見下ろして、ジェラルドが呟く。いつも穏やかな彼の表情も、さすが若干険しい。
エルシーは一旦部屋に戻ると、急いで着替えてから、再びティアナの部屋に入った。
アーネストからの報告によると、砦の警備は万全で、怪しい人物の出入りはなかったという。しかし、状況から察するに誰かが王女を窓から連れ去ったと考えるのが妥当だろう。だが、抵抗したのなら、隣りの部屋にいたエルシーが物音を聞いているはず。それがなかったというのなら、意識を失った状態にされた可能性が高い。
「申し訳ありません、陛下。窓が揺れるような音を耳にしましたが、もしかしたら何者かが王女様を運び出す音だったのかもしれません。もし王女様の身に何かあれば、この命をもって償います」
「君の命をもらったところで、私は少しも嬉しくないんだが。それに、王女を寝ずに見張っているように指示しなかった私も悪い」
ジェラルドは淡々とした口調で答えた。
「王女に何か変わった点は?」
「……少しお疲れのご様子でした」
「そうか……。とにかく、君は自室に戻るように。あとは何とかする」
少し突き放すような彼の言い方に、エルシーはますます委縮した。彼なりの労いの言葉だったのかもしれないが、これ以上できることはないと宣告されたようで、エルシーの胸は痛む。しかし、ジェラルドの言い分は最もなので、そのまま大人しく部屋に戻ることにした。
(せっかく〝声〟が教えてくれたのに、何の役にも立てないなんて……)
エルシーは廊下でふと足を止めた。
(そうよ、いつも〝声〟は危険な時、警告的な言葉で伝えてきたわ。でも今回は、いない、という状況だけ……。さらわれたなら、もっと〝声〟が騒ぐはずよ。もしかしたら、王女様は自分の足で、出て行ったんじゃ……)
まだ近くにいるのかもしれない。
エルシーは、ティアナの部屋に戻ると、意識を集中させて念じてみた。
(お願い、王女様がいなくなって大変なの。どうか、行き先を教えて)
手を組み合わせ、ぎゅっと目を瞑る。
(いつも避けてきたくせに困った時だけ〝あなたたち〟に頼ろうとする私なんて、助けたくないのはわかってる。でも、王女様は何かに悲しんでるみたいなの。私のことは助けてくれなくていい。でも、あの方をどうしても探したいの。命を懸けて異国にやってきたディアン様やパメラさんのためにも)
エルシーの願いが通じたのか、小さな反応があった。
《ソト、シタ》
導かれるように、エルシーは廊下に出ると階を下りる。途中見張りの護衛には、「自分も捜索中だ」と告げた。
館の外へ出ると、森の中に捜索隊の赤々とした松明の灯りが散らばっている。
《シタ》
意味がわからないまま、仕方なくエルシーは灯りのほとんどない方へと進んだ。アーネストに知らせることも頭をよぎったが、どこにいるのかわからないし、他に意識を飛ばすことで〝声〟を聞きのがしてしまうことは、今はなんとしても避けたかった。
辺りに注意を払いながら、ゆっくりと進む。すると、足元がぐらりと揺らいだ。慌てて踏み留まろうとしたが、もう片方の足も取られてしまう。
(まさか、崖……!)
気づいた時には遅かった。咄嗟の出来事に悲鳴も上げられないまま、エルシーの身体は落ちていく。
「痛い……」
それほど高さはないように感じたものの、身体をがけ下の地面に打ち付け、左足首も少しひねってしまった。最悪なことに落ちた衝撃で、ランタンの火が消えてしまっている。
心細くなり辺りを見渡すと、遠くの方に火の灯りが見えた。
(捜索隊だわ、よかった)
エルシーは何とか立ち上がり、足を庇いながらその方向へ進んだ。近づくにつれ、ふたりいるとわかる。ひとりはフードつきのローブを身にまとい、もうひとりはマントのようなものを羽織っている男だった。聞き取れないが、何か話しているようだ。騎士団服ではないことを訝しみながらも、エルシーが近くの木に寄りかかりながら、助けを求める声を上げようとした時。
「私をここで殺しなさい」
女性の声がはっきりとエルシーの耳に届いた。間違いなくティアナの声だ。それに応えるように、男が腰の剣を抜く。ローブの人物がやや身じろぎし、フードから銀髪がのぞいた。
エルシーは驚きで目を見開く。足の痛みなど忘れて、勢いよくふたりの前へ飛び出した。
「ダ、ダメー!!」
身を挺してローブの人物――ティアナの身体に飛びつく。その反動で、エルシーはティアナに抱きついたまま地面に転がった。すぐには起き上がれない。このままきっと自分は背中を斬られてしまうのだろう。
しかし次の瞬間、剣が弾ける音とともに男の呻き声が響いた。急いで振り返ると、アーネストが男に向かって剣を構えている。周囲からは次々と捜索にあたっていた騎士たちが集まりつつあった。
男は観念したように、がくりと地面に膝をつく。ただちに拘束され、他の騎士たちに連れられていった。
嵐のように一部始終を見届けて、エルシーはようやくティアナから身体を離す。
「ティアナ様、お怪我はありませんか?」
「……ええ……ありがとう」
少しだけ微笑むと、ティアナはなぜだか悲しそうに目を伏せた。エルシーが痛む足を我慢して立ち上がると、アーネストが代わりにティアナの手を取り立たせてくれた。
「見つかったか」
知らせを受けたジェラルドも合流する。ティアナは深く頭を下げた。
「陛下……申し訳ありません」
「無事ならいい。話はあとで聞く」
ジェラルドは何かをティアナに囁くと、そのまま彼女の腰に手を当てて館へと戻っていく。
ティアナを心配しながら見つめていると、エルシーの身体がふっと宙に浮いた。
「アーネスト様⁉」
「怪我をしていては、歩くのも難しいだろう」
エルシーを横抱きにしながら、アーネストは茂みの中をずんずん進んでいく。他の騎士たちは見て見ぬふりを決め込んでいるのか、無言で館の方へと引き上げていく。それが余計にエルシーの羞恥を煽る。
しかし、痛む足ではあの崖すら登れない。ここは諦めてアーネストに身をゆだねることにした。
どうしてこんな所にいたのか、という彼からの質問に、エルシーはこれまでの経緯を説明する。
「声にずっと『下』と言われ続けてわからなかったんですけど、地面より下、つまり崖下を指していたんですね。この一帯の地形がわかっていたら、よかったんでしょうけれど」
「それにしたって女性がひとりで夜中に暗い場所を歩くのは危険行為だ。ましてや俺の大事な妻だぞ。何かあったらどうする」
「はい……反省しています」
怒られているのに、なぜだか少しくすぐったい。
館に到着すると、直ちに足首の応急処置が行われた。王都に戻って詳しく診てもらう必要があるが、従事していた軍医によれば大した怪我ではないということだった。
それでもしばらくは安静を余儀なくされた。ティアナのもとにすぐにでも駆けつけられない代わりに、アーネストが現時点で判明していることを教えてくれた。
王女を襲った相手は、かつての王女派、つまりティアナを女王に推していた勢力の人間で、ティアナが他国に嫁ぐことがどうしても許せなかったらしい。その男は地下牢に繋がれているという。
ジェラルドはすぐに処刑したりせず、男をローランザムに送り返すつもりらしい。事が大きくなれば当然ティアナにも火の粉が飛ぶのを防ぐためかもしれない。
今、ジェラルドはティアナとふたりきりで部屋に籠ってしまったため、それ以上の情報は得られていないとのことだった。
翌朝、出立の前、ティアナがエルシーのもとを訪れた。
「そのままで構いません。今は動かないでください」
ティアナは立ち上がろうとするエルシーを座らせると、近くの椅子に腰を下ろした。
「怪我の状態はいかがですか?」
「お気遣いいただきまして、ありがとうございます。軽くひねったくらいですので、すぐによくなると思います。それより、ティアナ様がご無事でよろしゅうございました。こんな時に充
分なお世話ができず、申し訳ありません」
「私のことなら大丈夫です。こう見えて、自分のことは大抵こなせるのですよ」
安心させるように、ティアナは微笑んだ。しかし、その表情は次第に沈んでいく。
「私を探している最中での怪我だと聞きました。申し訳ありません。私がひとりで部屋を出なければ、あなたにこんな怪我を負わせなかったのに」
「……やはり、ご自分から出ていかれたのですか?」
「ええ。……昨晩、私を襲った者の正体を聞きましたか?」
「……はい。かつての王女派の者だったと」
「そうです。でもそれだけではないのです。彼は……私がローランザムの王位を継ぐ際には、王配、つまり私の将来の夫の立場に一番近い者だったのです」
「えっ」
思いがけない告白に、エルシーは息を呑む。
「正式に婚約したわけではありませんが、有力貴族出身で、私は幼い頃から彼を知っていました。あまりにも近くにいて兄のような存在で、恋愛感情はありませんでしたが、私の大切な家族でした。周囲もいつかはそうなるだろうと、見守っていたようでした。……しかし、国内で争いが起きるのを避けるため、私は王位継承権を放棄して、アシュクライン王国へ嫁ぐことを決めました。それが最善の策だと思っていた……でも彼の中では納得できるものではなかったのです」
昨夜、護衛の目をかいくぐって窓から侵入してきたその男は、ティアナと話をしたい、と言ってきた。ティアナはすぐに追い返そうとしたが、一緒に来なければこの砦の爆薬庫に火をつける、と迫ってきた。普段は穏やかだった彼がそんな過激なことを言うとは信じられなかったが、追い込んでしまったのは自分だと、ティアナは自責の念にかられた。
外にはちょうど掴まれる木があり、木登りが得意だった彼女は窓から抜け出したのだという。
「ティアナ様は、なぜ、ご自分を殺すよう、おっしゃったのですか?」
「私が彼の人生を狂わせてしまったからです。形はどうあれ、私は彼を裏切ってしまったのです。彼もここまで追いかけてくるということは、それほど私への憎しみが強かったということだったのでしょう。彼だけじゃない……ディアンも私のために本当の人生を歩めなかった。私の存在が、彼の人生を台無しにしてしまった」
ティアナは少し沈黙したあと、再び口を開く。
「陛下にはすべてお話しました。もちろん、こんな私は大国の妃に相応しくない、ということも。でも陛下がお心変わりする様子はありませんでした。もちろん、このことは口外するなとおっしゃいましたが、あの場に居合わせて私を庇ってくれたあなたにだけは、話さなければいけないと思ったのです」
「……ご安心ください。私ももちろん、誰にも言いません」
「ありがとうございます……」
エルシーの真っすぐな視線を受けて、ティアナの表情が少し和らいだ。しかし、その瞳はいまだ暗闇を彷徨っているように思える。
無理もない。ティアナは昨夜、兄のように慕っていた人物に殺されかけたのだ。その男が何を語ったのかはわからないが、自分を殺せ、とティアナに言わしめるほど、憎悪に満ちた言葉を浴びせたのかもしれない。ティアナも彼に対する負い目から、抵抗できなかったのだろう。
「ティアナ様……僭越ながら申し上げてもよろしいでしょうか?」
「……なんでしょう」
「先ほどディアン様の人生を台無しにしてしまった、とおっしゃいましたが……ディアン様はそうは考えてはいないと、私は思います。命を省みず身代わりとなって来られたのは、もちろん王女様への忠誠心もあるのでしょうけれど、全ては大切な王女様のため、王女様の愛する祖国と民のためではないでしょうか」
やや目を伏せながら、ティアナはエルシーの話を聞いている。
「ディアン様と一緒にいたのは短い間でしたけれど、ティアナ様や王家への恨みなど少しも感じませんでした。むしろ王女様を思うお姿は、とてもご立派でお美しかった。ですので、どうかティアナ様も、ご自分の身を大切になさってください。あなた様がご不幸な結末を迎えられたら、ディアン様もパメラさんもとても悲しみます。……もちろん私も」
ティアナはゆっくりと視線を上げた。
「……不思議ですね。陛下にも同じことを言われました。私の身は、もう自分ひとりのものではないと」
「そ、そうだったのですね、申し訳ありませんっ」
いつのまにか諭すような話し方をしてしまった自分を恥じて、エルシーは慌てて頭を下げた。しかも恐れ多くも王と同じような発言をしていたとは。
「謝らないでください。こちらこそ、不思議だなんて言ってごめんなさい。……嬉しかったんです。この国にも私の身を案じてくださる方がいらっしゃったことが」
ティアナがわずかに微笑む。暗雲が立ち込めていたティアナの表情が少し晴れたことに、エルシーは安堵した。




