私の主観と価値無価値
今から、ずいぶんややこい話をします。
整理することもせず、それゆえに偽らざる私の思考です。
一時、人はいずれ死ぬし、私という存在にもその他の他者にも価値などないと思っていました。
現に今もそれを真理とする気持ちはありますが、しかしこの「無価値さ」は何から見た評価なのかと考えてみてからは、自身の無価値さを過大に扱うことをしなくなりました。
私の言う「無価値さ」とは、突き詰めれば宇宙とか悠久の時の流れとか運命とか、そういった巨大で損なわれようのなさそうな、一見して絶対的に思えるものから見た際の評価でした。
自身の無価値さをことさら自覚し、人生の無意味さを忘れないところがありました。それに虚しくなることも、意外に救われることもありました。
行き過ぎたときには、「私も貴方も無価値なのに、敢えて肯定し合う必要を感じない」というような、「無価値」という評価を他者にも等しく下しているようなときもありました。
もっとも、これを悪いとは思いません。私にとって「行き過ぎ」であったと振り返るだけの事実です。
しかし、無価値な者同士で「貴方には価値がある」などとすることに何の意味があるのかと考えたとき、ふと宇宙やら運命やらにも絶対的価値など無いことに思い至ったわけです。
無価値な者同士の評価に価値がないなら、宇宙視点や運命視点での我々の「無価値さ」など、それ自体意味がない。意味がない以上、この事実はおよそ無視して問題ないのではないか。
絶対的な価値など考える必要も意味もなく、我々はあくまでも相対的な価値(つまり「私にとって」の価値の有無)における当事者でしかあり得ない(少なくとも主観上は)わけです。
ならば私は自信を持って、確信の上で「私には価値があります」と言えます。「貴方には価値があります」と言えます。当然、「私にとって」です。「私にとって」である限り、これはこれ以上ない確たる事実です。
この考えに行き着いてから、私はようやく躊躇うことなく「肯定」を行えるようになりました。人様が感覚的に行なっていることに、こんな方法でしか辿り着けなかったことが我ながら情けないですが、今はなんとも清々しい気持ちで世界に参加できております。
それだけの話です。
ずいぶんごちゃごちゃしましたが、以上、たったそれだけの話でした。




