神饌の姫篇 エピローグ クシナダ姫はおにぎりを握る②
「お風呂、あがりましたー」
髪をふきながら居間に入ったメイは、目を丸くした。
お風呂に入る前は、楓と母と猫神に小鬼、仲良くソファにひしめいてテレビを観ていた。
でも今は、巨大な三毛猫姿の猫神が、部屋の半分を占領して寝そべっている。
その猫神に、母はエプロン姿のままよじ登り、うつ伏せに抱きついて、気持ちよさそうに目を閉じていた。
猫神も大きな目を細め、ゴロロー、ゴロロー、とゆったりのどを鳴らしている。
先にお風呂に入った楓はもうパジャマに着替えていたが、猫神によりかかってすわり、その豊かな毛並みを飽きずになでていた。
「あー、もふもふー、ふかふかー。夢みたい」
楓のつぶやきに、母も目をつぶったままにっこりする。
「ほんとにねー。大きいもふもふ妖怪さんの上で寝るって、小さいころの夢だったのよー」
母は猫神に抱きついた両腕にぎゅっ、と力をこめた。
「ミーちゃん……美夜古さん、うちに来てくれて、ほんとうにありがとう」
「こちらこそ。あたしを拾ってくれてありがとう」
猫神が照れたようにささやき、のどのゴロゴロ音がいちだんと大きくなる。
メイは、みなの邪魔をしないよう居間を出た。
客用布団を出しに行くと、小鬼が影から出て来て、そ知らぬ顔で敷き布団を持ちあげる。
「みんなと一緒にくつろいでくれてていいんですよ」
メイがささやくと、ふわふわ浮かぶ敷き布団の下から声が答えた。
「なんの、今宵は少々食いすぎたゆえ、腹ごなしじゃ」
小さいのに、ぺろりと一人前を平らげた小鬼を思い出し、メイは思わず笑顔になる。
一方、猫神は食事は少し味見しただけ。でも、甘いものはしっかり食べた。
(美夜古さんは甘党で、たぶんミルク味が好み! キバさんは好き嫌いのない食いしん坊!)
小鬼は辛いものもすっぱいものも、スーパーの売れ残りのお惣菜でも洗っただけのきゅうりでも、すごくおいしそうに食べる。
「あ、あとでお供えのお花もさしあげますけど、おなか、入ります?」
「もちろん! あれは別腹じゃ!」
浮かぶ敷き布団の下なので顔は見えないが、小鬼は期待に小躍りしたらしい。
布団がひょこひょこ上下する。
客用布団を運びこみ、テーブルを片づけはじめたところで、母が猫神の上で起きあがった。
「ありがとう、満喫したわ! またそのうち乗せてね」
「いつでもどうぞ」
猫神は、あぶなっかしく自分のおなかからすべり降りる母を、しっぽでさりげなく支える。
楓もようやく猫神の大きな身体から離れ、ぺこりと一礼した。
「ありがとうございました。すてきなさわり心地でした」
「そう? ありがと」
言ったかと思うと、猫神はふたたび人型に戻って立ちあがる。
「どろん、とか音、しないんだね。煙も出ないし」
メイにささやいた楓のセリフを聞きつけ、猫神が笑った。
「化けるたびにそんな音出したら、目立つでしょ。ま、変化の初心者にはありがちだけど」
「ありがちなんだ!」
などと盛りあがりながら小鬼まで総出でささっと居間のテーブルを片づけ、ソファを壁に寄せてスペースを確保、客用布団を敷いてしまう。
布団は二組。メイは今夜、居間で楓と寝る計画だ。
「美夜古さん、ソファ、寝られるようにできますけど、こちらでお休みになりますか?」
「うーん、どうしよっかな」
ここでみんなと寝ようか、それとも夜の散歩に出ようか、と考えているらしい猫神の衣服が、その考えに反応してかおしゃれな街着と、だぼっとした室内着の間を行ったり来たりする。
その、勝手にはためいているそでを、母がちょいちょいとひいた。
「あのね、もし悪くなかったら、なんだけど……」
「はい」
母に対する時はいつもすごく礼儀正しい猫神に、母は臆面もなくねだる。
「今夜だけでいいの。ふつうの猫さんサイズで、あたしのベッドで一緒に寝てくれない? 実はね、ふつうの猫さんと一緒に寝るのもひそかに夢で……」
「いいですよ」
にっこり快諾する猫神に、母はぱあっと顔を輝かせた。
「ありがとう! じゃあちゃちゃっとお風呂入ってくるー」
浮き浮きとはずむ足取りで出て行く母を見送って、楓が感嘆のため息をつく。
「わたしも猫さん大好きだけど、メイのお母さんにはかなわないかな」
「ミーちゃん……美夜古さんは近いうちに旅に出ちゃうから、名残惜しいんだと思う」
メイの返事に、楓は血相を変えた。
「えっ、猫さん、どこかに行っちゃうの!?」
「行くと言って聞かぬのじゃ。その前に変化の技を教えてくれと言うとるのじゃが……」
むくれる小鬼を、猫神は笑い飛ばした。
「バカだね、どのみちそんな、一朝一夕に身につきゃしないって」
猫神は布団の上に腰をおろし、メイと楓も手ぶりですわらせて、打ち明ける。
「あのね、そもそも化け猫は、人間の飼い主に正体ばれたら、出て行くのが習わしなわけ」
「ええー、そんなのべつにいいと思うけど」
と言う楓の頭上で、小鬼も「そうじゃそうじゃ」と加勢する。
猫神はにっと牙を見せて笑った。
「それにちょっと、お礼を言いに行きたい相手もいるんだ」
と言う猫神の声の響きの向こうに、メイはふとなつかしい面影を〈見〉た。
ひざに届くほど長い赤毛のおさげをたらし、太陽をこよなく愛する不死族の盟主──。
そばかすの吸血公女、アナスタシア・ドラクルだ。
(そっか! ミコさん……美夜古さんはそういえば、アナスタシアさんの国に招かれて行ってたから、その時に……なにか魔薬をもらって……)
命をかけてまで成長しよう、一気に強くなろうとしたのだ、と察してメイは息をのむ。
メイに読まれたことに気づき、猫神はちらっとメイを見、口もとに指を添える。
小鬼が聞いているからだ。
小鬼も「ズルをしてでも一足飛びに強くなりたい!」と切望している。吸血公女のことを知れば飛んで行きかねない。でも猫神は、小鬼にそんな「ズル」は必要ないと信じている──。
メイは小さくうなずいて、猫神を安心させた。
この無言のやりとりを、猫神はうまく楓や小鬼の目から隠したらしい。
楓はまったく気づかず、続けた。
「お礼言うだけなら、電話やネットでもいいんじゃない?」
「直接会いたいの。それに、恩返しもしたいから」
「ううーん、それじゃ……しかたないけど」
楓はため息をついて布団にぱたりと転がる。
「メイ、千葉さんにはミーちゃんのこと、どう説明するの? そのうち見に来るんでしょ?」
「あ、うちの子猫は化け猫さんでした、って、もう知らせちゃった」
「えっ……!」
びっくりして起き直る楓に、メイはあっけらかんと続けた。
「千葉さんにウソつくのイヤだし。ミーちゃんはすごく強い猫神さまになって、近々旅立ちます、って言ったらね、猫神さまのお姿見たいって言うから、写真撮って送ったんだけど、写真でも見えなかったみたい」
「あ……あははは」
「だからね、ふつうに人の姿でわたしとお母さんと写ってる写真も、送ったー」
「新しい知り合いだと思われたんじゃない?」
「うん。そう思われそうだったから、子猫から人に化ける動画も一緒に送って……」
「えっ! そっ、それだいじょうぶなの?」
「見終わったら削除してください、ってお願いしました。猫神さまのプライベートだし」
「べつにそれぐらいいよって言ったのに、メイって気にしィだよねー」
猫神がひとごとみたいに言い、楓は脱力する。
「ご本人がいいなら、べつにいいけど」
ふと、メイがまだ髪を乾かしていないのに気づき、楓は愛用のドライヤーを取り出した。
「メイ、髪は濡れたままほっといちゃダメ」
「ええー、いつもこれでだいたい乾いちゃうし……」
「ふだんはともかく、あたしの目の前でそのあつかいは許しません。それにほら、あたしのドライヤー、髪につや出す機能付きよ? さらさらにしてあげる。こっちおいで」
「えええー」
逃げ腰のメイをつかまえ、ご機嫌で髪を乾かしはじめる楓に、猫神が笑った。
「カエデちゃんだっけ。あんた猫だけじゃなくて、人の毛なでるのも好きなんだね」
「うん、好き!」
「美容師とかヘアメイクとかもできるんじゃない?」
「実を言うとペットのトリマーにも興味ある」
「やりたいことがいっぱいだ」
「全部はできないけどね」
メイの髪のもつれにヘアオイルを使いながら、楓はちょっと不満げな顔をした。
「九尾のお狐様も見たかったのになー。人型でもいいから」
「え? 野々宮さん、会ってるはずだよ」
メイが言ったので、楓は思わずドライヤーのスイッチを切る。
「ええっ? いつ? どこで?」
「わたしが代役で撮影した日。ヘアメイク担当してくださった穂村さん、霊狐さまだったの」
「え? ええっ……うそ! ぜんぜん気がつかなかった! え? どんな人だっけ? メイの霊光爆発で頭がいっぱいで……メイの撮影のスタッフさん、ひとりもおぼえてなーい!」
楓は頭を抱えて天井を仰ぎ、そばにいる猫神をつくづくながめ、それからため息をついた。
あらためてドライヤーのスイッチを入れ、メイの髪の手入れを再開、つぶやく。
「あたし、うぬぼれてたかも」
「え?」
「子どもの時はともかく、最近は妖怪が化けた人、ほぼ確実に見分けられるつもりでいたんだけど……ミーちゃんも人になるとどっちかわかんないし、そのお狐様も、ぜんぜん気がつかなかったし……上には上がいるって、肝に銘じとくことにするわ」
「あはは、そんなに用心しなくても、それだけの力持ってるのに悪意のあるものって、そんなにいないんじゃないかなー」
のほほんと言うメイに、楓は顔をしかめた。
「あんたのその、危機感なさすぎなとこが心配なの! そんなにいない、って言うのは、ぜんぜんいないってことじゃないんだよ? 人間は弱いんだから、用心しなきゃダメ!」
という楓の言葉に猫神もうんうん、と深くうなずき、メイは「はーい」と小さくなる。
楓はきれいに乾かしたメイの髪をとかし、なにやら凝った編みこみをつくりはじめた。
「ところでメイの神さまは、どんな感じ? お狐様を狩り殺さなかったって聞いた時は、ちょっと驚いたけど」
「うん」
メイは髪を編んでもらいながら、にっこりする。
「見た感じは変わってないんだけど、久しぶりにふつうの大きさになったのを見た時、ああ、なんだかすごく強くなったかも……って思ったー」
「うそでしょ! あれ以上強くなってどーすんの」
と言う楓が、龍神との戦いを思い出しているのを感じ、メイは首をふった。
「ちがうの。そういう強さじゃなくて……」
きちんと思い出し、考えをまとめて言葉にする。
「たとえばね、稲荷神様を塵にした光も……あれ、わたしは初めて見たけど、前に『加減がきかない』って聞いたことがあったの」
「え、それヤバいんじゃない?」
「うん。あのスサノオがあんまり使いたくないみたいに言ってたぐらいだから……ほんとなら女神様どころか、異界の中も外も、ぜんぶ焼きはらっちゃうような力だったと思うの。なのにあの時はほんとに……焼こうとしたもの以外、傷ひとつつけなかったんだよ」
「あれはすごかったねえ」
猫神が憧れのため息をつき、身を乗り出した。
「変化は他にもあったよ。龍神の湖では、スサノオ様の血に当たった妖怪も動植物も、焼けたり溶けたり、たくさん死んで大変だった。『人間は殺さない』と言あげなさってたから人は死ななかったけど、それでもカエデちゃんは火傷したし、望んでないのに怪力になった」
「数日だけだったけどね。火傷も痕とか、残らなかったし」
楓はメイの髪にリボンを編みこみながら、なつかしそうに自分の手を見る。
猫神はうなずいた。
「でも今回、スサノオ様がみずから血をお与えになった霊玉は、正常に芽吹いたんだ。そして、狂ってもいないしゆがんでもいない、愛らしい女神様がお生まれになった」
深い敬意のこもった猫神の口調に、その場を見ていない楓も畏敬の念に打たれる。
「同じ神さまの血でも、『贈る』『与える』って意志があると、結果がすごく変わるんだね」
楓の感想にメイはうなずいた。
「そうみたい。あ、贈るって言えば、女神様がお礼にって、スサノオに腕輪くれたんだよ」
「へえ!」
「それがね、最初は金細工に見えたのに、スサノオが受け取ったら鉄の色になって、かたちもすごく変わって、それどころか存在感までものすごく大きくなってびっくりしちゃった」
「あれは霊衣だから」
と言う猫神に、メイがたずねる。
「小さい女神さまも『れいい』っておっしゃってましたけど、どんな字書くんですか?」
「霊能の『れい』に、衣の『い』。あたしが着てるのもそうだけど、持ち主と気を共有して勝手に再生もするし、持ち主の必要や意志に応じて、ぴったり合うかたちに変わる」
猫神はパジャマのすそをつまみ色や模様を変えたり、飾りを増やしたりして見せる。
みなで感心しているうちに楓はメイの髪を編み終わり、あまったリボンを可愛く結んだ。
「はい、できあがり!」
と、手鏡を渡す。
「わー、きれい……すごーい! 野々宮さん、ありがとー」
「どういたしまして」
芝居がかって一礼した楓のスマホが、ちろりんとアラームを鳴らした。
「あ、寝る前のお肌のお手入れの時間だ! メイのお母さん、お風呂入ってるけど、洗面所、借りてもだいじょうぶかな?」
「平気だよ。どうぞどうぞ」
「じゃあお借りしまーす」
楓は化粧品のポーチを手に洗面所に去り、メイは寝る前のお供えの準備にキッチンに立つ。
小鬼は居間のすみで日記帳を広げ、なにか書き始めた。
猫神は、メイが食卓に置いた破壊神用の耐熱皿に、お供えの〈奇跡の花〉を積んでいくのをじいっとながめていたが、唐突に言った。
「あんたはそれでいいのかい」
「え?」
顔をあげたメイは、猫神の、真剣な面もちにちょっと驚く。
「な……なにがですか?」
「あたし、調べたんだ。あっちこっちの大もののけに〈クシナダ姫〉について聞き回って」
「……!」
「〈クシナダ姫〉ってのは大昔の人間の術者たちが、あんたみたいな千年にひとりの霊力の持ち主につけた呼び名だけど……大もののけに言わせればそれは、あんたの神を素戔嗚尊と名づけたのと同じ人間たちなんだってさ。彼らがそんなことした目的は……」
苦々しげにちょっとくちびるを曲げ、猫神はメイから目をそらした。
「千年、二千年がかりの神語りの言霊で、あんたの命をスサノオ様に捧げること」
「…………」
メイは猫神の言葉の意味が、ゆっくりしみこんでくるのを待ち、それから、ほほ笑んだ。
「光栄です」
「!」
「あ、それと、ものすごく感謝してます。その〈神語りの言霊〉がなければ、もしかしてわたし、スサノオに出会うこともなかったもしれないでしょう? ほんとにありがたい……」
「そうじゃなくて!」
猫神は食卓を軽くたたいてさえぎった。
怖いほど真剣に、そして心配そうにメイをのぞきこんでささやく。
「いいかい、スサノオ様はその時が来たらほんとうに、あんたを狩ってしまわれるよ? なにが変わっても、そこは変わらないはずだよ……! ほんとにそれでいいのかい」
「いいんです」
メイの明るい即答に、猫神はひるんだように少し身をひいた。
メイは猫神の腕におずおずと触れ、ほほ笑む。
「お気遣いありがとうございます。うれしいです。でも、いいんです。だいじょうぶです。わたしの命はとっくにスサノオのものですから」
と言うメイの言霊の純度に打たれ、猫神の瞳が縦にすぼまった。髪も少し逆立つ。
ため息をつき、身体の力を抜いた。
「神と贄の契約には、なんぴとも立ち入れない……って聞いてはいたけどここまでとはね」
「そうなんですか?」
まったく実感のないメイにちょっといらだち、釘を刺す。
「けどいいかい、チャンスさえあれば全力でお逃げ! スサノオ様と戦わずにすむならどんなずるい言い訳でも利用しなさい。スサノオ様はそれで腹を立てたりは絶対になさらない。あんたの生き残る努力をこそ、喜ばれるはずだよ……!」
「あ、それはそうですね」
本気で「自分こそが生き残る=勝つ」つもりで戦わなければ、破壊神を真に喜ばせることはできない……と気づいて、メイは息をのんだ。
(大変! わたし、スサノオに通用しそうな技なんて、まだひとつも身につけてない……)
などと考えているとは知るよしもなく、猫神は、メイも少しは危機感を持ってくれたようだと思ったらしい。くすっと笑ってメイの肩をちょっとなでた。
「まさかあたしが、あんたの心配をするようになるとはねえ」
「ありがとうございます。ご忠告、胸に刻んでがんばります」
「がんばりすぎて燃え尽きないように! まずは霊力を暴走させないことからだよ」
「はい」
「ああもう、スサノオ様のこともあんたのことも、気になるけど……」
「スサノオの状態、良くないんですか?」
目覚めた破壊神の気配は驚くほど充実し、以前より強くなったとさえ感じられる。
ひび割れるような気配ももうない。ただ相変わらず、猫並みによく眠る。
ちょっと心配になるメイに、猫神は首をふった。
「神域で第三眼を開かれても気が揺るがなかったし、状態は悪くないはずだよ。それに稲荷神様から贈られた霊衣はたぶん、気の乱れを鎮静するような効果つきだと思う」
「それなら心配ないのでは……」
と言うメイの胸を、猫神はとがった爪先でつっつく。
「けど! あんたもスサノオ様もムチャばっかりするから心配なんだよ! せっかく安定しててもぶち壊しにしかねないし、ちょっといけると思うとどこまでもぶっ飛んで行くし!」
「あ……あははは」
猫神はメイをそっと抱きしめ、メイの頭に頬をすり寄せる。
「お願いだから身体を大事にして。それとお母さんにあんまり心配かけちゃダメよ」
「それはあんまり自信ないですけど……」
「こらこら」
「でも、必ず生き残りますから」
メイの静かな気迫に猫神は一瞬、目を真っ黒にし、それからにっ、とほほ笑んだ。
「その意気だよ」
③へ続く
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