最終エピローグ(概要章0の紹介)
本作はフィクションです。作中に登場する個人、団体、地名、および事件などはすべて架空のものであり、実在の人物や組織とは一切関係ありません。いかなる類似も、純粋な偶然の一致(Coincidence)によるものです。
なお、物語の描写には、一部に生々しい身体の機能低下や精神的苦痛など、残酷な表現(R-15)が含まれます。あらかじめご了承の上、お読みください。
―― 一方、アメリカでは ――
セーフハウスの片隅にある冷却装置のかすかな羽音だけが、真夜中から夜明けにかけての静寂を埋めていた。
薄暗い部屋の中、空気は古びたコーヒーとプラスチックシールドの匂いが微かに混じり合っている。
アラサンタ・オーラにとって、壁の時計が指す2030年5月7日の深夜という時間は、自分がアメリカの地にいることを頑なに思い出させる錨のようなものだった。
だが、彼の意識はすでに日付変更線を越え、日本やフィリピンの東の海にとうに日が昇っているであろう5月8日へと漂っていた。
そこでは時間が1日進んでおり、自分たちの選択がもたらした結果が、すでにリアルタイムで現実のものとなりつつあるのだ。
アラサンタは手を伸ばし、こめかみに押し当てられたCITOSノードの冷たい金属の縁を指先でなぞった。ゆっくりと慎重にひねり、**ニューラリンク(Neuralink)**のアクセサリーごとデバイスを外すと、大脳皮質からデータが切断される際の、微かな幻肢痛のような感覚が走った。
インターフェースの光が消える。
彼はその重みのある精密機器を、内張りのあるブリーフケースに収め、特殊な鉛製の電波遮断シートを被せてからラッチをカチリと閉めた。デジタル世界は閉じ込められたが、胸の奥にある重苦しさは消えなかった。
「……もう、何が何だか分からないな」アラサンタは呟いた。
何時間も沈黙していたせいで、声が枯れていた。
机の向こうで、食べかけのプロテインバーを手に取った人物が、空腹感もないまま味気ない包装を見つめていた。
「このままじゃ、薄氷を踏むようなものだ。
たった一つの見落とし、たった一つのデータパケットの読み違えで、通常の軍法会議なんかより遥かに恐ろしい存在に居場所を突き止められる」
彼の向かいに座っていたのは、蛍光灯の下やクリーンルームの中で何年も過ごしてきた者のような、血の気のない真っ白な肌をした相棒だった。
アラサンタと同じく仕立ての良いフォーマルな衣服を身にまとっていたが、その襟元はわずかにくつろげられている。
男は小さな四角いダークチョコレートをかじり、その緑の瞳に近くの監視端末の淡い緑の光を反射させた。含みを持たせた静かな微笑が唇に浮かんだが、そこには本物の温かみは一切なかった。
「君の言う通りだよ、ルネロ」男は答えた。
その声はあまりにも完璧に調整され、滑らかな抑揚を帯びていた。
「僕たちの足跡は広がり続けている。
ネットワークにクエリを投げるたび、影を残しているんだ」
デスクランプが落とす影の縁に座るルネロは、膝の上に広げた紙の書類から目を上げようとしなかった。
親指で印刷された輸送マニフェストの端をなぞる。
「僕たちは、まずい相手の目をじわじわと引きつけている。
こんな国境を越えた指令に従うのは、何週間も前にやめるべきだったんだ。
賄賂の件だけでも、どれほど無能な監査官であっても、うちの物流ペーパーカンパニーを調べれば簡単に繋ぎ合わせられる証拠の山が残っている」
「それが、現実に起きていることだ」アラサンタは椅子の硬い背もたれに体を預けた。
「この部門に連れてこられた時、マニュアルなんてものはなかった。
通常の任務――職務、プロトコル、明確な責任の所在を期待していたんだがな。
しかし、Enumの追跡という任務の重要性を考えれば、我々にとってそれはFETや大統領、そしておそらくはもう一人の誰かの思惑そのものだったのだろう」
奥のオフィスのドアがきしむ音を立てて開き、**連合捜査局(ABI)**の局長が部屋に入ってきた。
がっしりとした肩と疲弊した目が印象的な男で、短い茶髪の生え際には白髪が混じっていた。
その暗く、瞬きもしない眼差しは、接続を切られたニューラルリンクが収められたブリーフケースに注がれた。
ABIのベテランとして、彼は従来の法執行機関と企業の主権との境界線が曖昧になり、やがて完全に消失していく様を見てきた人物だった。
「我々のエージェントの一人がWBIの内部を探った」局長は暗号化されたデータパッドをテーブルの中央に放り投げた。「Enumはすでに100万件以上の死亡例を調査していた。そして、彼自身――いや、彼そのものが、今やある大統領からアセットとして絶大な信頼を寄せられているようだ。彼が、CITOSとニューラリンクの間で対立を引き起こしている**『アニマリンク(Anima Link)』**の開発メンバーの一人だからだ」
新たなネットワークの名が出た瞬間、部屋の空気が一層冷たくなった。アニマリンクは世界のテック部門に打ち込まれた楔であり、確立されたCITOSとニューラリンクの土台を完全に置き換えるために設計された、侵略的なインフラだった。
それは通常のアップデートなどではなく、人間の意識が自動化されたロジックと相互作用する仕組みそのものの、完全な書き換えを意味していた。
「5月8日の時点で、我々はドイツで何が起きているかを確認していただけだった」局長は鼻梁を揉みながら続けた。「だが、誰かの悲鳴がはっきりと聞こえた。新秩序連盟(FNO)のジョアンだった。彼女も我々のアセットの一人だったが、殺害されていたことが判明した」
「それに、**太平洋捜査局(PBI)は国内のエンターテインメント・ネットワークで幽霊を追いかけている」ルネロがついに書類を置いて付け加えた。「PBIの報告によると、『MOSIAC』というゲームにおける『World0.exe』**の概念――かつてドイツで目撃したものと同じだ――が、すでにFETやWBIの地位に取って代わっているらしい」
アラサンタは立ち上がり、リノリウムの床でブーツの音を静かに響かせた。
強化窓のところまで歩き、ブラインドの隙間から階下の人通りのないアメリカの通りを見下ろした。
街灯は、地域の電力網が過負荷に陥っていることを示すように、不規則で不安定なリズムで明滅している。
「何が起きているのか、何かが浮上してきたのか、なんとなく分かってきた」アラサンタは宣言した。彼の声のトーンが変わり、ABI局長がハッと顔を上げた。
「僕たちに必要なのは、ここから逃れる方法、あるいはこの手に負えない状況から抜け出す術を本当に知っている人間だ。
エリア51の研究所から脱走した者がいる。
そして、僕たちがドイツに行った時の件と繋がっている以上、相手にしているのは『人間ではない』」
「これを特定の事象に巻き込むべきではない」局長はルネロの椅子の背もたれに手を置きながら警告した。
「**クープ将軍(General Coop)**がすでに確認し、FETを監視している。もしFETを信用してしまえば、ここから抜け出す道は完全になくなる。余計な真似をすれば、我々もジョアンの二の舞だ」
「その通りだ、モン(Mon)」ルネロは体の重心を移しながら呟いた。
「俺たちは、この国の土地で同盟を組んでいる他の組織のことすら、まともに連携もしていなければ把握もしていない」アラサンタは部屋の方へ振り返りながら言った。
「だが、あの場所を調べていた時に耳にした話では、奴らはある種の化学物質を使って精神的に、あるいはそれ以上に最悪な細工を施し、蚊のようにそれを撒き散らしているらしい」
彼は言葉を切り、書類の山の陰に忘れ去られていた、2025年のセキュリティ・シンポジウムの古いプリントアウトを見下ろした。
「それに加えて、ある作家が主張していた。
俺たち、あるいは俺たちのチームの外部にいる『奴ら』が、物語やフィクションというものを抹消しようとしていると。それは2025年の時点ですでに議論されていたことだ」
アラサンタは目を閉じた。
密閉された鉛のブリーフケースの残像が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「俺たちには、まだ何かが足りない」
―― 一方、ドイツでは ――
ドイツセクターの氷点下のアルペン風が、司令部出撃所の強化ガラス窓をガタガタと揺らしていたが、バンカー内部の空気は息が詰まるほど淀んでいた。頭上のハロゲン電球が規則的に明滅し、戦術マップや食べかけの野戦糧食が散らばる金属製のテーブルに、耳障りで幾何学的な影を落としている。
重い鉄の扉がプシューと音を立てて開いたときも、サスキア将軍は顔を上げなかった。彼女の背筋は何十年もの軍隊規律によって鍛え上げられたものだったが、その両肩には深く、慢性的な疲労がのしかかっていた。無骨な指の間に挟まれているのは、不揃いにちぎられた黒ライ麦パンの厚い切れ端だ。
彼女は痛々しいほどゆっくりと、意図的な動作で、濃厚で苦いホットチョコレートがなみなみと注がれた湯気立つセラミックマグにパンを押し込んだ。
彼女の冷ややかな視線の先で、どろりとした褐色の液体が気泡の多いパンの芯に染み込み、じわじわと広がっていく。
その向かいに、シュニッツェルが立っていた。彼は座ることも、強化壁に寄りかかることもなかった。代わりに、危険な断崖絶壁で日向ぼっこをする爬虫類の捕食者のように、今にも飛びかからんとする緊張感を漂わせてその場を支配していた。
その佇まいは、貴族的な優雅さと野蛮な威嚇を計算し尽くしたもので、胸を張り、傲慢に顎を突き出すことで、周囲のあらゆる物や人間を見下ろしていた。
「少し休ませてもらうよ、サスキア」
その言葉は、単に静かな部屋に落とされたわけではなかった。それは、独特のリズミカルな摩擦音を伴って、彼の歯の間から這い出てきた。
彼の声は奇妙にメロディックな抑揚を帯び、鋭く途切れるようでいて、聞き手に完全な服従を要求する、生まれながらの理不尽な優越感に満ちていた。
サスキアの手が止まり、パンは飲み物の暗いシロップの中に半分浸かったまま静止した。彼女はマグカップにそっとため息を吹きかけ、立ち上る湯気の向こうから、天才や化け物たちの奇行に見慣れた目を覗かせた。
「……好きにしろ」彼女は平坦な声で呟いた。それは下級兵舎で培われた、砂利を噛むような声音だった。「だが忘れるな。CITOSだけは使え。手首のアニマリンクは常に起動させておけ。通信を絶つなよ」彼女はついに頭を上げ、彼の鋭い顔立ちをじっと見据えた。
「お前、今は多少なりとも本気なんだな?」
シュニッツェルの唇の端が、小馬鹿にするように歪んだ。それは冷酷で、一切目が笑っていない、感情の籠もらない表情だった。過酷なハロゲン光の下で、まるで動物のように異様に輝く彼の瞳孔が、彼女の視線を受け止めて細い垂直の隙間へと収縮していく。
その瞳の奥には飢えがあった。
全人類を足場か、あるいは踏みつぶすべき障害物としか見なしていない、古く、貪欲な野心が脈打っていた。
「ちょっと調べたいことがあってね」彼は手首を鋭く鋭利に動かし、立ち襟のコートの銀の縁取りを無造作になぞった。
「あんたは関わるなよ」
彼は鋭く反転し、重い革ブーツの音を、まるで時計仕掛けのような正確なリズムでコンクリートの床に響かせた。そして素早く無駄のない動きで、洗練されたマットブラックの戦術用リュックサックに装備を詰め込み始めた。すべての動作が、過剰な集中力と狂気的なエネルギーに突き動かされていた。
彼は重いユーティリティベルトを腰に回し、兵士としての標準的な入念さではなく、己の爪の鋭さを確かめる獣のような縄張り意識を持って、固定バックルを確認した。
ストラップをきつく締め上げながら、彼の視線が肩越しに後方へと向けられ、再びパンとチョコレートに向き合うサスキアの頭頂部で止まった。
制服の生地の下で、彼の筋肉が強張る。
胸の奥に隠された空洞の中で、焦燥と怨嗟に満ちた思考の潮流が沸騰し始めていた。
(俺が絶対的な頂点に立つ)
その内なる独白は、容赦なく鋭利に彼の脳裏を駆け巡り、疑念や妥協の余地を一切残さなかった。
【あのクズどもが仕出かしたことの後に……あの屈辱、以前起きたあの貶めの後にだ。俺はあいつら全員の上に君臨してやる。この悍ましい世界のルールを決めるのは、この俺だ】
彼はコンクリートに響く鋭い金属音を立てて、パックのジッパーを荒々しく閉めた。「何かが起きれば、うまく合わせてやるさ」彼は声のトーンを一つ落として呟いた。
その声からは取り繕った魅力が消え失せ、生々しく尖った本性が剥き出しになっていた。
サスキアはふやけたパンの切れ端を、鈍い音を立ててソーサーの端に置いた。
「そうか……」彼女はため息をつき、そこにはない温もりを求めるようにマグカップの縁を指でなぞった。
「エヌムが何かを解決してくれればいいがな。すべてが完全に崩壊してしまう前に……」
その名が口にされた瞬間、まるで沸騰した油の桶に冷たい水を一滴落としたかのような衝撃が走った。
シュニッツェルの態度が、一瞬にして恐るべき変貌を遂げた。偽りのへりくだった姿勢は消え去り、今にも押し寄せる衝撃波のように、張り詰めた拒絶の緊張感が全身から放射された。
彼は大股で肉食獣のように一歩前へ踏み出し、その高い体躯で頭上の光を遮って、サスキアの小さなテーブルに巨大で息詰まる影を落とした。両拳は脇で固く握りしめられ、その凄まじい圧力に革手袋がきしむ音を立てていた。
「――あいつが誰だろうと、知ったことか!」
それは絶叫ではなかった。
己の飢えたプライドを乗せた、這い回るような、毒々しい掠れ声の咆哮だった。
彼は顎を激しく噛み締め、頬骨の皮膚は白く強張り、捲り上がった上唇の隙間から、明滅する電球の下で異様に尖った、牙のような歯が覗く。
「俺は人間の頂点に立つと誓ったんだ!」
彼はさらに身を低くし、彼女の飲み物から立ち上る湯気のすぐ近くまで顔を寄せた。その琥珀色の瞳には、狂信的で不遜なプライドが燃え盛っている。
「根を張り、淀み、己の保身のために他者を虐げる奴ら――もし誰であれ、誰であろうと俺の邪魔をするなら、この世界から引きずり下ろし、容赦なく消し去るまでだ!」
胸を激しく上下させ、浅く不規則な息を吐きながら、言葉が堰を切ったように溢れ出す。その過剰なまでの早口は、常人の倫理観では到底理解し得ない、骨の髄まで染み付いた怨嗟に突き動かされていた。
「あのクズども……何の行動も起こさない、無能な寄生虫どもめ! くだらない遊びに興じて、大した努力もしていないくせに、何一つ理由もなく莫大な富や恩恵を受け取っていやがる! 奴らは一人残らず虚無へと消えるべきだ。この世から完全に抹消してやる!」
彼の凄まじい悪意は室内に重く立ち込め、部屋の温度をさらに氷点下へと引き下げるかのような物理的な圧迫感と化していた。全世界が自分に血と栄光の負い目があると言わんばかりの、男の凶行の誓いが鉄の壁に反響する。
だが、サスキア将軍は眉ひとつ動かさず、ソーサーから目を上げることすらしなかった。
代わりに、彼の独白が途切れた静寂を、規則正しい音が切り裂いた。
コツ……コツ……コツ……
サスキアの重い軍靴のヒールが、コンクリートの床を急かすことなく刻む音だった。それは、かつて歴史の顎に自ら飛び込み、消えていった無数の傲慢な天才たちを見送ってきた老兵の、落ち着いた足音だった。
シュニッツェルの怪物じみた野心の外側には、広大で冷徹な世界の現実が厳然として存在していることを、無言で告げていた。
シュニッツェルは瞬きをした。
首筋まで駆け上がっていた狂気的な怒気の赤潮は、引き潮のように一瞬で消え去った。
両肩の力が抜け、心臓の一拍の間に、狂気的な緊張がその体躯から綺麗に抜け落ちる。表情は見る見るうちに平伏し、冷徹で無機質な仮面へと戻っていった。さっきまで牙を剥いていた獣を隠すように、檻の前に重いベルベットのカーテンが下ろされたかのようだった。
「だが、あんたは別だ、サスキア」
彼の声は、瞬時に滑らかで、まるで猫を思わせるような声音へと戻った。そして芝居がかった奇妙な魅力を湛え、剃刀のように薄い、かすかな笑みを浮かべた。
「他の奴らもな。あんたたちは……違う」
サスキアはついに顔を上げ、静かで疲れ切った笑みを浮かべて、刻まれた顔の皺を和らげた。静かな部屋に古い関節の音を響かせ、ゆっくりと立ち上がる。
そして二人の間のわずかな距離を縮め、彼の肩に柔らかく、重い手のひらを置いた。罠に飛び込もうとする野生の獣を繋ぎ止めるための、素朴で静かな引き留めだった。
「無事でいろよ、シュニッツェル」彼女は静かに言った。
シュニッツェルの身体は、彼女の手の重みの下で完全に硬直した。顎の端の筋肉がわずかに痙攣し、彼の視線は制服の上の彼女の指へと向けられる。その手の温もりは重く、まるで息が詰まるようで、彼が必死に振り切ろうとしている世界への足枷のように感じられた。
【……チッ。俺はこの場所を捨てる。一時的にあんたの前から消えてやるさ、サスキア】
彼の脳裏の暗い領域で、思考が牙を剥く。
【そんな目で俺を見るな。俺を引き留められるとでも思うなよ】
彼は正式な別れの言葉すら告げなかった。
上体を鋭くひねって彼女の手からすり抜ける。その動きは、まるで骨がないかのように滑らかだった。
彼は手首に目をやった。
アニマリンクのデジタルインターフェースが微かな青い光を放ち、解読不能なほど小さな文字でテレメトリーデータをスクロールさせている。
バンカーの狭いスリット窓から覗く中庭には、誰もいなかった。
彼の愛馬であり、彼以外の何者にも手綱を握らせない気性の荒い見事な黒い種馬は、いつもの場所には繋がれていなかった。サスキアの私設厩舎の衛兵たちの手によって、すでに駐屯地の奥へと移動させられていた。
シュニッツェルは将軍を振り返らなかった。
彼は司令室の周囲に最後の視線を走らせ、熟練した、偏執的な手際で監視カメラがないことを確認した。
そして踵を返し、氷点下の闇が広がる回廊へと踏み出した。彼のシルエットは施設の長い影に溶け込み、静かに夜の中へと消えていった。
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一方、何千マイルも離れた場所では、かつてのエリの屋敷にまったく質の異なる静寂が支配していた。
ここには軍事基地のような刺激的な薬品臭はなく、代わりに古い紙、朽ちゆく杉、そして役者たちが去ってから久しい舞台のような、深く積もった埃の匂いが満ちていた。生い茂る庭の中にひっそりと佇む広大な古風な邸宅。その壮麗な廊下には、破れた障子の隙間を吹き抜ける風の囁きだけが響いていた。
見捨てられた記憶の空白の中に、ただ一人の人間が残っていた。
彼女が広々とした部屋を移動する様は、廃墟を守るために残された執事の焦燥に満ちた雑用とは無縁だった。
それはまるで、下等な存在たちのコレクションを展示した博物館を巡回する、古代の神のごとき緩やかで魅惑的な気品に満ちていた。彼女はかつてエリフに割り当てられた審査官であり、彼が荷物をまとめてこの屋敷に背を向けるずっと前に、その血統、素質、そして最終的な存在意義に審判を下した張本人であった。
その姿は深遠で、恐ろしいほどの優雅さを体現しており、人間の直線的な時間の流れから完全に切り離されたオーラを放っていた。薄暗い午後の光を吸い込むかのような深い漆黒の髪は、左肩の上にゆるく編み込まれた長い三つ編みとなって垂れ下がっている。それはまるで眠れる蛇のようであり、彼女の作業にかかわらず完璧に整っていた。
彼女は確かに人間だった。
だが、邸宅の虚空を真に引きつけていたのはその瞳だった。それは古く発酵したワインに沈んだ砕けた宝石を思わせる、不自然で鮮烈な赤紫がかったマゼンタ色をしていた。その瞳には温もりもなければ、単純な悪意もなかった。ただ、インクですでに書き込まれた悲劇的な結末へと突き進む登場人物たちを見下ろす、作者のような冷徹で超然とした愉悦だけが宿っていた。
彼女はシンプルな白いリネン布を手に持ち、エリがかつて使っていた寝室の重厚なマホガニーのデスクの縁を拭った。木肌は剥き出しで、その表面には少年が日常で使っていた小さな道具による、ありふれた傷が残されていた。
「……エリフ・アトラチ、そしてリンフィン」彼女は誰もいない部屋に呟いた。
その声は空間に響くだけでなく、独特の共鳴を伴って高い天井の梁に跳ね返り、奇妙に演劇的な響きを帯びていた。まるでこの部屋自体が劇場であり、彼女が唯一の観客として、まだ見ぬ聴衆に向けてモノローグを放っているかのようだった。
「あなたたちは、本当にライバルというわけでもないのね?」
彼女の唇の端に、謎めいた微かな笑みが浮かんだ。それは予測不能な永遠の時間から見れば、凡俗の些細な足掻きなど退屈しのぎの気晴らしに過ぎないと冷笑する、審査官であり観察者としての傲慢さの表れだった。彼女はデスクから離れ、長い黒のスカートを床に引きずりながら歩いた。
その幾何学的な完璧さは、重力ではなく脚本によって一歩一歩が規定されているかのように、あまりにも不自然だった。
彼女は部屋の隅、遅い午後の深まる影に半分埋もれたベルベットのクッションチェアの傍らで足を止めた。高級な生地の端に、小さな金属製の物体――USBフラッシュドライブが残されていた。
慌ただしい出発の際に置き忘れられたのか、あるいは暗闇の中に足跡を残そうとした誰かが意図的に落としたものか。
彼女はすぐに手を伸ばしてそれを拾おうとはしなかった。代わりに、吸い込まれるように椅子に腰掛け、何一つ労せずして女王のような気品でベルベットに身を預けた。高い木製の背もたれに頭を預けると、長い三つ編みが鎖骨の上でかすかな衣擦れの音を立てた。
マゼンタの瞳がその小さな金属片に注がれる。まるで純然たる意志の力だけで、その筐体の中に保存されたバイナリコードを読み解こうとするかのようだった。
それからゆっくりと、彼女の視線は高い窓へと移った。灰色に曇った空から、床板の上へと長い紫色の影がこぼれ落ち始めていた。
「今頃、あの人たちはどこにいるのかしら」彼女は静寂に問いかけた。
その口調は日常の会話のようでありながら、芝居がかった冷淡さに満ちていた。「大いなる信託の追跡……大して期待できるものでもなかったわね。今のところ、何も起きない。
世界はただ、重苦しく、緩やかに回っているだけ」
彼女は青白い片手を挙げ、まるで目に見えないペンを握り、現実の織物そのものに線を引くかのように、空中で指先をわずかに動かした。
「それとも……」彼女の声は低く、リズミカルな呟きへと落ちていった。「人間の意識の中に存在する『現実』を信じることこそが、実体を持つというの? 個人の精神から湧き上がる偶然の火花……そして、その刹那の瞬間に、一つの意識が別の意識へと繋がり、私たちが現実と呼ぶこの脆弱なものに、不可逆的に縛り付けられる」
彼女は長く、ゆっくりとしたため息をついた。その響きには、たった一つの思いつきで無数の世界が興亡する様を見届けてきた者の重みが宿っていた。
瞳に冷ややかな、嘲るような愉悦が戻る。
それは、自らの創作物の苦しみや勝利を、単なる文体の要素としてしか見なさない作者の、紛れもない証拠だった。
「いいわ」彼女は誰もいない部屋に囁いた。「何が起きているか、書き留めておきましょう。どう見ても、これが彼らのささやかな演劇の、終幕のシーケンスなのだから」
彼女は手を伸ばし、小さなサイドテーブルの上に置かれた重厚な革装丁の手帳と、新品の万年筆へと指をかけた。
外の重い雨雲が太陽の最後の残滓を飲み込み、部屋は刻一刻と暗くなっていったが、彼女はランプを灯そうとはしなかった。
闇は彼女のもの。
親しいマントのように、その両肩を優しく包み込んでいた。
「作家が、あるいは作者が……」
彼女は影に向かって語りかけ、真っ白な紙面に万年筆の先をチッと鋭く響かせた。
「己の精神を完全なる絶対の集中へと追い込むには、ほんの一瞬の時間がいる。
そしてこの結びつきは、奴らの存在のルールや、くだらない論理に縛られるようなものではなかった。
偽らざる本心としてね」
ペン先が紙を引っ掻く、一定の、焦るきざしのないリズムが始まった。
静かな寝室に、創造の音が満ちていく。
彼女は自分の手元を見ようとはしなかった。
その視線は窓に固定されたまま、激しくなり始めた最初の雨粒がガラスを叩く様を見つめていた。
「これを知る者は……」
外の嵐の規則正しいドラムの音に、彼女の呟きが溶けていく。
「今は、私だけでいい」
――つづく――
読者の皆様へ
『倍響』第2巻を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。
少し舞台裏のお話をしますと、皆様により鮮明で没入感のある読書体験をお届けするため、文章の推敲やブラッシュアップにAIツールを活用しています。自身の体調管理に気を配りつつ、創作への情熱を燃やし、作品のクオリティを常に高められるよう日々努めております。
執筆活動は時に孤独な旅のようであり、作品を誰かに届ける難しさに直面しては、不安や挫折感に苛まれることも少なくありません。だからこそ、こうして皆様がここにいてくださることが、私にとって何よりの救いであり、大きな支えになっています。貴重な時間を使って私の作品に触れてくださったことに、重ねて深く御礼申し上げます。
次回からは、いよいよエリの謎めいた「審査官」が表舞台に現れ、この世界の裏側にあるより深い仕組みを語り始めます。ただし、彼女は一人の「作者」として、信頼できる語り手であると同時に、決して信用できない語り手でもあります。彼女が紡ぐ言葉の一言ひとことを、ぜひ注意深く見守ってください!
第3巻の構想はすでに動き出していますが、ここで少しだけ息抜きを挟み、別の創作プロジェクトともバランスを取りながら進めていく予定です。
改めまして、第2巻をお読みいただきありがとうございました。
皆様の応援こそが、この世界を動かす原動力です!
(※設定資料集「コンペンディウム」は後日公開予定です)




