第19話 初夏の嵐
今日は朝から天気が悪い。強風が吹き荒れたと思ったらぴたりと止んだり、雨がしとしとと降っていると思ったら急にバケツをひっくり返したようになったり。
気圧変化の影響だろう。起き抜けからずっと頭がズキズキと痛んでいる。私はベッドに横たわり、窓の向こうの厚ぼったい雨雲を見る。
(嫌なことを思い出すから、雨の日は嫌いだわ)
昔から、季節の変わり目の悪天候の日は、こうしてよく体調を崩した。家庭教師の授業を休んだと聞いた父は、私の部屋に来ると、寝ている私を見下ろして心底鬱陶しげに舌打ちをした。
私を弱者として思い通りに動かそうとしながら、その実、実際に弱いものは手がかかるから嫌いだったのだろう。
(都合のいい弱者が欲しかったんだわ。維持費がかからず、思い通りの手駒にできる……)
考えていたら、かちゃりと音を立ててドアが開いた。ここは私とソキウスの寝室。もうノックは要らない。
「リアナ、具合はどうですか?」
ソキウスがマグカップの乗ったトレーを持って入ってきた。紅茶と生姜の柔らかい香りが室内に広がる。
「さっきと変わらないけど、平気よ。寝ていれば治るわ」
「生姜が頭痛に効くと本で読んだので、はちみつ入りのジンジャーティーを作って来ました」
「ありがとう」
「起きられますか?」
「もちろんよ。重病人じゃないわ」
ソキウスがサイドテーブルにトレーを置く。私が体を起こすと、背中に枕を差し入れた。それからマグカップを持ち、琥珀色の水面にふうっと息をかける。
「火傷したら大変ですからね。少し待ってください」
「大丈夫よ。子供じゃないんだから」
「でも、顔がぼんやりほんわかしています」
「ぼんやり……ほんわか?」
「可愛らしいという意味です」
彼は何度も息をかけて紅茶を冷ますと、「気をつけて飲んでください」とカップを差し出した。私が飲むのをじいっと見つめる。
「甘くて美味しいわ」
「熱くないですか?」
「ええ。ちょうどいいわ。ありがとう」
「よかったです」
私が飲み終わるまで彼はこちらを見ていて、空になったカップを受け取ると「寝てください」とブランケットの上から私の太腿を撫でた。カップを置き、枕を元の位置に戻す。
私は言われた通り横になった。ソキウスが傍らの床に座り、ベッドの端に凭れる。それから私の手を取って、手首に親指の腹を添えた。
「脈を測っているの?」
「はい」
「ただの偏頭痛よ。脈が乱れることはないわ」
「わかっています。でも、あなたの心臓が動いていることを確かめたい」
考えてみれば、ソキウスが今の彼になってから、私が体調を崩すのはこれが初めてだ。彼にとっては、具合が悪い人間を見ること自体が初めてのこと。心配するのは当然だろう。
(それに、彼にとって、私がいなくなるのは一大事だわ。行き場がなくなってしまうのだもの)
かつて私は、体調を崩すことを楽しみにしている節があった。今度こそ誰かが心配してくれるのではないか。父が見舞いに来てくれるのではないか、と。
実際に心配されて、今、私は一刻も早く元気になりたい。
(強くなりたいわ)
私が弱いから、ソキウスに心配をかけてしまう。こんなに不安そうな顔をさせてしまう。そんな自分は嫌だ。
強くなりたい。何が来ても跳ね除けられるほど。父が殴り掛かってきても返り討ちにできるような強さが欲しい。体の一部表皮を有機ポリマーに変えて、魔法を書けるようにしてみようか。
「ソキウス、そんな体勢でいたら首が痛くなってしまうわよ」
言うと、ソキウスが不思議そうな顔で頭を擡げた。「僕に痛覚は」と言いかけて、はたと何かに気づいた様子で目を見張る。
「リアナ、まさか脳機能に不具合が!?」
「ち、違うわ。私は——」
「大変だ。気圧の偏頭痛ではなく、脳梗塞とかそういうものなのでは——」
ソキウスが慌てて立ち上がろうとする。私が「違うのよ!」と声を上げると、ハッとした顔でこちらを見た。私はブランケットをそっと持ち上げる。
「その……首が痛くなってしまうから、一緒に寝たらどう?って言おうと思って……」
「えっ……」
「それで、その……心臓の音を確かめたいなら、胸に直接耳を当てた方が……よく、わかるわ」
私はなんだか恥ずかしくなって視線を逸らす。沈黙が流れ、不思議に思って横目に確認すると、ソキウスが目を見開いて口をはくはくと動かしている。
「……来ないの?」
「で、でも……あなたは病人です」
「だからただの偏頭痛だし、そういうことをしようという意味ではないわ。あなたが心配しているから、くっついていたら、落ち着くと……」
言いながらますます恥ずかしくなってきた。よく考えてみたら、このロジックは少し無理がある。誓って決して下心で言ったわけではないが、なんだか、下心の気がしてきた。
(でも確かに、人肌が恋しいような感覚はあったような、なかったような……)
一体私はどうしてしまったのか、と、考えていたら。
「オジャマシマス……」
ソキウスがなぜかカタコトで言って、そっとベッドに入ってきた。私の隣に寝そべり、腰にギュッと抱きついて胸に顔を埋める。
(あれ? なんだか……えっ? 私はこれを申し出て……あれ!?)
なんだか思っていたものと違うような気がするが、何が違うのかわからないし、そもそも何を思っていたのかさえよくわからなくなってきた。すごく恥ずかしい。緊張する。毎日一緒に寝ているのに、なぜ。
「リアナ、脈拍が速くなっています」
ソキウスが胸に顔を埋めたまま言った。唇の動きと熱い吐息がくすぐったい。
「えっ!? あっ……なっ……はぇ……」
「そんな可愛い声を出さないでください。この先をしたくなる」
「するの!?」
「しませんよ。あなたには休息が必要です」
ソキウスはそう言いながら、私の腰を抱く腕にギュッと力を込める。私は心の中で叫んだ。
(眠れないわ!)
彼を心のない人造人間だと思っていた自分は、今はもう遥か彼方。その頃の思考を思い出すこともできない。
今の私は、彼の創造主でも母でも所有者でもない。ただの『リアナ』になった。彼が大切にする私を、私は彼ごと守っていきたいと思う。
*
翌朝、ソキウスは朝食を作る間、ずっとご機嫌な鼻歌を歌っていた。
「あなたが元気になってよかったです」
今日は快晴。清々しい初夏の陽気。窓から陽光が燦々と注ぎ、いつもより世界が明るい気がする。
ソキウスが鼻歌のリズムに合わせて肩を揺らしながら、ボウルに卵を割り入れる。塩胡椒と少し多めの牛乳を入れてよく混ぜる。
フライパンにバターを少し。火にかけ、バターの香りがふわっと立ったところでボウルの卵を入れる。
ジュワッと小気味良い音。ソキウスがシンクに空のボウルを置いてコンロに戻る。足取りはワルツを踊るよう。
私は椅子に座ってその様子を眺めている。ソキウスがフライパンの卵を軽く混ぜて振り返った。
「続きはいつしますか?」
世の幸福の全てがここにあるような笑顔。彼の言う『続き』とはすなわち、昨日彼が私を抱きしめた『この先』。言い換えると、彼が私を押し倒したい衝動の先。
「朝食を済ませたらしますか?」
——フレッドは彼にその具体的手順を教えたが、TPOまでは教えなかったらしい。
「ソキウス」
「はい」
「……それは、朝からするようなものではないわ」
「? フレッドから入手した情報によると、時間帯は関係なく、互いの気持ち次第ということですが」
「…………」
「充分に気持ちが通じ合っている間柄なら、相手の隙を見てするのもアリだと」
「隙……隙!?」
「僕はいつでも大歓迎です」
「いや、そんなのダメよ。もっとこう……節度を守らないと」
ソキウスが「そうなんですか?」と首を傾げ、「では、あなたの隙はつかないことにします」と言って料理に戻った。
(フレッドったら。変なこと吹き込むのやめてくれないかしら)
それから私たちはいつも通りに朝食を取り、お茶を飲み、他愛のない会話を交わした。いつもと同じゆったりとした朝。心地良い空気。柔らかい時間。
お茶を飲み始めてしばらく。来客を告げるチャイムが鳴った。
——一回だけ。
「誰ですかね」
ソキウスが不思議そうに言って立ち上がり、玄関へ向かう。私はそれを見送って紅茶を一口。
来客時の対応はいつも彼。チャイムが連打されてフレッドが来たことが明らかでも、彼は私に室内で待つように言う。強盗や何かだったら大変だから、と。
守ってくれている。そのことを嬉しく思う反面、弱い自分が嫌になる。私が弱いから、危険が想定される場面でいつも彼が前に立つことに。
(私が強盗を殴り飛ばせるくらい強ければ——)
そんなことを考えた時だった。玄関の方からソキウスの声。
「ちょっ、なんですか急に。離してください!」
愚かしくも、私はこの時になってようやく気づいた。お上品に一回だけ鳴らされたチャイム——今の私に、お上品な来客などあり得ないということに。




