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夫の「失踪していた妹」を家に迎え入れたら、二人は私を売る計画を立てていた

作者: 熾星
掲載日:2026/06/17

 

 1.彼女が帰ってきた日

 夫の黒瀬拓真が、失踪していた「妹」を、とうとう家へ連れて帰ってきた。

 前世の私は、彼女が子どもを抱き、古びた荷物を引きずって玄関に立っているのを見て、放っておけなかった。だから東京・世田谷に買ったばかりの新居へ入れてやった。けれど彼女は、家に来たその夜から、拓真と一緒に主寝室で眠りたいと言い出した。

「美咲お義姉さん、私とお兄ちゃんは三年分の家族の時間を失ったんです。ちゃんと取り戻さなきゃ、だめですよね?」

 後になって、私は知った。彼女は拓真の実の妹などではなかった。黒瀬由依――拓真の初恋の女だった。そして彼女が抱いていた大翔も、私の甥などではなく、由依と拓真の息子だった。

 私は二年間、不妊治療を続けた末に、ようやく子どもを授かった。けれど大翔は、医師から出されていたビタミン剤を、出どころの分からない薬にすり替えた。そして手を叩きながら笑った。

「お腹の中のそれ、疫病神だろ。神様が連れていくなら、お前も一緒に連れていけばよかったのに」

 私は大量に出血し、床に倒れた。その時、黒瀬拓真と黒瀬由依はソファに座ったまま、バラエティ番組を見ていた。テーブルの上には菓子の殻が散らばっていたのに、二人は救急車も呼ばず、私に触れようともしなかった。


 次に目を覚ました時、私は長野の山奥にある廃業した養豚場にいた。足首は鉄鎖でつながれ、腐った飼料の臭いと豚舎の生臭さが混ざり合っていた。五十を過ぎた、酒臭い禿げた男が私の前にしゃがみ込み、黄色い歯を見せて笑っていた。死ぬ直前、私が最後に見たのは、鉄扉の外で由依に口づけし、大翔を抱いて笑う拓真の姿だった。

「こいつは死ぬまで知らないだろうな。由依こそが俺の初恋だったって。これで、もう俺たちの間に邪魔者はいない。こいつを売った金で、息子の未来も作ってやれる」


 再び目を開けると、私は黒瀬拓真が由依を連れて帰ってきた、その日に戻っていた。

 リビングのテレビは大きな音で鳴り、大翔はソファの前で耳障りな声を上げていた。安っぽい香水の匂いと、子どもの汗の臭いが部屋中に充満している。手足が一瞬で冷たくなり、前世で豚舎の中で死んだ恐怖と憎しみが、一気に胸の奥から噴き上がった。

 浴室の明かりがついていて、黒瀬由依が中で電話をしていた。彼女は声を潜め、どこか地方訛りのある話し方をしていた。前世の私は意味が分からず、ただ実家の親戚に無事を知らせているのだと思っていた。けれど長野の山奥に閉じ込められていた数年間で、その言葉は嫌というほど頭に刻み込まれていた。


「叔父さん、安心して。絶対に綺麗な嫁を一人連れていくから。東京の女よ。若くて、見た目も悪くない」

 私は浴室のドアの外に立ったまま、全身が冷え切っていった。

 最初から、あの人たちは私を売るつもりだったのだ。

 私は迷わず、羽田から福岡へ向かう航空券を取った。母は福岡に住んでおり、兄の佐倉蓮もそこで弁護士事務所を開いている。前世の私は家族に迷惑をかけることを恐れていたが、今世では、まず生き延びなければならなかった。


 私は寝室に戻り、パスポート、在留カード、健康保険証、銀行カード、印鑑を取り出した。リビングにいる三人の屑をもう一度目にした時、それでも胸の奥は震えた。

 私と黒瀬拓真は見合いで知り合った。交際半年、結婚三か月。熱烈に愛し合っていたわけではないが、拓真はずっと穏やかで礼儀正しい男に見えていた。あの日、彼が女と子どもを連れて帰り、「失踪していた妹だ」と言うまでは。


 彼女は黄ばんだパーカーを着ていて、ズボンの裾には泥がこびりついていた。髪はひどく絡まり、背中には膨らんだリュック、腕には大翔を抱いていた。うつむく姿は、ひどい目に遭ってきた女そのものだった。私は彼女が「三年間失踪していた」という話を思い出し、愚かにも同情してしまった。

 あの日、私は彼女の靴を脱がせ、荷物を受け取り、大翔を抱き上げて二人を家に入れた。黒瀬由依はその時、抑えきれないほど嬉しそうに笑っていた。彼女は大翔の手を引いてリビングを一周し、ここがこれから二人の家になるのだと告げていた。


 私が二人のために客室を整えると、彼女は親しげに黒瀬拓真の腕へ絡みついた。

「美咲お義姉さん、私とお兄ちゃんは三年分の家族の時間を失ったんです。ちゃんと取り戻したいんです。私がお兄ちゃんと一緒に寝ても、怒りませんよね?」

 私が声を出すより先に、黒瀬拓真の顔が冷たくなった。

「由依はあれだけ苦しんだんだ。昔みたいに俺のそばで安心したいだけだろ。何だ、その顔は」

 そう言うと、彼は由依を抱くようにして主寝室へ入っていった。


 前世の私は夫に嫌われたくなくて、由依と大翔に何をされても耐えた。由依が「安心できない」と言って、拓真にマンションの一部持分を自分名義へ移させようとしても、私は拒まなかった。大翔が私のクレジットカードでゲームに何十万円も課金しても、警察には届けなかった。由依が私の化粧品やバッグを盗み、大翔が仕事用のパソコンと資料を壊しても、すべて飲み込んだ。

 拓真が私に触れようとしなくなったため、私は一人で不妊治療を受けた。ようやく妊娠したのに、大翔に薬をすり替えられた。私が血を流して倒れている時、黒瀬由依と黒瀬拓真はソファで菓子を食べながらテレビを見ていた。画面の笑い声と二人の笑い声が混じり合い、頭の中で何度も爆ぜた。

 意識を失う直前、私は大翔が腹を抱えて笑っているのを見た。

「疫病神、いなくなった! 神様、ついでにお前も連れていけばいいのに!」


 次に目を覚ました時、私は長野の山奥にある廃業した養豚場にいた。薄暗く朽ちた小屋、揺れる裸電球、壊れた椅子、そして壁一枚向こうの豚舎。あの臭いは悪夢のように、今も私の喉を締めつける。

 天はまだ、私を完全には見捨てていなかった。今世こそ、二度と地獄へ落ちたりしない。


 証件を持って寝室から出ると、大翔が水の入ったコップを掲げ、私のパソコンへ叩きつけようとしていた。黒瀬由依は隣でぶどうを食べ、皮を床に吐き散らしながら、見て見ぬふりをしている。怒りが頭のてっぺんまで込み上げたが、私は必死に飲み込んだ。

 今、何より大事なのは、この家から出ることだった。


 私は前へ出てパソコンを奪い取ったが、足元のぶどうの皮を踏み、危うく滑りそうになった。黒瀬由依は私の顔色を見ると、慌ててぶどうを置き、ソファで手を拭いてから近づいてきた。

「何をそんなに怒ってるの? パソコンにロックがかかってたから、大翔がゲームをしたくても開けなくて、何とかしようとしてただけでしょ。子ども相手に大げさじゃない?」

 私は彼女の伸ばした手を避け、胸の奥の嫌悪を押し殺した。

「子どものしつけくらいしなさい。次に私の物へ勝手に触ったら、警察を呼ぶ」

 黒瀬由依の顔が、一瞬で険しくなった。

「たかがパソコンでしょ? そんなに大事? パスワードまでかけて、誰を警戒してるの? 中に浮気の証拠でも入ってるわけ?」

 彼女は騒ぎ始めたが、私はこれ以上付き合う気がなかった。上着をつかみ、玄関へ向かう。外へ出て、車に乗り、羽田空港に着ければ、まだ逃げられる。


 その時、大翔が突然叫んだ。

「ママ! あいつ、さっき物を盗んでた! カードとか証件とか、いっぱいポケットに入れてた!」

 背筋が凍った。私は彼がずっとテレビを見ているものだと思っていた。まさか最初から、私の動きを見張っていたなんて。

 黒瀬由依の声が、すぐに鋭くなった。

「待って。証件なんか持って、どこへ行くつもり?」

 毒蛇のような目が、私をじっと見据えていた。全身から冷や汗が噴き出す。私は答えず、素早く部屋を出ると、スマホで羽田空港行きのタクシーを呼んだ。

 黒瀬由依は廊下まで追ってきて、黒瀬拓真へ電話をかけた。

「早く戻ってきて! あの女、何かに気づいたみたい。逃げるつもりよ!」



 2.羽田へ逃げろ

 タクシーは、もうマンションの下に着いていた。

 私が車に乗り込み、まだドアも閉めないうちに、黒瀬拓真がマンションの入口から飛び出してきた。彼は車の前に立ちはだかり、窓を軽く叩いて、運転手に開けるよう合図した。

 運転手が窓を下ろすと、拓真は一万円札を二枚差し出し、さらに煙草を一本渡した。彼は私を指さし、低い声で何かを言った。私は前の座席の背もたれをつかみ、すぐに運転手を急かした。

「そのまま出してください。倍払います!」

 拓真は運転手が迷っているのを見ると、その耳元に何かをささやき、自分の頭を指さした。運転手は深く私を見返し、それからロックを解除した。

「お嬢さん、ご主人と家に戻った方がいいですよ。精神的に不安定な家族を支えるのは、大変でしょうからね」

 胸の奥が、すっと冷たくなった。彼は私を精神病扱いしたのだ。


 黒瀬拓真は私を車から引きずり出した。黒瀬由依もマンションの中から駆け出してきて、その手には縄のようなものが握られていた。その瞬間、私の頭の中には、前世で足首を鉄鎖につながれた光景だけが浮かんだ。

 私は膝を振り上げ、拓真の股間を思い切り蹴り上げた。彼が痛みに体を折って手を緩めた瞬間、私は全力で走り出した。黒瀬拓真と黒瀬由依は、後ろから追いかけながら叫んだ。

「美咲! もうやめろ! 早く家に戻れ!」

「この人、精神的におかしいんです! 誰か止めてください!」

 どれほど必死に走っても、成人男性から逃げ切るのは難しかった。足音はどんどん近づき、心臓は胸を突き破りそうに鳴っていた。その時、コンビニの方から買い物袋を下げた田中さんが歩いてきた。彼女は同じマンションの古い住人で、町内会でも何かと世話を焼きたがる人だった。私は救いを見つけたように、彼女の後ろへ飛び込んだ。


「田中さん、聞いてください。夫の家の、失踪していた『妹』が突然戻ってきたんです。数日面倒を見るくらいなら構いません。でも母が福岡で転んで入院したから帰らなきゃいけないのに、黒瀬拓真が行かせてくれないんです。こんなのおかしいですよね?」

 田中さんの子どもたちは皆、遠くに住んでいて、彼女は長年一人暮らしをしていた。だから親に何かあった時、子どもがすぐ帰れない焦りをよく知っている。まして黒瀬家に、子どもを抱えた「失踪していた妹」が突然戻ってきたという話は、彼女の好奇心を十分に刺激していた。


 黒瀬拓真は足を止め、すぐに焦りと心配を混ぜた表情を作った。

「お義母さんが入院したなんて聞いてないぞ。美咲、何も言わずに行こうとしたら心配するに決まってるだろ。俺も一緒に行く。俺だってお義母さんが心配なんだ」

 彼の目的を知らなければ、本当に私の家族を心配しているように見えただろう。前世で私を山奥へ売った後、拓真は母に電話し、私は食べ物を誤って口にして流産し、感染症で亡くなったと告げた。そして遺体はすぐに火葬したと嘘をついた。母はその場で泣き崩れ、意識を失い、やがてそのまま帰らぬ人になった。


 私は黒瀬拓真を睨み、冷たい声で言った。

「由依はやっと戻ってきたばかりで、不安定なんでしょう。あなたは家に残って、彼女についていてあげて」

 息はまだ整っていなかった。私はいつでもまた走り出せるよう、足に力を込めていた。

「もうチケットは取ったの。あなたを待っていたら間に合わない。家で大人しくしていて」

 そう言って、私は田中さんの腕をそっと押し、道路へ向かって走った。ちょうど一台のタクシーが止まり、中の客が降りようとしていた。私はそのまま乗り込み、数枚の紙幣を運転手へ差し出した。

「羽田空港まで。できるだけ急いでください」


 黒瀬拓真が車のドアを叩いたが、田中さんがすぐに彼を引き止めた。彼女は「奥さんの実家が大変なのに、どうして止めるの」「男がそんなふうに縛りつけるものじゃない」と、次々にまくし立てる。黒瀬由依は横で足を踏み鳴らし、苛立ちを隠せずにいた。

 運転手さんは余計なことを言わず、アクセルを踏み込んだ。バックミラーの中で、黒瀬拓真と黒瀬由依が怒り狂っているのが見えた。それでも、今は追いつけない。私はようやく息を吐いた。

 私はわざと「チケット」とだけ言った。航空券とは言っていない。田中さんを振り切ったとしても、拓真はまず東京駅か品川駅へ向かうはずで、羽田とは思わないだろう。けれど私は忘れていた。前世で私を山奥まで騙して連れていった黒瀬拓真が、ただの愚かな男であるはずがないことを。



 3.搭乗口前の追跡

 羽田空港に着くと、私はそのままターミナルへ駆け込んだ。

 保安検査を通り、搭乗口近くの椅子に座った時、ようやく張り詰めていた肩の力が少し抜けた。館内放送の柔らかな声が流れ、周りには人が行き交っている。豚舎も、鉄鎖も、黒瀬拓真の手も、ここにはなかった。

 飛行機に乗れさえすれば、福岡へ帰れる。兄の佐倉蓮に会えれば、前世と今世で起きたすべてを話せる。兄は弁護士で、DVや女性支援の案件にも詳しい。きっと、何をすべきか分かってくれる。

 私はスマホを握りしめたまま、震える指先を見つめた。今世で逃げなければ、待っているのは、あの二人に家政婦のように使い潰され、最後は長野の廃業した養豚場へ送られる未来だけだった。


 安全だと思ったその時、少し離れた場所で騒ぎが起きた。

 顔を上げると、黒瀬拓真が黒瀬由依と大翔を連れ、保安検査場の外で警備員ともめていた。三人は無理やり中へ入ろうとしているようだった。一目見ただけで、やっと緩んだ息が、また胸の奥で詰まった。

 前世で私は、流産後の弱った体で売られた。けれど今世の私は妊娠していないし、血も流していない。何より、あの二人が何をしようとしているか知っている。それが、ほんの少しだけ私に勇気をくれた。

 搭乗まで、あと三十分。どうにかこの三十分をやり過ごせばいい。


 黒瀬拓真が外から怒鳴った。

「佐倉美咲! 中にいるのは分かってるぞ! お前のメール、俺のパソコンにも同期されてるんだ。羽田発福岡行きの航空券、見たぞ。よくも騙したな!」

 彼は叫びながら、近くの旅行客を捕まえて私の背格好を説明していた。黒瀬由依は大翔を抱き、周囲を見回している。三白眼が冷たく人混みをなめるように動き、高い頬骨と相まって、その顔はいつ飛びかかってくるか分からない毒蛇のようだった。


 私は待合スペースの奥へ少し移動し、体の震えを抑え込もうとした。あの人たちは入ってこられない。見つからなければいい。搭乗時間まで隠れきればいい。

 保安検査場の外で、黒瀬由依が拓真を低い声で責めていた。それでも、いくつかの言葉が私の耳に届いた。

「本当に使えない男。町内会のおばさん相手に、あんなに時間を取られて。私なら一発殴って黙らせるわ。叔父さんが、目の前まで来た商品を逃したと知ったら、ただじゃ済まないわよ」


 拓真は焦っていたところへ由依に責められ、さらに苛立ったのか、保安検査場を乗り越えようとした。だがここは空港であり、彼らの家ではない。

「中に入れろ! ここをぶっ壊してやってもいいんだぞ! それが嫌なら、あのクソ女を今すぐ出せ!」

 彼の態度は横暴で、今にも飛び込んできて私を引き裂くかのようだった。大丈夫、落ち着けと自分に言い聞かせても、服の内側は冷たい汗で濡れていった。


 誰も彼の言葉に従わなかった。警備員たちも我慢の限界に近づき、彼を外へ出そうとした。だが拓真はますます焦り、押し合いの中で何度も周囲の人にぶつかった。

 電話をしていた男性が彼にぶつかられ、スマホを床に落とした。黒瀬拓真はそれを一瞥もせず、なおも前へ進もうとする。男性はスマホを拾い、割れた画面を見て顔色を変えた。そして警備員を制し、拓真の前へ立った。

「謝れ」

 怒りでいっぱいだった黒瀬拓真は、男のスマホをもう一度床へ叩きつけ、さらに強く踏みつけた。

「邪魔なんだよ、どけ」

 男の目が完全に冷えた。彼はゆっくりと上着を脱ぎ、鍛え上げられた腕と肩をさらした。その圧が出た瞬間、拓真は明らかに怯んだ。男は拓真の襟をつかみ、持ち上げるように引き寄せた。

「今、誰に向かって言った。もう一回言ってみろ」

 次の瞬間、男の拳が拓真の頭へ向かった。拓真はすぐに頭を抱え、目を閉じて叫んだ。声には情けない泣きが混じり、よく見るとズボンの前まで濡れていた。


 警備員たちが慌てて止めに入ったが、少し遅かった。拳は拓真の頭をかすめ、彼はその場に崩れ落ちた。周囲の旅行客から、小さな拍手とざわめきが起きた。

 私は胸の奥につかえていたものが、少しだけ溶けるのを感じた。黒瀬由依と大翔の姿はもう見えなかった。おそらく混乱に紛れて、どこかへ身を隠したのだろう。

 搭乗開始のアナウンスが流れた。私は深く息を吸い、列に並んで搭乗口へ向かった。飛行機に乗ればいい。東京を離れさえすれば、それでいい。

 けれど座席に着き、シートベルトを締めた直後、客室乗務員の柔らかな声が耳元で響いた。

「佐倉美咲様。お客様の手荷物に違法薬物が入っているとの通報がありました。確認のため、いったん降機して警察の調査にご協力ください」

 全身の毛が、ぞわりと逆立った。



 4.仕組まれた通報

 私は飛行機から降ろされた。警務室の前には、顔を腫らした黒瀬拓真が立っていた。その後ろには、逃げたはずの黒瀬由依がいる。彼女は陰湿な笑みを浮かべ、声には出さず口だけで告げた。

「このクソ女。逃げられると思った?」

 警察が私の荷物を調べた。もちろん違法薬物など入っていない。けれど搭乗はもう間に合わず、ゲートも閉じられてしまった。


 警務室を出ると、黒瀬拓真と黒瀬由依がすぐに近づいてきた。二人は左右から私の腕をつかむ。拓真は私の頬に手を伸ばし、耳元に落ちた髪を指先で絡め取った。さっきの粗暴な男とは別人のように、優しい夫の顔を作っていた。

「どうして逃げるんだ。何かあれば、俺に相談すればいいだろ。俺が君を傷つけると思ってるのか?」

 彼の息が首筋にかかった。吐き気がこみ上げ、全身に鳥肌が立った。

「いい子だから帰ろう。お義母さんにはもう電話で確認した。何も起きていないそうだ。詐欺電話でも受けたのか? 世の中には悪い人間が多いからな。いつか本当に売られても知らないぞ」

 その声は、耳元で囁く悪魔のようだった。一言一言に、はっきりとした脅しが含まれていた。

「あなたが手を離せば、私は危険じゃなくなる」

 黒瀬拓真は答えず、私の肩を抱いて無理やり歩かせた。

「もう遅い。帰って休もう」

 彼の力は強く、私は振りほどけなかった。黒瀬由依も私の腕を強くつねり、爪が肉へ食い込むほどだった。この二人と家に帰る? そんなことをしたら、私はもう二度と出てこられない。


 私は突然振り返り、警務室の方へ向かって叫んだ。

「助けてください! この人たちに連れ去られます!」

 警察官がすぐにこちらへ気づき、足早に近づいてきた。黒瀬拓真は私を殴ろうと手を上げたが、警察官の姿を見てぎりぎりで下ろし、作り笑いを浮かべた。

「警察の方、夫婦げんかです。もう夜も遅いので帰ろうとしているだけなんです。妻がまだ怒っていて、家に戻りたがらないだけで」

「これは家の問題です。放っておいてください」


 その時、少し離れた場所から、力のある男の声がした。

「警察が関われないと言うなら、兄である私が関わります」

 私ははっと振り返った。佐倉蓮が濃い色のスーツを着て、キャリーバッグを引きながら大股で歩いてくる。彼の顔は冷え切っていたが、私を見ると、その目だけがわずかに柔らかくなった。

「蓮兄さん!」

 私は兄の胸に飛び込んだ。全身を覆っていた不安が、ようやく支えを得た。飛行機に乗った直後、私は兄に電話をかけていた。話の途中で客室乗務員に呼ばれ、通話は切れてしまったが、それでも兄はすぐに羽田まで駆けつけてくれたのだ。


 佐倉蓮は私の肩を支え、低い声で尋ねた。

「何があった?」

 私はもう隠さなかった。黒瀬拓真と黒瀬由依の計画、前世で聞き取れるようになった山奥の方言、浴室で由依が叔父に電話していたこと、そして二人が私を長野の人身取引の中継地点へ送ろうとしていること。すべてを話した。

 私はただ、あの二人から離れ、平穏に生きたかっただけだった。けれど彼らがここまで追ってくるのなら、もう黙って逃げるだけでは足りない。私でなくても、次の被害者が出るかもしれない。

 私は兄の袖を強く握った。彼は弁護士だ。何をすべきか、分かっている。


 佐倉蓮は話を聞き終えると、恐ろしいほど沈んだ顔になった。彼は警察官へ向き直り、はっきりした声で告げた。

「正式に被害届を出します」

「黒瀬拓真と黒瀬由依には、人身取引、監禁予備、組織犯罪への関与、そして妹に対する誘拐未遂の疑いがあります」

 その言葉に、駆けつけてきた警察官たちの表情が一気に険しくなった。黒瀬拓真と黒瀬由依の顔から、同時に血の気が引いていく。

「この女、何を言ってるんだ! 証拠はあるのか? 名誉毀損で訴えるぞ!」

 黒瀬拓真は私に飛びかかろうとしたが、後ろの警察官に押さえられた。黒瀬由依は大翔を抱きしめたまま、必死に叫んだ。

「私に触らないで! 何もしてない! あのクソ女の嘘を信じないで!」

 私は冷たく言った。

「嘘かどうかは、警察署で確かめれば分かるわ」


 警察官が黒瀬由依の腕から大翔を抱き取った。彼女はたちまち狂ったように前へ飛び出した。

「私の息子に触らないで! 大翔に何かしたら、お前たち全員地獄に落としてやる!」

 けれど、どれだけ暴れても逃げられなかった。黒瀬拓真と黒瀬由依はすぐに連行され、私も兄と一緒に警察署へ向かった。


 移動中、黒瀬拓真はずっと罵声を浴びせ続けた。もともと感情の制御が苦手な男だ。興奮すると、後先など考えなくなる。

「このクソ女! よくも俺を嵌めやがったな! 外に出たら必ず殺してやる!」

 通りかかった警察官が、彼をちらりと見て淡々と言った。

「ああ、家庭内暴力と脅迫の疑いも追加ですね」

 黒瀬拓真は、その場で言葉を詰まらせた。



 5.人身取引の村

 私は前世のおぼろげな記憶を頼りに、長野の山奥にある廃業した養豚場の位置を警察に説明した。道路脇に色あせた木の看板があり、そこには「白樺温泉旧道」と書かれていた。近くには廃れた神社があり、鳥居は半分折れ、夜になると風で鈴緒が低く鳴っていたことも覚えている。

 警察はためらわず、すぐに長野県警へ連絡して捜査を始めた。黒瀬拓真と黒瀬由依は警察署で一晩中わめき続けた。誰も相手にせず、誰も返事をしなかったが、それでも二人は夜明けまで罵声を繰り返した。

 彼らがようやく静かになった頃、証拠が届いた。


 あの「廃業した養豚場」は、ただの養豚場ではなかった。そこは半グレ組織が管理する、人身取引の中継地点だった。

 表向きは、何年も前に潰れた農場にすぎない。だが実際には、失踪した女性、家出少女、外国人労働者、帰る場所を失った子どもたちが、一時的にそこへ集められていた。違法風俗店へ送られる者もいれば、闇工場へ回される者もいる。さらに、地方の男たちへ売られた者もいた。

 黒瀬由依は、もともとその近くの山村で生まれた。十代で外へ働きに出た彼女は、同じ工場で日雇いをしていた黒瀬拓真と出会った。二人の間には、すぐに一人の女の子が生まれた。


 警察の調べで、五年前、二人が当時六歳だった女の子を、その組織へ売っていたことが分かった。

 その女の子こそ、彼らの最初の子どもだった。

 それ以来、黒瀬拓真は不定期に組織へ「商品」を供給するようになった。女はいくら、子どもはいくら、外国人労働者はいくらと、いわゆる「条件」によって値段が決められていた。この五年間で、彼が関わった取引は十数件に及び、被害額は数百万円どころではなかった。


 その後、彼は経歴を隠し、学歴や家庭環境を偽って、見合いで私と知り合った。黒瀬由依が大翔を連れて我が家へ戻ってきたことも、「三年間失踪していた妹がようやく見つかった」などという話ではない。すべては彼らの計画の一部だった。

 彼らはまず私を油断させ、家の中で孤立させるつもりだった。妊娠や流産で体が弱った時、あるいは薬で抵抗できない状態にした時、私を長野の中継地点へ送るつもりだったのだ。


 ここまで来れば、黒瀬拓真がどれほど言い逃れをしても無駄だった。これだけの罪なら、彼の残りの人生はほとんど刑務所の中で終わるだろう。ただ奇妙なことに、最初に出てきた証拠は、ほとんどすべてが黒瀬拓真へ向いていた。黒瀬由依だけが、きれいに抜け落ちているように見えた。


 初期の結果を聞いた後、黒瀬拓真は急に冷静になった。暴れるのをやめ、口も閉ざした。代わりに、黒瀬由依が突然泣き始めた。

「警察の方、だから言ったでしょう? 間違いなんです。私は被害者なんです! あの場所から逃げてきた人間なんです!」

 声だけは大きかったが、涙はほとんど出ていなかった。

「私が女や子どもを売るはずないでしょう? 黒瀬拓真と一緒にいた十年、あの人は私を殴ってばかりでした。女の子を産んでも役に立たないって、私にあの村まで案内させて、可哀想な娘を売ったんです!」

「黒瀬拓真こそ獣です。私はずっと怖くて言えませんでした。全部、あの人がやったことです。それに……私は今、妊婦なんです。いつまでもここに置いておくつもりですか?」


 彼女の芝居は、あまりに下手だった。だが問題は、彼女が直接取引に関わったと示す十分な証拠が、まだなかったことだ。売られた娘は二年後に精神を病み、首を吊って死んでいた。多くの被害者もすでに移され、行方が分からなくなっていた。

 取引記録の多くは黒瀬拓真が握っていた。由依は誘い出しと連絡役に徹していたため、文字の証拠をほとんど残していなかった。黒瀬由依が大翔を抱いたまま、無傷で警察署を出ていくのを見た時、私はどうしようもない悔しさに襲われた。彼女は振り返り、毒を塗ったような目で得意げに笑った。

 この件が彼女と深くつながっていることを、私は知っている。けれど今は、彼女をどうすることもできない。それでも、正義は遅れても、消えるわけではない。



 6.沈黙した夫

 黒瀬由依は、大翔を連れて姿を消した。

 黒瀬拓真の公判の日でさえ、彼女は現れなかった。拓真の件が一段落した後、私は世田谷のマンションを売った。前世で私が自分の手で悪人を招き入れた家だ。生まれ変わってから改めて見ると、壁の一枚一枚に腐った臭いが染みついているように思えた。

 私は福岡へ移り、兄の佐倉蓮の弁護士事務所で働くことになった。私は弁護士ではなく、資料整理や事務を手伝うだけだった。それでも、東京のあのマンションで息をするより、ずっとましだった。


 黒瀬拓真は一審の間、ずっと沈黙していた。私を罵ることも、深情けを装うこともやめた。中身をくり抜かれた木のように被告席へ座り、時おり私を見上げる目には、後悔ではなく怨毒だけがあった。

 裁判官が証拠を読み上げると、彼はようやく少しだけ反応した。救出された被害者の証言、取引記録、送金履歴、車の移動経路、農場の監視映像の断片が、一つずつ示されていく。

 彼は顔を上げ、私を見てふっと笑った。その笑みは、前世で豚舎の外に立ち、黒瀬由依に口づけしていた彼の顔を思い出させた。

「佐倉美咲。お前、本当に悪運が強いな」

 私は静かに彼を見返した。

「悪運じゃない。因果応報ってやつよ」


 黒瀬拓真は連れていかれる時、もう何も言わなかった。彼は正常な夫のふりをするのだけは上手かった。だがその皮を剥げば、中にいたのは、人を売って生きる蛆虫にすぎなかった。

 けれど、これで終わりではない。黒瀬拓真は、ただの一人にすぎない。黒瀬由依は、まだ外にいる。



 7.半年後の再会

 黒瀬由依に再会したのは、それから半年後だった。

 その日、兄は接待から戻ると、一枚の小さなカードを机に投げ置いた。中洲の周辺で、最近またこういうものが増えているらしい。私は何気なくそれを見て、全身が固まった。

 カードに写っていた女は、顔に手を入れ、濃い化粧で原形が分かりにくくなっていた。それでも、あの暗い目だけは変わっていなかった。黒瀬由依だった。


 半年ぶりの彼女は、整形でもしたのか、鼻筋が高くなり、顎も尖っていた。だがどれほど顔を変えても、骨の奥からにじみ出る陰湿さと強欲さまでは隠せない。

 私は兄の事務所にある予備のスマホを使い、カードに書かれた連絡先を追加した。

【こんにちは。今夜はいくらですか?】

【五万円です】

 相手は余計なことを言わず、すぐに数枚の写真を送ってきた。私はその中から黒瀬由依を見つけ、彼女の写真を送り返した。

【この人で】

 返事はすぐに来た。

【こちらは少し特殊です。実際にご覧になってお気に召さなければ、別の子を手配できます】


 特殊? 黒瀬由依に、いったい何があるというのだろう。

 この半年、私は彼女を捜すのをやめなかった。考えてみれば、私と彼女の間にある恨みは、黒瀬拓真へのものより深いかもしれない。彼女は私を家に誘い入れ、私を売る計画を立て、流産する私を見て、死んでいく私を嘲笑った。

 それでも私は、どうしても気になった。この半年で、彼女はいったい何を経験し、どこまで落ちたのか。

 私はその夜の会食を設定した。相手は兄の事務所が最近ずっと交渉していた会社の社長だった。女好きだと聞いていたから、黒瀬由依を表に出すにはちょうどいい場所だった。


 すべての疑問は、彼女を見た瞬間に解けた。

 黒瀬由依は腹を大きく膨らませていた。五、六か月には見える。彼女は個室に入ってきた瞬間、目を見開き、しばらく口をぱくぱくさせた後、私を指さした。

「どうして、あなたがここにいるのよ!」

 取引先の社長は、細めた目で彼女を上から下まで眺め、意味ありげに笑った。

「こちらの女性は? お知り合いですか?」

 社長が手招きするのを見ると、黒瀬由依は私を睨むことさえ忘れた。彼女は従順に近づき、あまりにも自然な動作で社長の隣へ腰を下ろした。

 私は仕事用の笑みを浮かべ、社長へ向き直った。

「ええ、知っています。社長に喜んでいただけるかと思って、特別に用意した贈り物です。気に入っていただけたら契約も進むかと思っていたのですが、まさか妊婦を寄こすなんて。手配側は何を考えているんでしょうね」

 私はわざと眉をひそめ、黒瀬由依へ手を振った。

「お腹が大きいんだから、早く出ていきなさい。場がしらけるでしょう」


 黒瀬由依はその言葉を聞くと、私を恨めしそうに睨んだ。まるで私が彼女の稼ぎを邪魔したと言わんばかりだった。次の瞬間、彼女は社長の首に腕を回し、その頬へ口づけした。

「せっかく来たんですもの。これも縁ですよ、社長。私を残してください」

 社長はそれを気に入ったらしく、彼女を抱く手に力を込めた。私がさらに何か言おうとすると、彼は鋭い目でこちらを睨み返した。

「贈り物は気に入った。契約書には後で署名する」


 この社長は評判が悪く、気性も荒く、私生活でもろくでもない噂が多かった。私はもともと、黒瀬由依に少し痛い目を見せるつもりだった。けれど妊娠している彼女を見た瞬間、迷いが生まれた。たとえ彼女が私の敵でも、妊婦が自ら深みへ踏み込むのを、黙って見ていることはできなかった。

 私は彼女に機会を与えた。残ることを選んだのは、彼女自身だ。時には、他人の選んだ運命を尊重することも、慈悲なのかもしれない。

 私はそれ以上止めなかった。黒瀬由依が社長の機嫌を取っている隙に、私は契約書を取り出した。社長はすぐに署名した。今日の目的は達成したため、私は理由をつけて個室を出た。


 部屋を出た直後、黒瀬由依がトイレに行くふりをして追ってきた。彼女は数枚の紙幣を手に、得意げに私の前でひらつかせた。

「佐倉美咲、これが何か分かる? 社長が私にくれたのよ。昔もあなたは私に勝てなかった。今だって同じ。今日この契約が取れたのも、私のおかげでしょう? 感謝して泣きたいくらいじゃない?」

 私は彼女を見て、少し笑った。

「そう。おめでとう」



 8.彼女が選んだ地獄

「佐倉美咲、勝ったつもりでいないで。大物の社長に取り入ったら、必ず後悔させてやるから」

 黒瀬由依はそう言い残し、腰を揺らして個室へ戻っていった。大きな腹を抱えて歩くのもつらそうなのに、自分の健康も子どもの命も賭けて、上へ這い上がろうとしている。

 ならば、成功を祈るしかない。


 しばらくして、社長は黒瀬由依の肩を抱いて個室から出てきた。二人はそのままエレベーターへ向かう。上の階はホテルだった。私は後を追わず、一階ロビーに座って、兄の事務所の人間が契約書を取りに来るのを待った。

 ホテルの防音がどれほど良くても、上階から聞こえてくる悲鳴までは完全に消せなかった。私は中で何が起きているのか、考えたくなかった。その叫びは三十分ほど続き、やがて突然静かになった。


 しばらくして、男の絶叫が上階から響いた。

 扉が開いた。黒瀬由依が血まみれのまま、衣服を抱えてエレベーターの方から走ってきた。髪は乱れ、顔に張りついている。鼻水と涙で顔はぐしゃぐしゃになり、体にははっきりとした傷が残っていた。手首と首元には締めつけられた跡があり、顔も口元も手も血で汚れていた。

 彼女はよろめきながら走り、危うく転びかけた。そして私を見るなり、体を投げ出すようにしてしがみついてきた。

「佐倉美咲! あなたが私を嵌めたんでしょう!」

「そうよ。それが何?」


 私は半歩下がり、彼女に触れられないようにした。ごみを見るような目で彼女を見下ろす。半開きの扉の向こうでは、部屋がひどく荒れ、社長が床にうずくまり、血だまりの中でうめいていた。

 黒瀬由依の目は憎しみに満ちていたが、彼女自身も全身傷だらけで、脚の間から血が流れ続けていた。顔は真っ白で、大きな腹を引きずる姿は、地獄から這い出してきた女鬼のようだった。

「痛い……助けて……」

 血が彼女の脚を伝い、カーペットに染み込んでいく。彼女は床を這い、私の足首をつかんだ。爪が肉に食い込みそうになるほど強く、私は冷たく彼女を見下ろした。

「私が悪かった。このままだと死ぬ。助けて!」

「いいわ。自首しなさい」


 彼女の動きが止まった。

「あの事件、黒瀬拓真だけがやったわけじゃないでしょう。あなたが何も知らなかったなんて、ありえない」

「ふざけないで!」

 黒瀬由依は泣き叫んだが、声は少しずつ弱っていった。私は彼女を見ても、どうしても憐れむ気持ちになれなかった。

 前世の私も、こうして絶望した。いや、今の彼女より、ずっと深い絶望の底にいた。

 あの時、彼女は豚舎の外に立ち、鉄鎖で引きずり戻される私を見て、好き放題に笑っていた。私の苦痛を楽しみ、私の悲鳴を笑い話にしていた。自分が売った人々が何を味わったのか、彼女は一度も考えなかった。


「黒瀬由依。あなた、自分が売った人たちがどんな目に遭ったか、考えたことがある? 今のあなたの痛みなんて、彼らの万分の一にも届かないわ」

 彼女は歯を食いしばり、口を開かなかった。

「ここで死んだとしても、あなたには軽すぎる罰よ。死ぬか生きるか、自分で選びなさい」

 私は身を屈め、彼女を見下ろした。

「あなたも人身取引に関わっていたと認めなさい」

 私は彼女に死んでほしいわけではなかった。死よりも、正しい罰を受けてほしかった。悪人は、相応の罰を受けるべきだ。死では足りない。彼女には、自分のしたことの影に、残りの人生を押し潰されてほしかった。


 黒瀬由依はまだ耐えようとしていた。私は彼女を支えず、足を引き抜いて立ち去ろうとした。その時、彼女が私のズボンの裾をつかんだ。

「認める! 全部、私と黒瀬拓真が一緒にやったのよ。これでいいんでしょう!」

 私は足を止め、通報用に電話をかけ、そのスマホを彼女の前に落とした。

「自分で通報しなさい」

 黒瀬由依は震える手でスマホをつかんだ。

「通報します……私自身が……人身取引に関わっていました……」

 最後まで言い終える前に、彼女は意識を失った。



 9.悪人の証言

 黒瀬由依が次に目を覚ました時、彼女は病院にいた。

 病床の周囲には警察官が立っていた。医師が一時的に命の危険は脱したと確認すると、警察はすぐに、彼女が倒れる前にした通報内容の記録を始めた。

 私はあの夜の録音を警察へ提出した。彼女が自ら、黒瀬拓真と共に人身取引に関わったと認めたことで、事件は再び動き出した。それまでつながらなかった証拠も、ようやく一つの線になっていった。

 黒瀬由依は、結局逃げられなかった。しかも警察はすぐに、彼女の罪が人身取引だけではないことを突き止めた。姿を消していた半年の間に、彼女は一人の男と知り合っていた。条件のいい相手に取り入ったつもりだったのだろうが、その男は賭博と酒に溺れ、半グレ組織に大きな借金を抱えていた。


 最初のうちは、金がなくなるたびに男は由依と大翔を殴るだけだった。だがある日、賭けに負け、酒に酔って戻ってきた男は、包丁を手に二人へ襲いかかった。その刃は大翔の肩に当たり、大翔の悲鳴で由依は理性を失った。彼女は包丁を奪い返し、男を何度も切りつけ、最後には郊外に埋めた。

 行き場を失った彼女は、大翔の治療費さえ払えなくなった。そこで働き先の女主人に紹介され、違法風俗組織に入れられ、客を取るようになった。

 皮肉なことに、彼女はそれを息子を救うためだと思っていた。だが犯罪組織に、そんな善意があるはずもない。組織は大翔を人質にし、身代金分を稼げば息子を返すと言った。彼女は妊婦で、ある種の悪趣味な客には高く売れたため、休む間もなく客を取らされた。けれど大翔は、とっくに国外の違法な拠点へ売られていた。彼女が必死に金を稼いで買い戻そうとしていたものは、ただの嘘だった。


 その日の夕方、黒瀬由依は突然病床で目を覚ました。彼女は周囲を見回し、焦点の合わない目で探し回った。

「大翔は? 私の大翔はどこ?」

 彼女はベッドから転げ落ち、隣の病人の家族のズボンの裾をつかんで、必死に哀願した。

「大翔を返して。お願い、私の大翔を返して……」

 つかまれた家族は、汚いものを見るような顔で彼女を蹴り離した。

「何なの、この人!」


 彼女を見張っていた警察官は、ちょうどトイレへ行っていた。私はちょうど彼女を「見舞い」に来ていて、その一部始終を見ていた。私は彼女へ近づき、静かに言った。

「あなたの大翔は今ごろ、国外の闇労働の拠点で働かされているかもしれないわね」

 黒瀬由依は勢いよく顔を上げた。濁った目の奥に、ようやく恐怖が灯った。

「何を言ってるの? そんなはずない!」

 彼女は私へ這い寄ってきた。服はまた血に染まり、それでも体をねじるように前へ進もうとする。私は膝を折り、彼女の顎をつかんで耳元へ顔を近づけた。

「あなたの息子が味わっている苦しみなんて、あなたに売られた子どもたちの苦しみに比べれば、まだ足りないくらいよ」

 彼女の体が震えた。

「違う……そんなはずない……私の大翔は大丈夫……」

「それが、あなたが自分の手で息子のために作った地獄よ」

 私は彼女を見つめ、一語ずつはっきり告げた。

「見える? この部屋の周りには、あなたたちに殺され、売られ、壊された人たちの影がいる。みんな、あなたを迎えに来たのよ」

「私はその怨霊たちの化身。あなたを地獄へ引きずり込むために来た」

「いや! 来ないで! 消えて!」

 黒瀬由依は悲鳴を上げて後ずさりし、頭を抱えて縮こまった。腕を振り回したり、叫びながらベッドの下へ潜ろうとしたりする姿は、本当に無数の亡霊を見ているかのようだった。


 警察官が戻ってきた時、目にしたのはその光景だった。

 黒瀬由依は壊れた。

 だが、壊れたからといって、法の裁きを逃れられるわけではない。彼女は精神鑑定を受け、治療を受け、それから正義の裁きを受けることになる。

 私が病室を出ようとした時、背後で突然、甲高い叫びが上がった。

「このクソ女、死ね!」


 振り返ると、黒瀬由依が真っ直ぐ私へ飛びかかってくるところだった。いつの間に手にしたのか、果物ナイフの刃が病室の明かりを受けて光っていた。

 私が反応するより早く、警察官が飛び込んできた。防刃盾が彼女を強く弾き飛ばし、別の警察官が彼女の手にあるナイフを蹴り落とした。

 果物ナイフが床に落ち、乾いた音を立てた。黒瀬由依は床に押さえ込まれたまま、口の中でなお意味のない罵声を漏らしていた。彼女は再び拘束された。

 今度こそ、彼女を逃がす者はいない。



 10.悪人たちの報い

 黒瀬由依は救命されたが、後遺症が残った。彼女を待っているのは、精神鑑定と追加捜査、そして遅れてきた法の裁きだった。

 黒瀬拓真も、組織的な人身取引、誘拐未遂、監禁への協力などの罪で、重い刑を受けた。長野の山奥にあった拠点は徹底的に捜査され、多くの被害者が救い出された。家族のもとへ戻れた人もいれば、二度と以前の暮らしへ戻れない人もいる。それでも少なくとも、彼らはようやく、あの暗闇から引き上げられた。

 あの廃業した養豚場は封鎖された。鉄鎖、監視カメラ、帳簿、薬物、転売記録。すべてが証拠となった。

 私は後日、一度だけ長野へ行った。その日は山に細い雨が降り、古い神社の鳥居はまだ折れたままだった。風が鈴緒を揺らし、低くかすれた音を立てる。私は規制線の外に立ち、前世で自分がこの中で死んだ時の絶望を思い出した。

 あの時、私はもう明日など来ないと思っていた。けれど今、同じ山風の中に立ち、警察が証拠品の箱を次々に運び出すのを見ている。


 佐倉蓮が隣に立ち、私へ傘を差し出した。

「終わったよ、美咲」

 私は傘の柄を握り、長い沈黙のあとでうなずいた。

「うん。終わった」

 悪人は罰を受けた。闇に飲み込まれていた人たちも、少しずつ光の方へ引き戻されていく。

 黒瀬拓真と黒瀬由依は、最後には自分たちの罪に食われた。そして私も、前世の陰からようやく抜け出した。

 今世の私は、もう二度と、悪人を自分の家へ招き入れたりしない。結婚という言葉のために、誰かに踏みにじられることもない。

 私の名前は、佐倉美咲。私は地獄から戻ってきた。被害者であり続けるためではない。

 今度こそ、あの人たちを裁きの場へ引きずり出すために戻ってきたのだ。

 ――完――



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