10羽
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「ユッチ……?」
その扉を開けると、そこは、現実味のあるよくある部屋の一室だった。まるで、昔よく遊びに行ってた、あの、現実の世界のユッチの部屋だ。板張りの床。濃い青のシーツがかけられたベッドまである。
ただ、それならばあるはずの、温かみとか懐かしさはなぜか感じることはできなかった。
「ユッチ!」
そんな部屋の中で、パソコンに向かっているユッチの姿があった。その目はうつろだ。刹那が眉を下げてその姿を見た時、ユッチはパソコンの画面から目を離し刹那の目を見た。その俊敏さに刹那はビクッとした。
「やぁ、随分と久しぶりじゃないか、刹那」
虚ろな目から、どこか病的なギラギラとした目にかわり、あまり瞬きをしないユッチの目。それはまるで別人のようだった。
「ユッチ……逃げよう」
刹那はとりあえずそう言った。ここは「いけない」場所だ。こんな所にいると、おかしくなる。いつからユッチはここにいるんだろう。まるでずっとここに住んでいるかのような佇まいだった。
「どうしてだい? 君はここへ、遊びにきたんじゃないのか?」
完全に、ユッチはもう刹那の知っているユッチではなかった。
「何を……」
刹那の頭は混乱する。
「君には、ケルメンのメロディがあるだろ? セツナ」
無表情な和加が刹那にそう言った。
「ああ……、そうか、操られてるんだっけ」
刹那はハッとして上級天使から受け取ったディスクを握りしめた。
「刹那……、君、聞いてないのか?」
ユッチはどこか半笑いだった表情を強張らせた。
「え?」
「そのディスクを手にとっていながら、そのメロディを聞かなかったのか? 聞かずに僕を助けるなどと? そのメロディは素晴らしいよ。僕の正しき姿が見える」
恍惚とした表情でユッチは語る。
「正しき姿……ね」
和加が意味深に言った。どこか嘲笑するかのようだった。
「なんだよ! このメロディを聞けばユッチはもとに戻るんだよ!」
刹那がユッチを庇うように和加に言った。なんで言い訳みたいになっているんだろう。刹那は思う。この姿がユッチの正しき姿だって? ユッチの面影も何もないじゃないか。別人だ。
「下界から、汚物がやってきたのは久しぶりですね」
そこに、透きとおるようなボーイソプラノの声が聞こえた。そのキレイな声にしては笑ってしまうほどの下品なことを言っているような気がする。
「誰だ?」
刹那がそう言った瞬間、ユッチの隣にその天使は突然に存在していた。
「青天使」
和加が呟いた。
「聖なる天使だよ」
「どこが?」
刹那は突っ込んだ。
「彼を、ここから逃すことはできない」
青い天使はユッチの肩に手を置いた。
「僕が逃す。ユッチから離れろ」
刹那はキレイで邪悪なものに苛立ちを覚えた。「天使」と名のつく悪いもの。
「この者の顔をごらんなさい。これが真の姿。今ここで幸せに過ごしている。この暮らしを……、あなたは壊してしまうんですか?」
青い天使は核心を突く。
「よく、ごらんなさい。この者の顔を」
もう一度、青い天使は言った。
「あなたにそのメロディがかけられますか?」
その問いを残すと、その天使は消えた。ユッチには今の天使が見えていたのだろうか。それぐらい、ユッチは刹那を見たまま、じっと動かなかった。
「ユッチ……、お前……今幸せなのか?」
「あんな素晴らしいメロディに出会えて幸せだ」
ユッチはそう即答した。その顔は確かに幸せそうにも見えた。口元は常に緩んでいたから。それは妖しくもみえるものだったけど。
「……」
和加はその2人のやりとりをじっと聞いている。
「でも……、それは妄想だよ」
刹那は言った。
「え?」
ユッチの口元がしまった。
「お前の負の部分が創った……妄想だよ」
刹那はユッチの顔を見ていたらなんだか泣きたくなった。
「妄想?」
ユッチの顔が強張る。
「何が幸せなんだよ。ここで、ずっと、そのメロディを聞いて、何をしてるんだよ」
「だったら、お前は何をしているんだ? 毎日毎日暗い地上にいて、なんの夢も希望もない未来の死へ向かって生きてるだけだろ!」
「暗くないよ」
刹那は言った。
「いや、ここは毎日太陽が昇っている世界だよ」
「死へ向かうことの何が暗いんだ。地上で苦悩することは人間として当たり前のことだろ」
「いや、僕は選ばれたから。僕はもう、人間として当たり前のことをしなくてもいいんだ」
ユッチは笑っていた。
「人間だろ? ユッチは」
「いや、今は、ただただ神の声を聞いているんだ。感謝しているんだ」
「ユッチのお母さんとお父さんは?」
「さあ」
ユッチはそっぽを向いた。
「……妄想だよ」
刹那は泣きそうな声で呟く。
「お前!」
ユッチが次に刹那の顔を見据えた時、その手には一つのシルバーの小型銃が握られていた。
「そうまでして……!」
ユッチが刹那に向かって銃を突きつけている。刹那はユッチにとって、助けに来てくれた親友ではない。ただの邪魔者でしかなかった。嫌なことしか言わない、不都合なだけの存在だった。
「僕を……殺すのか?」
「この状況で、『殺さない』とは言えないな」
ユッチはしっかりと刹那の胸を銃で狙ったまま歪に笑った。
「僕が歪んでいたのを、もっと早く知るべきだったね」
ユッチが言ったその言葉。刹那は瞬きをしてユッチを今一度見た。そこには、一瞬だけど、あの頃の、刹那のことが大切だったころの、あどけないユッチの姿があった。
「ユ……」
刹那がユッチに向かって手を伸ばそうとしたとき、
バンッ
ユッチはその引き金を引いた。刹那はその銃声に反射的に目を閉じた。そして次に目を開けると、全てがスローモーションのようにゆっくりとした感覚の流れの中にいた。
ああ……、血だ。
刹那はキレイな床を汚した赤い液体を目で確認することができた。ユッチ……。今ならわかる。ずっと、きっと幼いころから、誰かに救いを求めていたユッチ。僕は、一体ここへ何しにきたんだろう。僕がここで血を流したところで、何も変わらない。僕の血じゃ、何も救えない。
でも……、なんだろう、この血。僕の血? それにしては随分と……さらさらして……、まるで、まるで涙みたいじゃないか……。
そこで刹那の目はまんまると見開かれた。違う! 痛くない!
「和加!!」
刹那は叫んだ。刹那の体は何も傷ついてはいなかった。
「私の……目は、青いのに、青の涙はでない。あ……、人間の涙に色はないんだっけ……。涙だけは……こんなに……血みたいに……赤い」
ユッチの放った銃弾は、和加の左目を貫いた。
「和加!」
刹那は倒れている和加を抱える。
「私は、悲しい行異なんだよ……。輝ける者を、輝かせるための……ただのモノ。癒える傷なんて、一つもない」
和加の左目。とろけるような赤い目。あの美しい青い目は消えてしまった。赤い涙が和加の顔から床を濡らす。
「そんなことない……」
刹那は力なく否定した。ああ、僕は行異の臭いを知ってた。確かに和加は絵里奈と一緒にずっと僕たちのそばにいた。行異の悲しさを訴えてた。
「この……、汚らわしい……醜い……ものを、君の手で……」
小さな手が刹那の目の前に伸びてくる。
「嫌だ!」
刹那は続きを言わせなった。
「殺して」
それでも和加は言った。
「殺して」
もう一度言った。
「どいつもこいつも! できないよ!」
ルカ! 刹那はルカの名前を呼んだ。ルカ! ルカ! 和加が……。君と同じように、ただただキレイな和加が!
「セツナ……、浄化してくれなきゃ、心がずっと痛い。とてつもなく……悲しい存在だから……君の力なしでは死にきれない」
「どうして? こんなところまで連れてきて、行異を浄化してって……、和加が言ったのに!和加が行異とか、わけわかんないよ!」
「愛される資格もないほど……、くさったから……。神に、狂ったようにすがったから……。神が、私に罰を与えた……。でも……、幸せ。セツナ、私は君を、こんなにも輝かせた。だから……」
その輝く君の手で、その紋章で、姿で、心で、
私を殺して。
傷を、浄化して。
和加の心の声が聞こえてきた。なんと言えばいいんだろう。刹那はそっと和加の頬を撫でた。和加は泣きながら笑ってた。本当に、幸せそうだった。
どうして? こんなときに、幸せなの?
刹那も和加に笑いかけた。
「和加……、好きだよ」
和加は初めて言われた言葉のように顔を赤くして喜んだ。そして刹那の紋章が光る。
抱いていたはずの小さな体は、もうそこにはなかった。
神に期待しすぎた悲しい存在。あまりにもすがりすぎた、悲しい存在。
僕にすがった、愛しい存在。




