DAY6:勇気を出す
七海さんは「荷物、置いてきますね」と言い残し、黒いリュックを抱えてロッカーのほうへ向かった。
ハムスターのマスコットが、歩くたびに小さく揺れる。その背中を見送ってから、俺はランニングマシンの前で、わざとらしく屈伸をした。
ほどなくして戻ってきた七海さんが、少し息を弾ませながら俺の前に立って言った。
「あの、なんだか五十嵐さんが、今日ジムにいるような気がして」
「え?」
「なんか変ですよね。でもそんな気がして、少し急いで来たんです」
そう言って、七海さんは微笑んだ。
(ああ……)
「そしたらほんとにいるから、びっくりしちゃいました」
(七海さん……)
「五十嵐さんは、いつジムに?」
「俺も、ちょうど今来たところです」
「良かったー」
その言葉を聞いて、胸の鼓動が早まった。
七海さんは、俺が言えなかった言葉を先に差し出してくれた。
「今日も歩きます?」
「はい」
気づけば、俺は少し上の空で返事をしていた。
「じゃあ、一緒に行きましょ!」
「そうですね」
俺たちはストレッチを済ませ、並んでランニングマシンに乗った。ゆっくりと歩き始める。
「それにしても、ほんとに当たっちゃうなんて。自分でも、予知能力とかあるのかもって思っちゃいました」
「そうですね」
俺は笑って返した。
(……いや、そうですねって、何がだよ……)
さっきから自分でもよくわからない返事をしている。
「こうして夜の街を見ながら歩くのって、心が落ち着きます。なんででしょうね」
「そうですね。なんでだろう……」
正面の窓に目を向けたまま、そんな返事をする。七海さんは隣で、楽しそうに歩いていた。俺たちは、のんびりとしたペースで歩き続けた。
それにしても――ジムに来る前から彼女のことを考えて、ここに着いてからは姿を探していた。
実際に会えたと思ったら、今度はまともな会話もできやしない。
本当は、聞きたいことがあったはずだ。
(そうだ、あの取り消されたメッセージ……)
俺は気づかれないように、隣を歩く七海さんを横目で見た。彼女は前を向いたまま、歩調を崩さない。
ふいに彼女がこちらを向き、目が合った。七海さんがニコリと笑う。
(……気づかれてるじゃないか、俺)
思わず前に向き直った。どうも上手くいかない。
それから、どれくらい歩いただろうか。
「ふぅ……少し疲れちゃいました。やっぱり体力ないなー、私」
七海さんはそう言って、マシンの速度を緩めた。
「私、今日はもう上がりますね。お話できて良かったです。それでは、また」
「ええ、また」
彼女は軽く会釈すると、ロッカーのほうへ歩き始めた。
(……おい、いいのかよ)
結局、あのメッセージのことは、七海さんから一言も触れられなかった。このまま、ジムでたまに会って話すだけの関係なら、それでいいのかもしれない。
(本当にいいのか? そもそも俺はなぜ彼女のことを考えてる? VTuberだからか? 有名な人だからか? 俺は、いま目の前にいる彼女と、もっと話がしたいんじゃないのか?)
だったら――
「あの!」
俺はマシンを止め、思わず声を上げていた。
「え?」
振り返った七海さんが、首をかしげてこちらを見る。
「言いたいことがありまして」
いざ呼び止めてみると、妙にかしこまった言い方になってしまった。
「はい、なんでしょうか?」
「この間のメッセージの件です」
「あ……すみません。私、間違えちゃって、すぐに取り消しただけなので。ほんとに気にしないでください」
「実は……取り消す前に、ちょうど見えてしまって。黙っていてすみません」
七海さんの表情が固まる。
「『謝らないといけないこと』って、もしかして初めて会った夜のことかなと思って」
七海さんは、瞬きをせずこちらを見ていた。
「あの、俺、あんまり詳しくないんですけど……あのとき一人で話されていたので、配信とかされていたのかなって。そこに俺の声が入っちゃったんじゃないかと思って」
「あ……はい。そうです、すみませんでした」
七海さんは何かを言いかけて唇を結んだ。そのまま、視線を足元に落とす。
「俺は、全然気にしていないので、安心してください!」
思ったより大きな声が出てしまった。
「七海さんが、ずっと気にしていたら悪いなと思って。ただ、それを伝えたかったんです」
七海さんが、ハッとしたように顔を上げた。
「もし、七海さんが迷惑じゃなければ……こうして、これからもお話しできたら嬉しいです」
言い終えた瞬間、急に自分の言葉が気になり始めた。
(ああ……俺、変なこと言ってないか?)
ジムで知り合った女の子に、急に何を言っているんだ。もう少し言い方があったんじゃないか。いや、そもそも呼び止める必要があったのだろうか。
けれど、七海さんは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと表情を和らげた。
「……すみませんでした。ずっと言えなくて」
そして、俺をまっすぐ見て続けた。
「それと、ありがとうございます。五十嵐さんは、私が言ってほしいなって思ってること、言ってくれるんですね」
「え?」
「なんだか、心の中を見られているみたい」
そう言って、七海さんは少し照れたように笑った。それに釣られて、俺も笑ってしまった。
(俺も、七海さんと同じ気持ちです)
その言葉だけは、どうしても口にできなかった。




