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四章 その①

 アシュクライン王国、王都リアド。


 爽やかな秋空の下、バルコニーの椅子に腰掛けたエルシーはひとり、白布を手に一心に刺繍針を進めていた。もうすぐ実家の母の誕生日なので、早くこの贈り物を完成させたい。今日は貴族からのお茶会などの誘いもないので、作業ははかどりそうだ。


「奥様、お茶をお持ちしました」

「ありがとう。とってもいい香りね」


 侍女から控えめに声をかけられ、エルシーは微笑みながら答えた。刺繍の手を休め、サイドテーブルに置かれたカップを持つと、前方に視線を移す。


 貴族街の中でも広大な屋敷を構えるセルウィン公爵家の庭は、それは見事だ。丁寧に整えられ、季節は夏から秋に移行しても花の色が絶えることはなく、細部に渡り人の手が行き届いている。


 エルシーの視線のさらに向こうには、小高い丘に建つ荘厳な王城が見えた。今日も夫であるアーネストは王立騎士団長として任務にあたっている。



 ふたりが結婚してまもなく三ヶ月が経つ。挙式の場所は王都で一番大きい教会だった。


 式の際、いつもの騎士団の黒い軍服ではなく、白い正装服をまとったアーネストはどこかの国の王族かと見紛うほどの気品にあふれていた。さらに言えば、少し後ろに流れるように整えられた黒髪によって精悍な顔立ちがいっそう露わになり、ほのかに漂う大人の色香に女性の参列者たちから感嘆の息が漏れた。もちろん、エルシーも心臓を射抜かれたひとり。


 そのあと、セルウィン公爵家で参列者をもてなす盛大なパーティーが催された。苦手だったダンスは最後までつつがなく踊ることができた。これも時折、アーネストが練習時から、息を合わせるように上手くリードしてくれたおかげだろう。彼は剣の腕だけではなく、ダンスも完璧だった。


 こうしてエルシーは、その日からセルウィン公爵夫人として新しい人生をスタートさせた。名門貴族の女主人として、どうたち振る舞えばいいかわからず最初は尻込みしてしまったが、アーネストは何かを強要してくることはなく自由にさせてくれている。使用人たちも皆、優しくて親切だ。おかげでエルシーは気兼ねなく過ごすことができている。


 例の“声”は、ほとんど聞こえてこなくなった。だが、寂しいとは思わない。本当に心から願った時だけ、その存在と繋がれるのではないか、とエルシーは思うようになった。回顧するのは、オーモンド邸での出来事。庭の木陰に隠れ、追手が来ないよう願ったが、声たちはエルシーに反応することはなかった。しかし、もしかしたら声たちが眠っているオーモンド氏を目覚めさせ、ヴィンスたちの意識をそちらに向けさせることで、結果的に自分たちは救われたのではないか。都合のいい解釈かもしれないが、彼らへの感謝の思いがエルシーの中に生じている。


 


 最初の一ヶ月はアーネストと過ごす時間も多かったが、二ヶ月を迎えた頃から彼の仕事は次第に忙しさを増し、遅くに帰宅することも多くなった。


 それもそのはず、あと少しで国王ジェラルドとの婚姻のため、東のローランザム王国からティアナ王女が輿入れするのだ。国境まで騎士団が出迎えるにあたり、そこから王都までの道中の安全と整備、婚礼の儀や王家主催の夜会での騎士と衛兵の守備体制など、一切抜かりなく確認し、準備を整えておかなくてはならない。



 そして、日は流れるように過ぎ、いよいよ明後日、王立騎士団が国境に向かって出発する。明日からしばらく騎士団棟に泊まり込む、ということで、その日珍しくアーネストが早めに帰宅した。


まだ陽の沈まないうちから、ゆっくりとふたりで晩餐を楽しんだ。それから湯浴みを済ませたエルシーが夫婦の寝室で待っていると、ほどなくしてアーネストが現れ、ベッドに腰かけていた妻の横に座った。


 湯上がりの爽やかな香りがエルシーの鼻腔をくすぐった瞬間には、もうすでにアーネストの腕の中に閉じ込められている。


「さっきも話したが、しばらく留守にする。家を頼む」


 国王の花嫁を出迎えるため第一騎士団から選抜された騎士師団を率いるのは、アーネストではなく、副団長のグレッグだ。国王が王都にいる限り、騎士団長のアーネストはそのそばを離れられない。しかし、道中のささいな伝令も受け取り可能にするため、王宮の騎士団棟で待機しておく必要があるのだ。


「承知いたしております。こちらのことは心配なさらないでください」


 エルシーは微笑みながら夫を見上げた。


 結婚してからこれまで、アーネストと離れて過ごした夜は一度もない。寂しい気持ちはもちろんあるが、自分は騎士団長の妻。しっかりとした心構えで夫を見送らなければ。


 言葉に出せない分、エルシーはアーネストの逞しい胸板に頬を擦り寄せた。すると、自分を抱きしめる腕にさらに力が加わった。夫も同じ気持ちでいることがわかり、エルシーの口もとは喜びに綻ぶ。


「しばらく君に触れられなくなると思うと、耐え難いものがある」


 そう呟くと、アーネストはエルシーの頬に手を添えた。ゆっくり上向かせると、妻の美しいエメラルドグリーンの瞳を見つめる。


 その眼差しは、毎夜幾度となく自分の心と身体に刻まれた熱を呼び覚まし、エルシーは羞恥から静かに目を閉じた。


 アーネストは妻の唇を自分のそれで塞ぐと、そのままベッドにゆっくりと押し倒した。シーツの上に艶やかな金髪が広がる。いつもに増して優しくアーネストに抱かれ、エルシーは夜通し、甘い熱に浮かされ続けた。





 一週間後。


 ローランザム王国の王女ティアナを乗せた馬車一行が王宮の入り口に到着した。無事に王女を守り帰還した師団を労ったあと、アーネストは整列している騎士団の面々とともに、王女が馬車から降りてくるのを待った。


 やがて、侍従が踏み台を置いた。馬車の扉がゆっくりと開く。


 異国からやって来た花嫁とは一体どんな人物なのか。一同は緊張と好奇心の中、王女が姿を見せるのを見守っている。アーネストも王女の絵姿を見たことはなく、これが初対面だが、他の騎士たちと違って好奇心は全くない。アーネストの関心は、あの国王と手を取り合って国の安泰と発展のために一緒に歩んで行ける人物たるかどうか。その一点だった。


 まずローランザムのお仕着せを身につけた二十代前半らしき侍女が降りた。整った顔立ちだがやや吊目のその侍女は、険しい眼差しで周囲を一瞥すると、馬車に向かって手を差し出す。


「ローランザム王国第一王女、ティアナ殿下にあらせられます」


 侍女と同じく祖国から同行してきた年配の侍従が、声高に宣言する。


 アーネストは前に進み出て、その場に片膝をついた。他の騎士たちも同じ体勢を取り、出迎えたアシュクライン王国側の侍女たちは腰を低くし頭を垂れた。



 しかし、手を借りて馬車から降り立った人物を見て、一瞬アーネストの眉が少しだけ動いた。祖国の威信をかけて、さぞ豪奢に着飾っているだろうと想像していたが、実際の王女は全く反対の出で立ちだったからだ。


 全身は黒いローブにすっぽり包まれ、顔は同系色のヴェールで覆われている。そのせいで顔がよく見えない。しかし、じろじろと眺めるのは王族への不敬にあたるため、アーネストは素早く頭を下げた。ローランザム風の旅装だと、思えなくもない。


「お初にお目にかかります。私は第一騎士団長アーネスト・セルウィンと申します。我々第一騎士団が王女様の護衛を務めさせていただきます。以後お見知りおきを」

 

 アーネストがそのままの体勢を保っていると、やがてヴェールの向こうから「出迎えご苦労様です」とか細い声が聞こえてきた。


 予定では、このあとティアナ王女は新しく用意された部屋に案内されることになっている。アーネストは、あらかじめ決めておいた王女の護衛騎士数人に目配せをした。一番近くにいた彼らは、背筋を伸ばして前に出ると、入城する王女に付き従っていった。


「グレッグ」


 アーネストは副団長のもとへと足を進める。


「ティアナ王女は、どんなお方だ?」


 国境から王都まで四日ほどの行程だ。途中、数回宿を取っているはずだから、王女と接する時間もあっただろう。


「ああ、それが王女様はあまり表に出てこなくてな。俺たちの前に現れたとしても、いつもあの格好だったよ。最初はびっくりしたけど、だんだん慣れてくるから不思議だな。でも、すぐに馬車に乗り込んでしまわれるから、俺たちも王女様の容姿がよくわからない」


「そうか……」


「だが、厄介なのは……」


 グレッグが声を潜めた。


「王女様つきの、あの侍女だ。名前はパメラだったな。彼女、いつも王女のそばに張り付いて、あの怖い顔で俺たちの様子をうかがってる。あれこそ真の護衛だよ」


「それほど忠誠心が厚いということじゃないのか?」


「よく言えばそうだが、もうちょっと態度ってものがあるだろ。あれじゃ、王宮内の気位の高い侍女たちとも早々にもめて、結局王女様は孤立してしまうぞ」


 グレッグは肩をすくめた。


 アーネストは彼ほど深く心配していないにしても、ティアナ王女が早くこの城の環境に慣れてくれることを願った。



 

 その二日後の夕刻。


「旦那様がお戻りになりました」という侍女の言葉を最後まで聞かずして、エルシーは自室を飛び出した。ドレスを持ち上げて、小走りで廊下を進む。


 玄関で家令に上着を預けているアーネストの姿が視界に入り、エルシーは満面の笑みを浮かべた。


「お帰りなさいませ……!」


「ああ、ただいま」


 少し頬を上気させながら、でも駆けてきたことを隠そうと平静を装い、たおやかに微笑む妻を見て、アーネストの口元も綻ぶ。こうして自分が帰宅したことを全身で喜んでくれる存在があるというのは、なんと幸せなのだろう。


「お疲れでしょう? お食事の前に、少し休まれますか?」


「いや、その前にエルシー、君に話があるんだ。着替えてくるから部屋で待っていてくれ」


 そう言い残し、アーネストは廊下の奥へ進んでいった。


 


 小首を傾げながらもエルシーが夫婦専用の居間で待つこと数分。


 騎士団の制服を脱いで、軽装になったアーネストが現れた。妻の顔を見て、両腕を大きく広げる。意図を理解したエルシーもパアッと顔を明るくして、夫の胸に飛び込んだ。


「ずっとお待ちしておりましたわ! ご無事で何よりです」


「戦地に赴いたわけではないんだ。大げさだな」


 笑いと呆れを含んだ口調ながらも、アーネストはエルシーの華奢な身体を思いきり抱きしめる。その声には嬉しさが滲み出ていた。


 ふたりは、ひとしきり抱擁したあと、ソファに並んで腰かける。


「それで、お話とはどのような?」


「ああ……。二週間後には、陛下と王女殿下の婚礼式が執り行われる」


 アーネストはソファの背に身体を預けた。


「ええ。存じています。私達も臣下として、式への参列を許されているんですよね? そのことで何か?」


「いや」


 アーネストはかぶりを振ると、エルシーの手を優しく握る。


「明日、俺と登城してほしい。王女殿下のことで、陛下から直々に君に、お達しがある」


「えっ……私に、ですか?」


 突然のことにエルシーは驚いて目を丸くした。王女殿下と自分は何の関係もなければ、面識すらない。しかも国王直々にエルシーに何かを言い渡すという。知らないうちに、自分は何かをやらかしてしまったのだろうか。


「そんなに不安がることはない。俺も同席させてもらえるよう、陛下に上奏したから」


「そ、そうなんですね……。ですけれど、一体どんな内容なのでしょう。アーネスト様は何かご存知ですか?」


「……大体は。要は、王宮侍女として培った君の経験をもって、王女殿下の心を開いてもらいたいそうだ」


「私の経験で……?」


 一体、王と異国の姫君の間に、何があったというのだろう。エルシーの困惑を少しでも解消するため、アーネストが説明した内容は次の通り。


 王女が王宮に入って二日が経過したが、最初の謁見のみ顔を合わせただけで、王女は部屋に閉じこもっている。王がどんなに歩み寄ろうとしても、体調不良を理由に、頑なに拒否されているのだという。だが、医者に診せることは一切拒み、祖国から連れてきた侍女以外には自分の世話をさせない。長年勤めてきた王宮侍女たちの介入は許さず、他の使用人も締め出しをくらっており、不満が出るのは時間の問題。侍従からの話が耳に入り、王は当惑していたが、そこへ王太后が助け舟を出した。


『だったら一度、エルシーに……今はセルウィン公爵夫人だったわね。彼女に相談してみては? 彼女は我が娘グローリアを宥めるのが一番上手だったもの』


 まさに天の声とも言える王太后の何気ない発言で、エルシーに白羽の矢が立ったのだ。


 「もちろん、嫌ならはっきり断っていい。俺もそれは陛下に念押ししてある」


「ええ……明日、とりあえず、陛下のもとへ向かいます」


 エルシーは話を聞きながら、まだ会ったことのない王女に思いをはせた。政略結婚とはいえ、王族であるという理由だけで慣れ親しんだ祖国を離れて嫁いできた王女の心中を思うと、切なくなってきた。もしかしたら、国に大切な思い人を残してきたのかもしれない。


「王女様はどんなお方なのでしょうか?」


「ローランザム王国第一王女、ティアナ殿下。御年十八」


「では、私とふたつしか変わらないんですね」


 王太后がエルシーを名指ししたのも、年齢が近い方がいいだろうという思慮からかもしれない。


「一度だけ、ちゃんとお姿を拝見したことがある。銀髪の長い髪に、薄紫の瞳をお持ちだ」


 実はアーネストは、黒いローブもヴェールも取り外したティアナの姿を一度だけ見たことがある。


 それは、王女が王宮に到着した日。馬車から降りた王女を見送り、一旦執務室に戻ったアーネストとグレッグは、国王ジェラルドから謁見室に呼び出された。謁見する身支度が整った王女が今から来るので、王の供をせよ、という命令だった。


 本来の姿で謁見の間に現れた美しい髪色の王女を見て、護衛の騎士、侍従、侍女など複数の者から、見惚れるような溜息が漏れる。


 ティアナ王女は少しだけ前に進み出ると、小声で挨拶をし、ドレスをつまんで膝を折った。そのドレスも、どちらかというと身体のラインを強調しないゆったりとしたデザインのもので、黄と白の中間のようなはっきりしない色だった。肌の露出は少なく、おまけに飾り気もない。


 ローランザム王国は海に面し、他国との貿易も盛んな国だ。このアシュクライン王国と比べて半分ほどの領地だが、それでも国は豊かで財源も潤っているはず。それなのに、その国の王族である彼女の質素な身なりは、アーネストの目にとても不自然に映った。


 一方、エルシーは渦中の王女に思いを寄せるうち、気持ちが少し前向きに動き始めていた。人に頼りにされるのは、とても光栄なこと。それ以上に、誰かの役に立てるなら、もっと嬉しい。


 結婚してから、エルシーは仕える側ではなく、誰かに尽くされる立場になった。屋敷の中でつい侍女の仕事を手伝おうとしても、「とんでもございません、奥様」とやんわりと断られる。それが正しいあり方だと理解していても、どこか違うと感じている自分がいる。そして気づいたのだった。自分はいつの間にか働くことが好きになっていたという事実に。


「……陛下のお話を聞いた上で、もちろんアーネスト様がよろしければ、ですけれど……そのお話、お受けする方向で考えてみてもいいでしょうか?」


「俺は君の意志を尊重する。ただし無理はするなよ」


 はい、と微笑むエルシーを、アーネストはそっと抱き寄せた。

















 




 

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