23 あたしの居場所はここじゃない。
「ジル!」
姿を見た途端に飛びついた私に、一緒にいたディディエが苦笑いする。無視して抱きつけばジルは一瞬だけ躊躇したけれど、すぐに腕を回してぎゅっと抱きしめてくれた。
少し汗の匂いがして、嬉しくなる。真っ直ぐにあたしの部屋に来てくれたのかな?
「リュミエ、ありがとう。まさか、こんなに早く解放されるとは思わなかった」
「酷い事はされてないよね? 元気だよね? ちゃんとご飯食べた?」
「たった二日で何を心配してるんだ。大丈夫」
そう言って笑った顔色は悪くない。ちゃんと貴人としての扱いを受けていたみたいで、ホッとした。王宮でのジルの扱い酷いから心配だったんだよ。念のため用意していた軽食が不要になってしまって、嬉しい。
ディディエがいるからか、ジルはすぐにあたしから離れてしまった。彼がはあたしがジルと親しくなるのを好ましく思っていない。もしかしてジルにも同じことを言ってたりするのかな?
離れてしまった体温が少し寂しい。ちょっと不満に思いながら、あたしは二人を部屋へ招き入れた。
ジルはリリィ達をねぎらった後、「風を」とディディエを促した。取り出された風の魔法陣を見ると、女官さん達は急いで三人分の席を用意して、リリィを含めた全員が慌ただしく退室する。
ジルの好きな茶葉を用意してたから、煎れていって欲しかったんだけどな。
仕方ないので自分で煎れることにした。女神らしくないと咎められるかと思ったけど、茶器に触れるあたしをちらりと見ただけでディディエはジルに向き直った。
口煩くない彼はちょっと不気味なんだけど。まだ私の事腫れ物扱いなのかなぁ? ジルか帰ってきた事に浮かれていたあたしは、のんきにそんな事を考えていた。
「すぐにガウル兄上と話がしたい。予定を早める」
ガチャ。とポットが大きな音を立てた。
急くようにジルが告げた内容に、血の気が引く。ガウル殿下。早める予定。そこから予想できる事は。連想してしまう事態は。不安に駆られてジルを見つめても、視線はこちらに向けられなかった。ディディエが大きく息を吐く。
「急すぎます。今回は、見送る予定のはずです」
「俺がそう言い出すと、予測はしていただろう?」
返すのを忘れていた砂時計を慌ててひっくり返す。落ちる砂を見つめて騒がしくなる心臓を鎮めようとしたけれど、苦々しげに吐かれたディディエの言葉を聞くと、平静でいられなくなった。
「彼女を、自由にする為ですか」
それって、まさかあたしの……?
駄目だよジル! そんな大事な決断の理由があたしなの!?
ジルがあたしを解放しようとしている。喜ぶべきなんだろう。あたしはずっとここから逃げ出す機会を伺っていたんだから。
でも、どうしても素直に喜べない。もしもこれから起きることがあたしの予想どおりの事だったなら、そこへあたしの都合なんて考慮したら駄目だ。絶対に失敗なんて出来ないんだから。沢山の人が……傷つくことになるのだから。
失敗した時に、あたしの身が危険に晒されるかもしれないという不安は無い。ジルはあたしだけは必ず守ってくれるという確信があった。だからこそ、素直に喜ぶことは出来なかった。
「リュミエにこれ以上負担をかけられない。もう王宮内に置いてはおけない」
演習で見た、鋭い切っ先の閃きを思い出す。アンセルムが私に突き立てた、小さな刃物で与えることの出来る激しい痛みも。
ありがとうジル。だけど、今回はディディエが正しいと思う。この国の全ての人間の行く末と、娘一人の身の安全を天秤にかけたらダメだ。
「ジル、私は」
「貴方は暫く黙っていてください」
決意を込めた言葉を、容赦なくディディエに遮られてむっとする。やっぱりこいつ嫌いだ。せっかく援護してあげようと思ったのに。
ジルはあたしを見ない。おそらくは意図的に。あたしにも関わることなのに、あたしに聞かせるためにここで話しているくせに、口を挟ませようとしない二人に納得がいかない。
「彼女は私の予想を遥かに超えてよくやってくれています。今更手放す気ですか」
「元々、事が終われば解放する予定だったはずだ。そもそもリュミエがいなくても可能な計画だろう」
ジルの言葉にディディエはクッと笑って「今更」と繰り返す。あんたね……いくら幼なじみだとはいえ、その態度はどうかと思う。
いつも以上に失礼な態度に、ジルも顔を顰める。「失礼しました」と口先だけで謝った彼は居住まいを正すと、これだけは聖職者らしい落ち着いた声で、特大の爆弾を落としてくれた。
「解放など、しなければいい。女神は王妃になるべきでしょう」
キッパリと言い切られた言葉に、頭が真っ白になった。
あたしもジルも、一瞬言葉を失う。何言い出すんだこいつ! あんた前にいずれ解放するって、ジルときちんと距離を取れって、ふっといクギ刺してくれてたよね!?
「待ってよ! それって……」
「ふざけるな! お前こそ今更何を言い出す!?」
うろたえるあたしの言葉に重ねるようにジルが叫んだ。仮にも王族を相手に全く引かない規格外の神官は、不思議そうな声音を作ってうそぶいてみせる。
「何か問題が? 夫が妻を気遣い、妻は夫を助ける理想の夫婦に見えますが。それとも」
あいかわらず胡散臭い、ディディエの笑顔。
「貴方は、リュミエールを幸せにする自信が無いのですか?」
ジルが黙る。あたしは思わず息を呑む。女神ではなく、初めて呼ばれた名前。
いや、でも、そういう問題ではなくてですね! あんたが結婚に、そんな一般的な感覚持ってるとも思えないんですけど!
「……俺を、アンセルムと同じにする気か?」
重い沈黙の後、唸るように絞り出された言葉にハッとしたのはあたしだけで、ディディエは眉一つ動かさずに平然としている。
「両親に助けを呼ぶ声を、もう嫌だと……帰りたいと叫んだ悲鳴を、お前も聞いたはずだ」
覚えがない。覚えていないという事は、あの時か。
「同時に、貴方にも助けを求めていたでしょう。……リュミエール」
顔を歪ませるジルに忖度することなく、神官らしからぬ表情で鼻を鳴らした男は矛先をあたしに変える。
やめて。何も聞かないで。ホントになんで今更……あたしは偽物の女神で、嘘つきはいつか消えなきゃいけなくて。
「リュミエール、貴女はジルが欲しいとは思わないのですか?」
なんで今更、女神ではなくリュミエに聞くの!?
喉が詰まって声が出ない。なんでだよ。あんたあたしがジルと仲良くなるの、嫌がってたじゃないか。
下を向いて、ジルにすがりつきたいのを必死に耐えた。視線が集まっているのを感じる。ねえ、あたしどうしてもこの問いに答えなきゃダメなの?
「あたしは……」
――ここへずっと居ることは、できない。
顔を伏せたままでもわかる。失望させた。悲しませた。歯を食いしばり、両手を握りしめて耐える。今だけは絶対に泣けない。
ジルが近寄る気配に身体が強張る。不意に頭に乗せられた手が、なだめるようにポンポンと跳ねた。なんでいつも……ジルはあたしを泣かすのが好きなんじゃないかと、時々思う。滲んだ涙を見られない為と言い訳して、抱き寄せる腕に逆らわずに、ジルの胸に顔をうずめた。
深い嘆息が聞こえて、そっとディディエ窺う。片手で顔を覆い、テーブルに肘をついた姿はどこか弱弱しくて、彼らしくない。
「女神がそのようにお考えなら、予定を早めることに不満はありません。早急にガウル殿下と繋ぎを取りましょう」
ごめんなさい。
謝る事が出来ないのは思ってたよりずっと辛いけど、あたしは性悪女神なんだから、許しなんか要らない。必要なだけ、平気で嘘をつくんだ。
砂時計の砂はとっくに落ちきっていた。だいなしにしてしまった茶葉に心の中で謝る。せめて香りだけでもと、深呼吸すれば少しだけ落ち着いた。そっと、ジルから離れる。
「あたしは、何をすればいいの?」
ジルの……ジル達の役に立ちたい。赤くなった目を隠すのをやめて、あたしは顔を上げると真っ直ぐ二人に向き合った。
あたしに出来ることを、全力でやるんだ。




