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5.ふなたび③





 甲板に出たクラウスは、そこに信じられないものを見た。人々が指さす方向――船の後方部分の船べりに、ぬらぬらと光る青黒い物体が巻きついていた。船の柱よりも太いその物体は、蛸もしくは烏賊などの軟体生物の腕に似ていたが、大きさが尋常ではなかった。


「やはり、クラーケン!

 しかし、あれは二十年前にマックスが退治したはず……」


 クラウスの隣に並んだアビーが叫ぶ。

 クラーケンとは、ティル・ナ・ノーグが面する、エクエスの海の主であったとされる魔物である。クラーケンに憑かれた船は必ず沈没するとされ、エクエスの船乗り達に恐れられる存在であったが、 アビーの言うように、二十年前、海洋冒険者(ハンター)のマックスによって退治された。


「アビー先生。あれがクラーケンだとしたら、どうしたらいいのですか?」


「剣はほとんど通りません。僕の闇の剣(シューティア)なら少しは傷つけられるかもしれませんが。あとは火ですね」


 しかし、アビーは闇の剣(シューティア)を自分の船室に置いてきていた。手持ちの武器は、マントの隠しに備えた小刀しかない。大抵の相手は刃物を出すまでもなく倒せるからだったが、想定外の出来事に、己の慢心を悔いた。


「僕が戻るまで持ちこたえられますか」


「はい。

 誰か! 火を持て!」


 分隊長として、そして今は師団長として指示することに慣れた声に、慌てふためいておろおろするばかりだった乗組員たちが反応する。


「火矢だ! あの魔物に射かけろ!」


 本来は、船上で火矢を使うなど自殺行為だ。けれど今はそんなことを言っている場合ではない。仮に目の前の魔物がクラーケンならば、何もしなくても船はばらばらに砕かれてしまう。


 クラウスの指示で乗組員たちが動き始めたのを見て、アビーは自室に剣を取りに向かう。途中、異常事態を知って出てきた人々に、救命用具を身に付けて安全な場所で待つよう声をかけていった。


 みしり、みしりと、船体が不吉な音をたてる。

 アビーが剣をとって甲板に引き返すと、クラウスを司令塔とした乗組員たちが、火矢をかまえて魔物と向かい合っていた。


「なぜ攻撃をしないのですか?」


 船べりに絡みつく魔物の腕の周りには、何本か矢が突き刺さり、火がくすぶった跡がある。魔物の本体は見えないが無数の腕が海から湧き上がっており、船はぎしぎしと音を立て、今にも海の底へ引きずり込まれそうだった。


「あそこを見てください」


 クラウスが、魔物の腕と船の柱が重なった部分を指さす。魔物の腕は柱に吸盤を密着させて、はるか上のほうまで巻き付いていた。あのままでは、ほどなくして重要な柱を一本、へし折られてしまうだろう。それなのに、なぜ攻撃しないのか。

 アビーはクラウスの意図がわからず首をひねる。クラウスは横にいた乗組員に指示を出し、柱に巻きつく腕めがけて矢を射かけさせた。


 タン!


 放たれた矢が魔物の腕に突き刺さる。しかし魔物は痛がる様子はなく、矢などまるでないに、上へ上へと昇り続けた。


「幻影ですか」


「えぇ。乗組員たちはクラーケンの亡霊だと言っています」


「なるほど」


 言われてみれば、みしみしと音はするものの、船自体は壊れていない。あんなに太い腕に巻き疲れている柱も、歪むことすらしていなかった。幻影に踊らされ下手に攻撃をしたら、船を焼き、自滅するところだった。


「いい人材が育っていますねぇ」


 魔物を取り囲む最低限の人員を残し、あとは安全な航行のためにそれぞれの持ち場を守るよう指示をするクラウスに、アビーがつぶやく。船上の者たちが混乱し恐慌状態に陥る中、クラウスはアビーの『火が有効』という言葉だけに頼らず、自分の目で魔物の特性を見極め、冷静に対処していたのだ。


「は?」


「いえ。

 ではあれが亡霊だとして、実害はないわけですね。この船の揺れとあちらで倒れている男は何ですか?」


 みしりみしりと音がするのは、船が大きく揺れているからだ。空は晴れていて風も凪いでいるのに、波は高く、船を大きく揺らしている。


「波はわかりません。

 あの男は、実害がないとわかったとたんに近付いていき、倒れました」


 男は、クラウスたちが止めるのも聞かずに、『亡霊だなんだと、大の男が何を怖がっているんだ。僕はそんなの恐れないよ』などと言って、ひょいと魔物の腕に触れたという。そのとたんに巻きつかれ、見た目の変化はないのに苦しんで倒れた。手足がぴくぴくと動いていることから、死んではいないようだ。


「瘴気か、精神的なものか」


 アビーの言葉に、クラウスもうなずく。船尾に巻きついている魔物の腕は、今はそれ以上迫ってはこないが、船室に入り込むようなことがあれば何が起こるかわからなかった。


「ん? あの男、よく見れば今朝コレットさんにからんでいた男ですね」


「そうです」


「ははっ、ばちがあたったんですね。もしかして、君もたいして本気で止めなかったんじゃないですか?」


 アビーがにやりと笑うと、クラウスは無言で片眉を上げた。アビーは「ぷっ」と吹きだす。


「や、君、変わりましたねぇ。昔はもっと堅くて真面目を絵に描いたような感じだったでしょう。騎士道精神にあふれているのはいいのですが、騎士とはいえきれいな仕事ばかりではありませんからね。複雑な人間関係や権力闘争に巻き込まれることもありますし、少々心配していたんですよ」


 変えたのは、コレットなのか、他の何かなのか。

 たぶんその両方だ、と十八分隊の面々を思い浮かべたクラウスは思う。


「よき友人、よき伴侶は何よりの宝です。さて、僕もいろいろと守りたいものがありますから、こんなものはさっさと片付けてしまいましょうね」


 アビーはクラウスに乗組員を遠ざけるように言うと、腰に穿いた剣の柄を握った。音もなく、わずか指一本分だけ剣が鞘から姿を現すと、急に辺りが暗くなった。どこからともなく現れた雲が空を覆い、アビーの足元を、一陣の風が吹き抜ける。船尾に巻きつく魔物の腕は、一本、また一本と増えていき、船の揺れが激しさを増した。


「はああああッ」


 アビーは、足を開いて重心を低くし、闘気を高める。アビーの闘気を受けて、漆黒の鞘は雷気を帯びて発光し、まるで剣自身が意志を持つかのように鳴動しはじめた。

 魔物の腕は危険を察知したのか、寄り集まり、アビーの背丈の何倍にもふくれあがる。乗組員とともに壁際まで退避していたクラウスは、今にもアビーに襲い掛からんばかりの魔物を見て、思わず叫んだ。


「アビー先生!」


 クラウスの声に魔物がぴくりと反応する。その瞬間、アビーが動いた。


 閃光が走る。


 気迫とともに抜刀された剣の先の空間が裂け、雲の間に闇が見えた。


空の妖精(ニーヴ)の創り賜いしこの地に、あなたのようなものは要りません。

闇の剣(シューティア)よ、穢れし輩を闇に葬り去りなさい!」


 剣を逆手に持ち替えたアビーが、魔物に向かって切っ先を掬い上げる。猛烈な風が、船に巻きつく魔物の腕を引きはがし海から醜悪な本体を引きずり出して、闇の剣(シューティア)によって作られた空間へ押し込んだ。


 オオオ、と魔物の苦しむ声が、船を震わせる。


 アビーが剣を鞘にしまったときには、頭上には青空が広がって、何事もなかったかのように静けさが戻っていた。


「アビー先生……その剣は……」


 一連の出来事を最初から最後まで目撃していたクラウスが尋ねる。


闇の剣(シューティア)ですか?

 以前、旅先で出会った黒竜から、珍味と引き換えにもらったんですよ。これの兄弟剣がヴィルヘルミーナにあるというので、探しに行くところだったんです」


 騎竜として手なずけているものと違い、野生の竜、特に辺境や未踏の地にいる竜は人間よりも遥かに長い時を生き、高度な知能を持つものが多い。その竜からもらったという剣は、まさにアビーにしか持ちえないものであり、その威力は今()の当たりにした通り、すさまじいものだった。


「思えば、このあたりの海域は、その昔マックスがクラーケンを退治した場所です。やつの思念なり怨念なりが残っていたのでしょうね。全く、こんなところで彼の尻ぬぐいをすることになるとは。後で何か奢ってもらわなければなりません。

 あぁ、黒竜にあげた珍味ですか? 聞きたいです?」


「いいえ、結構です」


「まぁ、そう言わずに。半妖クレオの胎児のですね……」


「私は一足先に乗客に安全を伝えてきます。アビー先生、大変申し訳ありませんが、そこで倒れている男をお願いします」


 竜の喜ぶ珍味など、ろくなものであるはずがない。顔をしかめてアビーの話をさえぎったクラウスは、足早に船室へと向かった。




 クラウスは、はやる気持ちを抑えてまずは船長に会いに行った。事情を説明して魔物は去ったことを伝えると、顎髭を生やした恰幅のいい船長は、床に額をこすりつけんばかりにして感謝の言葉を重ねた。

 その後、乗組員をねぎらい、食堂へと向かう。食堂では、十数人の女性や子どもが身を寄せ合っており、コレットは親を求めて泣く子どもの一人をなだめていた。


「クラウス様!」


 コレットが、クラウスに気付いて立ち上がろうとする。子どもは優しい守り手が離れることに恐怖を覚え、肩を震わせてさらにしゃくりあげた。コレットが慌てて子どもの頭を撫でている間に、クラウスは倒れた椅子やテーブルをかきわけて、不安な表情を浮かべる人々の元へと歩み寄った。


「ティル・ナ・ノーグ天馬騎士団第六師団長クラウス=アルムスターです。洋上に現れた魔物は、無事退治されました。現在、乗組員による安全点検が行われています。間もなく航海が再開されるでしょう」


 クラウスの言葉に、人々が安堵の声をあげる。日頃、知らぬ人には敬遠される強面と威圧感を与える体躯も、この時ばかりは何よりも頼もしく映った。


「クラウス様は、お怪我はありませんか?」


 子どもを抱き上げたコレットが、心配そうにクラウスに尋ねる。


「あぁ。君は?」


「大丈夫です」


 微笑むコレットの肩に、クラウスが手を置く。周りに人がいなければ抱きしめたいところだったが、職名を明らかにしてしまった以上、人前での行動には注意を払わなければならなかった。


「一体、何があったんですか?」


「あぁ。実は……」


「あ! お母さん!」


 クラウスが外での出来事を話そうとしたところで、コレットが抱いた子どもが食堂の入口を指して叫んだ。


「坊や……!」


 駆け寄ってきた母親に、コレットが子どもを渡す。母親は涙を浮かべて子どもを強く抱き、父親らしき男もあとからやってきて母親ごと子どもを抱きしめた。

この親子の再会を皮切りに、次々と人々がやってきて、あちこちで無事を確かめ合う声が聞こえた。


「よかった」


 コレットは、笑顔を浮かべて母娘を眺め、我が事のように喜ぶ。クラウスはそんなコレットの頭をぽんと撫でると、船室に戻って一休みしようと言った。






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