空は続くとも郷は遠く -17-
「アレは優秀だ、だが異常だ。病気にとりつかれてる」
男は黒崎拳と言って、自身を離反者だと説明した。
離反者というのは内部世界において管理自治機構の保護化にいないすべての人を指す言葉なのだそうだ。
「まさに病的だと言っていい。人体実験に手を出していたこともある」
「こともある?」
思わず口にしてから後悔した。
この人は黒崎静が今も非道な――非道に思える――ことに手を出しているのを知らなかったのかもしれない。
黒崎拳の表情は色眼鏡に隠されていてよく分からなかった。
「にも関わらずアレが機構においてある程度の権力を持つのは、それなりの成果をあげてきたからだ。<瞳>もそのひとつだな。最大のものだと言ってもいい」
黒崎拳はフィルター近くまで吸った煙草をまた床に押し付けた。
「気は進まない。気は進まないが、君らを保護する必要がある」
「保護?」
「<瞳>の状況を詳しく知りたい。あれは俺のような離反者にとっては致命的なんだ。もし以前と同じレベルまで復旧しているのなら今ここで留まっている時間すら惜しい」
黒崎拳の言わんとするところはつまり<瞳>がすでに美咲や、黒崎拳を感知して、特捜の部隊がここに向かっている最中かもしれないということだ。
「分かりました」
今は黒崎拳の言うとおりにするのが一番だと思えた。
少なくとも彼はいくばくかの間、<瞳>から逃げおおせ続けているわけだし、なによりもこの町のことをよく知っている。
「なら移動するぞ」
三人は再び日中に舞い戻った。
太陽がまだ天高くあるのが信じがたい。
まだ昼過ぎなのだ。
相変わらず廃墟の町並みには人影が無かった。
ひどく不安な光景だ。
瓦礫を避けながら進んでいくと突然黒崎拳が足を止めた。
「なにか妙だ。おい、南になにか見えるか?」
言われて南を探す。
太陽はまだ傾いているとは言えず、その方角はだいたい南に違いあるまい。
と、高い建物の間から黒い煙が上がっているのが見えた。
「煙が、火事かな?」
「だといいがな。サイレンが聞こえる……ような」
「私も聞こえる」
信行は耳をすませてみたが、風の音しか聞こえない。
黒崎拳はしばし動きを止めて思案していたようだが、すぐに頷いた。
「まあいい。騒動がおきているなら好都合だ。<瞳>もそちらに夢中だろう。せいぜい派手にやってくれ」
ちくりと何かが信行の喉に引っかかった。
それは黒崎静と接しているときにも何度も感じた違和感で、黒崎拳にもまったく同じような何かを感じたのだった。
「……黒崎さん」
「なんだ?」
言うべきかどうか迷って、結局信行はそれを口にした。
「あなたや、この煉瓦台の人々は誰もがそう考えるんですか?」
「何の話だ?」
「つまり、他人が犠牲になっても自分がよければそれでいい、ということです」
「おいおい、アウトサイダー。またその話か。だったら行って人助けでもしてこいよ。俺は別に止めねーよ。そうしたいならそうすればいい。違うか?」
「…………」
言葉を失った。
そう言われてしまうと反論のしようがない。
彼らは目下逃亡者であり、他人に構っている余裕は無いのが現実である。
だがどうしても納得はいかなかった。
「それでも、せめて心配くらいは――。あそこには貴方の奥さんがいるかも知れないんですよ」
「…………」
黒崎拳は口を閉ざし、一度だけ南を振り仰いだ。
その赤い瞳が何を見ていたのか信行には知りようもない。
硬く結んだ唇は、言葉を探しているわけでもなさそうだった。
「どうでもいいことだ」
黒崎拳が二人を案内したのは、新市街にほど近い雑居ビルだった。
ここまでくると他人とすれ違うこともあって冷や冷やする。
だが赤目を晒している黒崎拳にも、眼を閉じ手を引かれている美咲にも特に注意を払う人はいない。
「この辺りは発症者互助組合みたいなもんがいくつかあるからな。堂々としておけば怪しまれないさ」
「とは言え、新市街に近すぎやしませんか?」
「離れてりゃいいってもんでもないぜ」
そう言いつつ黒崎拳は狭い階段を上がっていく。
信行も美咲の手を引いてその後を追いかけた。
「お嬢ちゃん、もう目を開けてもいいぞ」
4階まで上がったところで黒崎拳がそう言った。
「一時的なものだが能力を制限した空間に入った。いくら掴む手でも問題はないはずだ」
「ほんまに?」
「ほんまだとも」
美咲が目を開けた。
違いは美咲が手を動かすまでも無く分かる。
瞳の色が黒い。
美咲はおそるおそる手を動かしたが何も起こらない。
「良かった!」
そう叫んで美咲は信行の体に抱きついた。
「ただしあくまで限定的なもので不安定だ。目を閉じて生活することに慣れておいたほうがいいぞ」
「でも一体どうやって、こんなことができるなら……」
「そうはいかないな。こいつは発症者の発現した能力による空間だ。他の手段による再現性がない以上、こいつの存在そのものを明らかにするわけにはいかない」
「でももしかしたら再現できるかもしれない」
「そのために自分や仲間の安全を売り渡せ、と? そうはいかないな。<瞳>が能力を取り戻した以上、こいつだけが俺たちの身を守ってくれるんだ」
「そう、ですね……」
少なくとも信行が口を出せることではない。
3人は6階に入った。
そこは他の階とは違って明らかに生活感が漂っている。
「あ、兄貴、おかえんなさいっす」
奥から一人の男が顔を出した。
黒崎拳より二周りほど大きい体格で、強面だったが花柄のエプロンをつけていた。
「客人だ。空いてる部屋に案内してやれ。二人まとめてでいいからな」
「うす!」
花柄エプロンの男は信行と美咲を階段からさほど遠くない部屋に案内した。
部屋とは言ってもかなり広い部屋についたてで敷居を作っただけのまるで避難所のようなところだ。
中には雑多にモノが詰め込まれていた。
「悪いね、空いてる部屋はみんなこんなでね。寝床とかは余ってるものを運んでくりゃどうにかなるでしょ。ほら、こっち」
「――私は片付けしとく」
「ああ、頼むな」
部屋のことはひとまず美咲に任せて、別の間仕切りから布団やら小さな棚やらを運び込む。
それからいらないものを別の部屋に運んだりして、ようやく人心地付けそうな空間が出来上がる頃には日が暮れかけていた。
「おおい、夕食だってさ。お客人らも一緒においで」
信行らの母親くらいの年配の女性が顔を出してそう言った。
言われて見れば肉体労働で胃は空腹を訴えていた。
女性に案内されたのは別の大きな部屋で、そこは長机とパイプ椅子が整然と並んでいた。
数十人なら楽に収容できるだろう。
奥にはキッチンがあってそこで食事を作っていたらしい。
すでに何人かが席について食べ始めていた。
「女の子には明日から手伝ってもらうからね」
「はい」
「なんだい、なんだい、もっと陽気にならんね」
「努力します……」
「ま、無理にとは言わないよ。飯は自分でよそってちょうだい。取りすぎんじゃないよ」
キッチンに置かれた大きなおひつと鍋から、他の人が取っている量を大体目安にしてご飯とスープをついだ。
それと漬物が少々。
基本的な食料が配給によって賄われているこの町で、離反者をかくまうということはそれだけ一人一人が食べられる食料が減るということだ。
そのことを申し訳なく思う。
食事を始めてしばらくすると、黒崎拳が数人の男女を伴って現れた。
「みんな、食いながらでいいから聞いてくれ。まずは目撃したものもたくさんいると思うが、今日起きた事件に関する報告だ。相楽――」
「はい。ええと、今日の昼過ぎに特級に格上げされた発症者による事件は、夕刻までに特捜が処理しました。死者は三十名を越える模様です」
ぐ――、とご飯が喉に詰まる。食事時に聞きたい類の話ではなかった。
「いつものことだが、大きな事件が起きた直後は警戒が密になる。それぞれ気を張っておけ。それからもうひとつ重大な案件がある。白瀬――」
「あ、はい!」
部屋の中の視線が一斉に信行に向いた。
そのほとんどがまだ彼に対する態度を決めかねている目だった。
こうして一度にここにいる人たちを見るとまとまりのない集団だ。
年齢も、風貌もばらばらだった。
「そいつは第二次大規模外部感染の被害者だ。つまりよそ者――アウトサイダーだ。俺たちの常識を知らない奴だ。それを念頭において話を聞こう。そいつの話では<瞳>がその機能を取り戻した。そうだな?」
ざわ、と室内の空気が変質した。明らかに歓迎されていない様子だ。
「取り戻したのかどうかは、判断がつきません。俺は、その以前のアイリスがどういうものなのかも知らないので――」
それから信行は研究所で何があったのかをかいつまんで話した。
自身が<識連結>のアイデアのようなものを黒崎静に吹き込んだことと、被験者10名を選定したことは伏せておく。
言ってどうなるようなものでもないし、ことさら自分の立場を悪くする必要もなかった。
「――というわけで、分析系の能力者が連結されればさらに<瞳>は強化されることになると思います」
話し終えるとあちこちでため息が漏れた。
「そうなると兄貴、しばらく赤目は動かないほうがいいんすかね?」
「状況がはっきりするまではな。場合によっては<瞳>を潰しにいかなきゃいけないかもしれん。そういう可能性もあるから覚悟はしておいてくれ。白瀬、お前には研究所に戻ってもらう」
「なんですって!?」
「君は彼女が心配で研究所を飛び出した。その後新市街はさっき言った事件で外出が禁じられた。研究所に戻っていないのは不自然じゃない。俺たちは<瞳>がどういう状況にあるのか情報が必要だ。君の恋人の安全を守るためにも。君以外に研究所に近づける人間はいないんだ」
「……少し考えさせてください」
「いいだろう。だが明日の朝までには決めてくれ。明日顔を出さなければ流石に疑われる」
「分かりました――」
「行きたなかったら、行かんでもええんよ」
布団の中、耳元で美咲がそう囁いた。
「そうしたらここに居づらくなるやろ……」
それが一番の懸念だった。
美咲の手を引いてアパートを出たとき、もう自分たちはどこまでも逃亡者でいるしかないと思っていた。
ドブネズミのように地下に潜り、息を潜めて逃げ続けるしかないと思っていた。
もちろんそれは今も変わらないのだろう。
だが黒崎拳がどういうつもりにせよ、ここにいれば少しは安全に違いなかった。
2人きりではいずれ見つかるか、どこかで野垂れ死ぬしかなかったに違いないのだ。
「いいんよ。信行がいてくれたら、私はどんなんでもかまわへんから……」
そう言ってくれる美咲がいるからこそ、だからこそ危険でもいかなければならないときもあるはずだった。




