24 カウントダウンは突然始まる。
古い書物の匂いは好きだ。村で薬師兼学校の先生をしていた父の影響か、本を読む事に苦痛は感じない。むしろ背表紙に書かれた文字を指先で追っているだけで、お祭り前夜のような高揚感に胸が踊る。
本というものは酷く高価だ。父の仕事が仕事だったので、普通の村人よりは多くの書物に触れる機会を与えてもらえたが、こんなに多くの本に囲まれたのは初めてだ。天井まで届きそうな大きな本棚がいくつも並ぶ光景は、あたしには宝の山に見えた。
ここは神殿内の書物庫。ディディエが人払いをしてくれたので、ここに居るのはあたしとジルとリリィの三人だけ。神殿という場所柄からか、医学書や辞典といったものが充実していて見応えがある。薬草学と書かれた本の表紙をなぞると、父の持っていた本には薬草の匂いが染みこんで酷く臭かったなと、思い出して少し笑えた。
あたしが『花びらの奇跡』を披露する場所は王宮ではなく国教本神殿のバルコニーに設定された。城下町での騒ぎが治まりを見せなかったからだ。市街に隣接する神殿からなら、より多くの民衆や国外からの客に王室の威光を見せることができるし、神殿に恩を売る為にも都合がいい。
その分あたしは人目に晒される時間が増えたけれど、ジルを救う交換条件だったわけだしこれは仕方がない。可能な限り人目を避けるために、あたしたちは予定の時間よりもずっと早くに王宮を出て、朝早くからここで時間を潰している。
幸いジルとリリィも書物を好む方なので退屈はしていない。三人して無言で黙々と文字を追っている。
「うひゃぁ!」
タイトルに惹かれ『森に住む危険生物~魔物編~』という辞典を何気なく開いて、あたしは間抜けな悲鳴を上げた。思わず本を取り落とし、重い辞典が足に直撃して再度悲鳴を上げる。
うわあぁっ……! 痛い。ゴメンナサイ。きっと貴重な本なのに……痛いぃ!
蹲って足を押さえるあたしにリリィは仰天して「大丈夫ですか!」と走りより、ジルは呆れ顔で辞典を拾ってくれた。
「一体何に驚いたんだ?」
パラパラとめくり、中程のページで手を留めて眉を寄せる。
「人型の魔物の挿絵か?」
「……はい」
おそらくはもの凄く高価な辞典なんだろうと思う。細く書かれた特徴の横には、これまた細かくて詳細な挿絵が描かれていた。頭のてっぺんからつま先まで、手を抜くこと無く丁寧に。
そして言うまでもないことだが、人以外の生物は普通衣服を着用しない。たとえそれが二足で歩く人狼や馬頭鬼人であっても。
いや、別に人のも獣のも見た事無いわけじゃないのよ。でもこんなに詳細に絵に描く必要あるの? 突然だったからびっくりしちゃったし。かえって本物の方が冷静に対応できるよ! って、それもどうかと。
「他の本に、しなさい」
「……はい」
まるで子供に噛んで含めるように言われ、色んな意味で恥ずかしくて顔が熱い。リリィのきょとんとした顔がさらに居たたまれなさを倍増する。
リリィの手を借りてなんとか椅子に座っても、顔を伏せたままのあたしにジルはくすりと笑って「足を見せてみろ」と膝をついた。
「え! 大丈夫だから。だいぶ痛みは引いてきて……ッ」
本をぶつけた足の甲に触れないようにか、ふくらはぎに手を沿えてジルはあたしの脚を持ち上げた。紐を解いて靴を落とすと、靴下を脱がせようと手が衣装の中に入り込む。
待って待って待って! この靴下、膝上まであるんだけどおぉ〜〜〜!?
声にならない悲鳴を上げ、助けを求めてリリィを探すと、彼女は素知らぬ顔で本棚の向こうに消えていった。
ちょっとリリィ? 見捨てる気!?
「やだ、ジル……せめて自分で脱ぐっ」
「まだ痛いんだろう? 大人しくしてろ」
するするとジルの指先が脚をなぞり、膝上で布地を引っ掛けた所で動きが止まる。靴下の端に引っ掛かった人差し指以外の指が、内腿をするりと撫でた。あたしは悲鳴を噛み殺す。
ほんの数瞬の事だったんだろうけど、靴下が抜き取られた頃には疲労困憊していた。おそらく真っ赤な顔で涙目のあたしに頓着する事なく、ジルは本をぶつけた箇所を見分している。コノヤロウ。
「少し赤くなってるが、酷く腫れてはいないな。歩くのに支障が無いなら冷やすだけでいいだろう」
大した事の無い怪我や病気の場合は、魔法を使わない方が望ましい。多用すると自己治癒能力が低下するからだ。特にあたしは直近に大きな怪我をしている。暫くは可能な限り治癒魔法は使わない方がいい。
「だから、大丈夫だって言ったのに。こんなのほっといても治るし」
「駄目だ冷やせ」
大袈裟な。この程度の怪我は村では日常茶飯事だったし。子供でも暫くじっとして痛みが引いたら、そのまま遊びに行くぞ。
「傷が残ったら赦さない」
髪が足に触れる感触がした。擽ったさに反射的に足を引こうとしたけれど、踝をしっかり捕まれていてびくともしない。まだジンジンと痛む箇所から少しズレた場所に、温かくて湿ったものが触れる。
ななな何しちゃってんのジル! そこ足だよ!? キスする場所じゃないから!
悲鳴を上げることすら出来ず、ぱくぱくと息をするので精一杯のあたしに、ノックの音が追い討ちをかける。
何? 誰? 誰か来たの!? あたし片足素足だよ!
うろたえるあたしと違ってジルは至極冷静だった。小さく舌打ちをすると、靴と靴下を机に置いて部屋から出て行く。
……あ、そっか。あたしが他人に会いたくないから人払いしてるんだし、ディディエとリリィ以外は入って来るわけないよね。
「布とお水を頂いてきました」
気が抜けてぼんやりしていると、いつの間にか手桶を抱えたリリィが戻ってきていた。
ああなるほど。それを取りに行ってくれてたわけね。でもその前にイロイロ助けて欲しかったなぁ!?
冷たい水で傷を冷やしてもらい、痛みが引いたので靴下と靴を履かせてもらう。自分で履けとか言わないでね……女神様の衣装重いのよ。脱ぐのならともかく履くのは無理。ついでにお化粧も直してもらっていると、ジルが帰ってきた。
「今からバルコニーへ行く。足は大丈夫か?」
「大丈夫。ちゃんと冷やしたよ」
また靴下を脱がされては困るので、手桶を指差して答える。よし、と頷いて差し出された腕に素直に捕まって、あたし達は書物庫を後にした。足は平気だけどまだ外は少し怖いから、縋るものが欲しい。
リリィは一人で書物庫にいられるほどの身分がないので途中で別れて、元々女神に与えられていた控えの部屋へ。ディディエに接触を禁じられているはずだが一目女神を見たいのか、ちょくちょく感じる神官達の視線を気にしないように努力しつつ、早足にならないよう注意してゆっくりと歩いた。
「あ。ごめんなさい」
ジルの腕を掴む手に、かなりの力が込もっていた事に気付いてあたしは慌てて力を緩めた。爪は短くしているから傷つけてはいないだろうけど、痛かったかもしれない。ジルは笑って気にするなと言ってくれたけど、せっかくの正装に皺をつけてしまった。反省。
扉の向こうからどよめきと歓声が聞こえる。ジルが声をかけると、待機していた二人の神官が恭しく一礼して、ゆっくりと扉が開かれた。
途端に突き刺さる複数の視線に瞬間的に怯んでしまったが、努めて顔に出さないようにしてジルと共にバルコニーへ向かう。
そこへいるのは国王と王妃、体調の優れない教皇の名代のディディエ。それから数人の近衛兵と文官だけで、その他の王族や貴族、僧侶などはさっき通り抜けてきた続きの部屋や、バルコニーを望める別室にいる。
まだ他人を警戒してしまうあたしが怯えて、奇跡を起こす事に失敗しないようにと配慮されたようだ。
『女神』が姿を現すと、地面が揺れる程の歓声が湧き上がった。
場所によっては跪く人もいるようだが、あまりに人が密集しているのでままならないようだ。少しずつ歓声はひとつの言葉に集約され、「花の時代を!」という叫びが何度も繰り返された。
「静粛に」
とてもじゃないが声は届きようがないので、ディディエが身振りで黙るようにと促す。
それでもすぐにはおさまらなかったが、ディディエと国王夫妻が女神に恭しく礼をとり、あたしがそれに返礼すると波が引くように鎮まっていった。
眩暈を覚える程の期待の渦の中で、思ったよりも冷静でいられるのはジルが隣にいるからだろうな。あたしに出来ない事をしてくれる存在。必ず助けてくれると信じられる人。
『花の時代を』と繰り返したハクカの民達。神を前に平伏する事よりも、その存在を讃えるよりも先に、求められたものは救済。
困窮に喘いでいるんだろう。王都に初めて来た時、神殿に着くまでに見た人々はどこか疲れた顔をしていた。裏通りには捨てられた子供の死体が転がっていると、辛そうにジルが教えてくれた。ハクカの民は限界なんだ。
どんなに期待を寄せられても、あたしには彼らを救う事は出来ない。そんな力は持っていない。だけど、女神にしか出来ない事もある。ジルと視線を合わせ、ひとつ頷くと前へ出る。
胸元やお腹に感じる違和感に意識を集中させる。今回魔法陣は肌に張り付けていた。手を組み、祈りを捧げるふりをして空を見上げると、大きく髪が後方へとなぶられた。
……風が、強い。
風向きも真逆。風を起こす魔法陣は複数持ってきているけれど、この強風に敵うだろうか?
不安だけど、もうやるしかない。なんとかして明後日の方向に花びらが飛んでいかないよう、コントロールしなくちゃ。
――舞え。
花びらの陣は問題なく発動した。頭上高くに発現した花弁は薄紅の雲を形作る。
でも、続けて放った風を吹かせる魔法は、ほんの少しだけ雲を前方へ押しやっただけだった。
――風よ! 風よ! 風よ!
このままでは後方へ流されてしまう。冷たい汗を感じながら立て続けに風の陣を発動したが、花びらの雲は渦を巻くだけで少しずつ自然の風に負けはじめる。
泣きそうになりながら、あたしは最後の陣の魔力を解放した。
――風よ! お願い。人々の上に祝福の花弁を散らして!
轟。と空気が音をたてた。
薄紅の風が神殿前の広場から市街にかけて渦を巻いて駆け抜ける。強い風に皆が目や顔を庇う。
そして突風の後の束の間の凪。止んだ風に顔を上げた人々の上に、無数の薄紅のかけらが舞い降りた。
歓声を上げて、ひらひらと舞い踊る花びらに手を伸ばす民衆を見て、あたしは漸く力を入れすぎて痛む両手を解く。全身からも力が抜けそうになったのは、安堵からだけでは無い。手も足も震えていた。
風が戻る。ほとんどの花びらは建物や人々を薄紅に染めていたが、わずかに宙に残っていた花弁が風に乗ってこちらへ吹き寄せられた。
あたしの周りで円を描いてから散った薄紅の風に、一際大きな歓声が上がる。
――これは女神様の奇跡だ。
ジルの描いた魔法陣ではこの強い向い風に打ち勝つことはできなかった。僅かな間とはいえ、訪れた凪ぎも普通じゃない。風を止める魔法陣なんて、あるのかもしれないがあたしには使えない。
今、ジルやディディエが魔法を使うことは出来ない。陣を使えば魔力が動く。周りに魔術に長けた者がいればすぐに気付かれてしまうそうだ。あたししか魔力を使えない状態で、あの風に負けずに花びらの雲を前方へ押しやる事なんて、本当はできるはずがなかった。
風に負けて背後にある王宮の方へ花びらが舞い降りたとしても、べつに失敗というわけではない。むしろ王宮を花吹雪が取り巻いた方が、王族達は喜んだかもしれない。でも、あたしはどうしても民衆の上へと祝福の花びらを振らせたかった。王宮ではなく、市街を薄紅に染めたかった。女神の加護は、王家ではなく民の上に降り注ぐべきだと思うから。
だから、これはこの国を愛する『女神様』が生んだ奇跡だ。
振り返って、ジルとディディエを見る。二人の唖然とした顔が笑えた。声を上げて笑いたくなったのを耐えて、あたしはにっこりと微笑む。声に出さずに口の動きだけで「き・せ・き・だ・ね」と伝えれば、なんとも言えない表情で揃って天を仰いでいた。……そのへんを女神様が飛んでるとでも思ったの?
手すりに手をついて身体を支えているあたしに気付いたジルが、足早に傍に来て腰に手を回す。足が笑っているので、有り難く腕に縋らせてもらった。手足はまだ震えているけど、近くに戻った体温に安心して周りを見る余裕が出来る。
少しでも隙間のある場所にいる人たちは、隣の者と接触する事も構わずに跪いていた。身動き出来ない程にひしめき合う場所の者も、頭を垂れたり、祈る形に組んだ手や、花弁を掬った両手を頭上に掲げて『女神』を讃えている。
見える場所にいる王族・貴族達も膝をついて頭を垂れている。神官達はひれ伏すように膝をつき、両手を組んで深々と頭を下げていた。国王と王妃も、膝をついてはいないものの、腰を落として頭を下げている。
ようやく、成功したんだなという実感が湧いてきた。泣いたり笑ったりと表情は違うが、救いの道を示されたような、希望を見つけたような顔の民衆にホッとする。
――後少しだけ、頑張って。
あたしには、こんなささやかな癒やししか与えることは出来ないけれど、あたしの信頼する人達が、必ずあなたたちを救うから。あたしは嘘の女神だけど、この国にいる間は、その人達を可能なかぎり手助けするから。
心の中で語りかけながら、できるだけ沢山の人の顔に視線を合わせる。小さな花弁を髪や服につけて笑う少女を見つけて、表情を緩ませて……。
そのすぐ後ろで、ゆっくりと口端を上げた若い男を見た途端に、世界から音が消えた。
明るいオレンジ色の髪。瞳の色は笑顔で細められていてよくわからない。オレンジの髪はこの国では多く見られる色彩では無いが、珍しいという程でもない。人目を引くほど整ってもいなければ、不細工なわけでもない平凡な見た目。歳はジルとさほど変わらないように見える。
にこにこと、人好きのする笑顔を浮かべたその男は、あたしの視線に気づくと笑みを深め、片手を上げてひらひらと振ってみせた。
――モウスグタスケニイクヨ。チョットダケマッテテネ。
聞こえるはずのない声が、はっきりと、聞こえた。




