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第19話 お化け

 叔父さんの小屋は遠い。自転車で40分たっぷり掛かる。

 サッカースタジアムを中心としたスポーツ公園がある。その向こうに広がる田圃と草原の、さらに奥だ。

 スポーツ公園脇の道をひたすら走る。夜だ。予想外だったのは、右の歩道を走っているが、車道を対向車が走ってくるとヘッドライトが目に入り、さらに垣根の影が真っ黒にできて、足元がまったく見えなくなるのだ。もちろん自転車のライトはつけているが、小さな楕円の光ができるだけで頼りないことこの上ない。すぐそこにぽっかり穴が開いているんじゃないかという不安に駆られる。早く反対側に渡りたいが広い道路で案外交通量も多く、まだしばらく横断歩道はない。

 公園はまだ増設整備中だ。アルミの塀が立ち並び、まったく街灯のない地帯に入った。車が走ってこなくても真っ暗だ。不安に思っていたら、ガツン、と前輪が何かに衝突して急激に速力が鈍った。パンクだ。工事中の道路の穴を塞ぐ鉄板が渡してあるのだが、衝撃軽減用のマットがずれている。なんてついてない。馬木は自転車を降りて呆然とした。

 どうしたものか? 叔父さんの小屋はまだまだ先だし家に帰るにもずいぶん来てしまっている。周囲に交番もなかったように思う。自転車を引いて歩きながら、公園の方を見た。たしか公園事務所がある。これだけ広い公園なんだから夜間警備員がいるかもしれない。パンクの修理道具がないか、予備の自転車でも借りられないだろうか? タクシーなんか乗る金は持ってきてないし、ここからの移動手段がない。

 しばらく歩いて公園の端近くまで来た。ここに事務所があるはずだが・・、あった、が、明かりがまったくついてない。外れだ。もう一つサッカースタジアムの近くにもっと大きな事務所があったはずだ。あっちなら、多分・・。しかし広い公園をかなり歩かなくてはならない。仕方ない、家まで歩いて帰るよりはましだ。自転車はとても引いていけないので近くの駐輪所に置いて覚悟を決めて歩き出した。

 公園内に入るところに電話ボックスがあった。人が入っているように見えたが、近づいていったらいなかった。照明でできる陰とバックの樹影のせいだろう。

 子供用のグラウンドや池に滝のある庭園を過ぎ、橋を渡りずうっと続く一本道を歩く。左手に様々な樹木が植わり、その向こうは大きな潟だ。右手は、何もない。土が盛られ重機が入っている。あのにっくきパンクした工事箇所がここの囲いの外だ。植物園ができるんだそうな。

 この道は、暗い。ポツリポツリとしか照明灯がなく、樹木の暗がりだらけだ。どこに何が潜んでいるか分からない。考えてみたら馬木は人一倍恐がりなのだ。よくも夜にこんな寂しい場所に来られたものだ。怒りに駆られて飛び出したが、今恐がりの性質が怒りをすっかり萎縮させてしまった。

 ああ、暗いなあ。嫌だなあ、嫌だなあ。

 誰かいないかなあ。でもいたらもっと怖そうだ・・・・

 照明の中に人影が浮き上がって心臓が飛び上がった。女の人だった。髪が長く、白い半袖ブラウスに白いスカートをはいている。靴は黒いハイヒールだ。

 どこから出てきたのだろう?

 ああ、トイレだ。木の陰から建物が現れた。馬木も尿意を催してトイレに入った。が、明かりがつかない。壁を探ってスイッチを入れたが、つかない。元が切られているらしい。やめようかとも思ったが一度催した尿意は抑え難く、ぼんやりざらざらした視界の中で便器を見極め用を足した。

 用を足しながら思った。女性用トイレは明かりがつくんだろうか? あの女性は、こんな暗がりの中、個室で用を足していたのだろうか? 想像してゾッとした。だいたいどこからこのトイレまで歩いてきたんだ? 一本道で一方は潟、一方は塀に囲まれた工事現場だ。おしっこが手に引っかかった。膝が震えている。洗面台で手を洗いながら、前の鏡を見るのが怖かった。入り口に近いので多少は明るい。でも、鏡を見て、そこに何かが映っていたら・・・・。馬木は恐がりなのだ。こんなところに来たことを心底後悔した。

 外に出て歩き出した。トイレの照明灯から離れまた暗い道に入った。急に蝉が鳴き出してビクッとした。蝉というのは昼夜関係なく鳴くものなのだろうか?

 次の照明灯の明かりが見えてきた。近づいていくと、またその中に白い女の後ろ姿が浮かび上がった。どこから現れた? さっきより距離が近い。まるで馬木が来るのを待っていたかのように・・。左手に展望台の建物がある。なんだ、ここに上がっていたのか。そういえば雲一つない星空だ。周りに高い建物も明るい光もない。星を見るにはいいだろう・・。でも、若い女が夜一人でこんなところに来るか? さっきは黒いと思ったハイヒールが、実際は真っ赤だった。

 馬木は決めた。この女についていこう。また消えられてビクビクするのは嫌だ。

 何もない空き地の向こうにサッカースタジアムが見えている。しかしあそこに辿り着くまでまだ数百メートルある。馬木は意地になって女の後をつけていった。距離は10メートルまでないだろう。歩くたびスカートにお尻の動きが浮き上がった。まるでストーカー気分だ。そうだ、幽霊がこんなにセクシーなわけない。だいたい足があるじゃないか、しっかりと・・・・。

 また照明の届かない暗がりに入った。女の白い背中が暗く沈んでいく。馬木は慌てて歩を早めた。見失ったら怖い。女の足も早まったような気がする。馬木はさらに急いで、女の足も早まって・・。

 馬木はふと我に返った。何をやっているんだ? 向こうも怖いんだ、怖がらせてどうするんだ? 足を止めて、ほっとした。なんだ、やっぱり普通の人だったんだ。ちょっと夜の公園の散歩を楽しんでいただけだ。恐い目に遭って、これで夜の一人歩きはこりごりだろう。女の姿は、もうない。馬木はゆっくり歩き出した。

 また照明灯の下に来た。もうスタジアムもずいぶん近づいてきた。意気揚々としたところ、ギクリと背中に冷たい水をかけられたように震えが走った。今通り過ぎた茂みの中にじっとこちらを見る女の顔があったように感じた。怖い視線だった。鋭い敵意を感じた。馬木は今度は背中にじっと恐怖を感じながら歩いた。ストーカーされて怖かったのだろう。でもあの敵意はなんだろう? 怖いならじっと気付かれないようにやり過ごせばいい。あれではまるで・・、刃物でも持って襲いかかってきそうだ。ああ、また暗がりに入る・・。

 振り向くべきか振り向かないべきか? 足音が聞こえないかとじっと耳を澄ましながら歩く。ジャリッ、ジャリッ、と自分の足音しか聞こえない。いない。ついてきていない。きっと反対方向に戻っていったんだ。もうすぐだ、もうすぐ木立を抜けて照明灯のたくさん立つ明るい広場に出られる。ピチャン、と潟の方から水音が聞こえた。フナでも跳ねたか?

 前方からまた人影が現れて馬木は絶望的な気分になった。白いブラウスとスカート、赤いハイヒール、あの女だ! ズンズンこちらに向かって歩いてくる。なんだ、今手に持った物が光ったぞ? ナイフ? 今照明灯の真下を通った。陰が黒くなる寸前女の表情が見えた。馬木を睨んでいた。殺してやる、と、その顔が言っていた。馬木はガクガク震えて、足が止まった。女が走り出した。腕を振り上げて、ナイフを振りかざして。

「う、うわ・・」

 腰が抜けそうになりながら馬木は元来た方に逃げようとした。

『振り向くな!』

 頭の中で強い声がした。

「え?・・」

 一瞬の躊躇の内に女がすぐそこまで迫っていた。恐ろしい形相でナイフの狙いを馬木の顔に合わせている。ムッとするきつい薔薇の香水の匂い。その裏からあの忘れようとしても忘れられない死臭がにじみ出てくる。

「ひい・・」

 声の警告を無視して振り返ろうとした。体を半分反転して、目だけ女の顔を見ている。その女の顔を突き破って手が伸びてきた。

「ひゃあああっ」

 馬木は今度こそ完全に後ろを振り向いた。

 女?・・がいた。がさがさに崩れたミイラの顔で馬木に抱きつこうと両腕を開いていた。白いブラウスを着ていた。

「ぎゃあああっ!!」

 死ぬ、心臓が止まる。馬木の顔をすり抜けて腕が伸び、ミイラ女の顔を張った。

「ギャアアアアアアアアッ・・・・」

 恐ろしい悲鳴を残してあっと言う間に数十メートルを吹っ飛び、そのまま闇に消えていった。

 馬木はガタガタ震えながら、気が付くと後ろから肩を抱かれていた。背中に柔らかい膨らみが当たっている。

「ええっ!?」

 慌てて飛び退いた。

「あ、あ、あなたは?・・」

 知っている! だが、これほど人間離れして美しい人を見たのは初めてだ。

 紅倉美姫! 星空のわずかな光を反射して大きな瞳が不思議な色に輝いている。

「先生。大丈夫ですか?」

 後ろから追ってきたのはアシスタントの芙蓉美貴だ。

「まったく、先生はどうして暗闇だとこうも足が速いんです?」

 文句を言いながら無事な様子にほっとして笑顔になった。こちらも最上級の美女だ。

「こちらが桜野葉子さんの彼氏ですか?」

「そ。馬木オット君、よね?」

「良人ですけど」

 紅倉の美しい笑顔に馬木もほっと笑顔になった。紅倉美姫が言う。

「あなたが見ていたのは影よ。あなたの頭が見ていただけ。本体はずうっとあなたの後ろからついてきていたのよ。あなたが彼女の後ろ姿に近づくのといっしょに近づきながらね。あなたは彼女に取り憑かれる寸前だったのよ」

 馬木は改めてゾッとした。

「彼女は、何者だったんです?」

「どうということのないふつうの浮遊霊よ。ちょっと悪い奴にそそのかされちゃったのね」

 幽霊はあんまりふつうとも思えないが・・。

「でも、・・紅倉さんは何故ここへ?」

 紅倉は表情を曇らせて言った。

「一人は間に合わず救えませんでしたからね。今度こそはと一生懸命さがしたんですよ。間に合って良かったです。あなたも、叔父さんに呼ばれて来たんでしょう?」

「え?・・・・」

 紅倉はさらに同情的に言う。

「残念ながらあなたの叔父さんはもう駄目です。既に亡くなられています」

「・・・・・・・・・・」

 ・・・・・・・・・・。

 何も、考えられない。

「残念です。事件の背景を明かす重要な生き証人の一人だったのに。また、先を越されてしまいました」

「・・叔父は・・」

 やっとの事で声を絞り出した。

「助けられなかったんですか?」

 紅倉は気の毒そうに言う。

「とても静かで、救われない心の人だったようですね。最後の最後まで誰にも救いを求めることはなかったわ」

 ・・やっぱり、叔父さんはそういう人だったんだ。何でもかんでも一人でうじうじ考えて、人に迷惑をかけないつもりで大迷惑になっている。

「どうします?」

 紅倉が訊いた。

「叔父さんの最期を見ますか?」

 馬木は、頷いた。

「では行きましょう。送ります」

 振り向いて歩き出した途端に紅倉はこけて芙蓉に助け起こされた。せんせ〜。ごめんごめん。


 スタジアムの明るい広場に出て馬木は訊いた。

「葉子は、やっぱり死んだんですか?」

 紅倉はしばらくの沈黙の後言った。

「たぶん。しかし彼女の死はあやふやではっきりしません。肉体は死んでしまったようですが、魂は、どこともつかないところを浮遊しているようで、見えません」

 肉体は死んだけれど魂は生きているなんて言われてもまるで実感できない。葉子は、死んだのだ。

 駐車場に止めてあった紅倉の車で叔父の小屋に向かった。

 車内にはやはり強烈な薔薇の香水の匂いと、あの、臭いが漂っていた。

「ごめんなさいね」

 紅倉が言った。

「え?」

「におい」

「いえ・・。すみません・・」

 運転する芙蓉が恐い目で睨んだ。

「あの・・、怖いんです。その・・」

「ああ、青木の死体を発見したのはあなただったんですねえ。もっとそっちの方をきちんと調べておくべきでした。今回は失敗ばかりです。

 どうやらわたしよりあなた方の方がいろいろ詳しいようですねえ。明日は先生にお会いしてお話をお伺いさせてもらいます」

 紅倉美姫は超A級の霊能力者なのだ。そうか、人の心が分かってしまうというのは辛いことが多いのだろう。この人間外の美貌もその能力と共に精神的な経験が大いに関係しているのかもしれない。

 叔父の小屋は田圃と畑に囲まれた草原の中に一軒だけポツリと建っている。カーテンを閉めた窓から明かりが漏れている。こんなところでも電信柱を立てて電気を引いてくれるのだから親切だ。馬木がここに来たのは3度くらいしかないが、記憶より伸びている気がする。建て増ししたらしい。

 ドアをノックして呼びかけた。

「叔父さん。良人です。叔父さん」

 返事はない。馬木は悲しくなった。

 ドアは開いた。形ばかりの玄関に靴を脱いで板の間に上がる。紅倉と芙蓉もついてくる。小さなキッチンに4畳の畳敷き。机に道具のいっぱい並んだ棚の作業部屋。その奥に記憶にないドアがある。建て増し部分だ。ここに、叔父さんがいるのだろう。霊感なんてなくても分かる。

 ノブをひねって、ドアを開く。

「叔父さん?・・・・」

 いったいどれが叔父さんだか一瞬分からなかった。56人の裸の女たちといっしょに叔父さんは溶けていた。生き人形。この部屋は叔父さんの最もプライベートで醜い心の世界そのものだった。女たちはまさに生きているように良くできていた。見事な物だ。この女たちに囲まれて、叔父さんはどんな生活をしていたのだろう?

 質素そのものの貧乏な小屋にそれだけ場違いに立派なベッドが置かれていた。そこに布団に入って少女が寝ていた。目の前にいる誰かに微笑んで。葉子だった。それが本人なのか人形なのか馬木には判断が付かなかった。

 叔父さんは人形にまみれて溶け崩れている。その首にロープの輪が巻かれているが、もう一方の端も輪になって投げ出されている。天井の梁が折れている。首を吊ったものの木が弱くて支えられず落下したようだ。それでは叔父さんの死因はなんだろう? 叔父さんの崩れた顔はだらしなく恍惚の表情を浮かべていた。こんな叔父さんの顔は見たくなかった。最低だ。汚らしい。

 つんと鼻を突く臭いが充満している。馬木が恐れていた臭いではない。ガソリンだ。床に黒いシミが広がっている。折れた梁からボタリボタリと黒い液体が滴っている。

 叔父さんが首を吊ろうとした辺りを狙ってビデオカメラが三脚に据え付けられていた。その上に「ヨッくんへ」とメモが張り付けられていた。

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