第3話 じゅんちゃん
じゅんちゃんから修学旅行の案内が来たのは、去年の秋だった。
僕たちはもう二十二歳で、修学旅行という言葉が似合う年ではなかった。僕は地元の重工メーカーに就職して、毎日、旋盤の音を聞きながら働いていた。朝は作業着で門をくぐり、昼は食堂で定食を食べ、夕方には油の匂いをつけたまま家に帰る。高校のことなんて、ほとんど思い出さずに暮らしていた。
それなのに、グループLINEにPDFが貼られた瞬間、画面の中だけ高二に戻った。
「じゅんちゃん、ほんとにやるんだ」
「安いな。これじゅんちゃんの旅費入れてなくね?
絶対自腹だろ」
「土日と文化の日なら行ける」
「俺、夜勤代わってもらう」
「七輪は禁止な」
最後の一言で、みんなが一斉に爆笑スタンプを送った。
六年前、僕たちは現代文の授業中に七輪で秋刀魚を焼いた。
今思い返しても、頭がおかしい。けれど、当時の僕たちは、頭がおかしいことを頭がおかしいまま実行するのが、高校生活だと思っていた。誰かが家から七輪を持ってきて、誰かが魚屋で秋刀魚を三尾買ってきて、誰かが醤油と紙皿を用意した。準備だけは妙に手際がよかった。
授業が始まって十五分もしないうちに、教室の後ろから煙が上がった。
「お前ら、何やってるんだ」
黒板の前で、じゅんちゃんが振り向いた。
じゅんちゃん、本名は下村純一。僕たちはほとんど本名で呼んだことがない。栄光学園から上智大学に行って、そのまま教師になったらしい。経歴だけ聞くと、きびきびした優等生みたいな人を想像するかもしれない。でも実物は、声が小さくて、動きがゆっくりで、教員には不似合いなおとなしい、怒っているのか困っているのかわかりにくい人だった。待遇が良くないらしく、教員の成り手がいなくて、じゅんちゃんは学年主任がサポートするとはいえ、いきなり新卒で高2の担任になった。
うちは公立落ち組の行く男子校だった。大学に行く奴もいたけれど、高校を出てすぐ働く奴の方が多かった。原付の免許を取ったその日に事故ってギプスをしてきた奴。バイト代でマフラーを買って、授業中ずっとカタログを見ている奴。バンドを組んで、文化祭でもないのに教室の後ろでスティックを回している奴。先生を見て態度を変えるのだけは、みんなやたら上手かった。
じゅんちゃんは、間違いなく舐められる側の先生だった。
「先生も食べます?」
「食べますじゃないだろう。授業中だぞ」
そう言いながら、じゅんちゃんは教壇から一歩も動かなかった。
秋刀魚をひっくり返すと、脂が炭に落ちて、じゅうっと音を立てた。教室中から「おおおっ」と歓声が上がった。誰かが拍手して、誰かが「アンコール」と叫んだ。隣のクラスからも何人か覗きに来た。
さすがに、じゅんちゃんの顔色が変わった。
「舐めんな。先生を怒らせるんじゃない」
珍しく声を張った。張ったつもりだったんだと思う。
次の瞬間、じゅんちゃんは教壇の角に足を引っかけた。体勢を崩して、横の教卓に手をつき、そのまま教壇ごとずれて、がたんと大きな音がした。
教室は祭りになった。
机の上に立つ奴がいた。窓を開けて隣のクラスに報告する奴がいた。秋刀魚はまだ焼けていたし、煙は天井の蛍光灯のあたりに溜まっていた。
じゅんちゃんは、倒れかけた教壇の前でしばらく固まっていた。それから何も言わずにしゃがんで、教壇を戻した。チョークを拾い、出席簿を教卓に置き直し、黒板に向き直った。
「え……授業に戻ります」
誰も聞いていなかった。
それでもじゅんちゃんは、一人で板書を始めた。「羅生門」と書かれた横に、震えた字で何かを書き足していた。僕たちはまだ騒いでいた。笑っていた。ひどいクラスだったと思う。
ただ、その中で、一人だけ黙って席に戻った奴がいた。
そいつは進学組で、放課後にじゅんちゃんから現代文を見てもらっていた。母子家庭で予備校に行くお金はなかった。面談でそれを話したら、じゅんちゃんが希望者だけで放課後勉強会をしましょうと言って過去の入試問題を一緒に解いていた。
そいつが座ると、もう一人が座った。僕もなんとなく気まずくなって、紙皿を机の中に押し込んで席に戻った。別に反省したわけじゃない。ただ、黒板に向かって一人で字を書いているじゅんちゃんの背中を、いつまでも笑っているのが急にだるくなった。
その話は、卒業してからも同窓会のたびに出た。
「じゅんちゃん、教壇倒したよな」
「あれ、秋刀魚うまかったよな」
「羅生門と秋刀魚、相性よすぎ」
じゅんちゃんも毎回、困ったように笑っていた。
二〇二〇年の秋、僕たちの修学旅行は中止になった。
コロナで世の中が大騒ぎしていて、仕方ないのはわかっていた。京都と奈良の三泊四日は消えた。代わりに僕たちは講堂に集められて、全員マスクをして、旅行会社が作ったらしい映像を見た。金閣寺が映り、奈良公園の鹿が映り、旅館の夕食みたいなものが映った。
それで終わりだった。
誰も大きな声で文句は言わなかった。文句を言ってもどうにもならないことくらい、高二でもわかった。ただ、講堂を出るとき、誰かが小さく言った。
「これ、何を見せられたんだろうな」
その日の帰りのホームルームで、じゅんちゃんがプリントを配った。
いつものくたびれたコピー用紙だった。ワードで打ったらしい文章は、行間が詰まっていて、ところどころ変に丁寧だった。
〈この事態が収束して、密を楽しめる状態になった時、二年一組のメンバーで、遅れた修学旅行に出かけたいと考えています。修学旅行というのは、後に同窓会で話のネタになるという趣旨のものです。それなら、そのテーマ通りの修学旅行を、何年か先に楽しみませんか。必ず引率、ですかね、することを約束します〉
教室では失笑が起きた。
「じゅんちゃん、密を楽しむって何」
「引率、ですかね、って何だよ」
「じゅんちゃんの旅費どうすんの、自腹?」
じゅんちゃんは苦笑いしていた。
「まあ、覚えていたら」
「先生が忘れそうじゃん」
「忘れません」
その言い方だけ、少し強かった。
僕はプリントを鞄の底に入れた。そのまま読み返すこともなく、家に帰って、たぶんどこかで捨てた。忘れた。みんなも忘れたと思っていた。
卒業式の日、じゅんちゃんは泣いた。
一人ずつ名前を呼んで、卒業証書とアルバムを渡して、それだけのことなのに、途中から声が詰まっていた。最後の方は、鼻をすすりながら名前を呼んでいた。
「お前らと過ごせて、本当によかった」
そう言って、また次の名前を呼んで、また泣いた。
「青春ドラマじゃないんだから」
誰かが笑って、教室中も笑った。僕も笑った。
正直、そのときの僕は自分のことで頭がいっぱいだった。就職先のこと、卒業後の打ち上げのこと、誰と写真を撮るかということ。じゅんちゃんがどんな顔で泣いていたか、ちゃんとは見ていなかった。
高校を出ると、時間は思っていたより早く進んだ。
工場では、年上の人たちに怒られながら仕事を覚えた。朝が早くて、夜は眠くて、給料日は少し嬉しかった。友達と会う回数は減った。高校のグループLINEも、誰かの誕生日と、たまに変な写真が流れるくらいになった。
だから、あのPDFが貼られたとき、最初は本当に何のことかわからなかった。
「二年一組 遅れてきた修学旅行のご案内」
そう書いてあった。
行き先は伊勢だった。土日と文化の日を使ったニ泊三日。伊勢神宮参拝と周辺観光。夜はホテルのバイキング、飲み放題付き。料金はびっくりするほど安かった。
「じゅんちゃん、ほんとにやるんだ」
誰かがそう書き込んで、ようやく思い出した。
あのプリントだ。
当日、集合場所に行くと、ほぼ全員が来ていた。
二十二歳の僕たちは、高校生ではなかった。作業着焼けした奴がいた。営業職みたいな髪型になった奴がいた。結婚して子どもがいる奴までいた。原付で事故ってギプスをしていた奴は整備士になっていた。バンドをやっていた奴は、まだ髪が長かった。
でも顔を合わせた瞬間、だいたい高二に戻った。
「お前、太ったな」
「うるせえ」
「まだその髪型してんの」
「お前こそ作業着似合いすぎだろ」
「じゅんちゃん来た?」
集合場所にバスが入ってくると、じゅんちゃんが添乗員さんと近くで打ち合わせてたらしく、走ってきた。
27歳になったじゅんちゃんはだいぶ大人になっていた。僕たちから見れば先生は最初から大人だったけれど、それでも、五年分くらいはちゃんと歳をとっていた。目尻にしわが増えていた。
「添乗員さんに頼んで、全員いるか点検は先生がやらせてもらうからな」
じゅんちゃんは僕たちを見ると、卒業式の日みたいに一人ずつ名前を呼んだ。
「佐伯」
「はい」
「田原」
「はい」
「先生、出席取るのやめろよ」
「修学旅行なので」
じゅんちゃんは少し得意げに言った。
その瞬間、みんなが笑った。僕も笑った。六年前のプリントの中の、変に真面目な約束が、目の前で本物になっているのが不思議だった。
じゅんちゃんの大学時代の友人が旅行会社に勤めていて、格安のバスツアーをさらに団体割引にしてもらって、追加料金なしでバスを一台丸ごと僕たちの修学旅行に回してもらったらしい。
伊勢神宮に参拝して、おはらい町を歩いて、赤福を立ったまま食べた。誰かが地ビールを飲んで、誰かが土産物屋で変な木刀を買おうとして、じゅんちゃんに止められていた。
「高校生じゃないんだから」
「修学旅行なんで」
じゅんちゃんは笑った。
夜はホテルのバイキングだった。飲み放題がついていた。僕たちは大浴場で肩まで湯につかりながら、仕事の愚痴を言った。上司がどうとか、夜勤がどうとか、給料がどうとか、結婚がどうとか、高校のときには知らなかった話ばかりだった。
それでも、湯気の向こうで誰かが言った。
「これ、完全に修学旅行だな」
みんな、少し黙った。
夕食のあと、じゅんちゃんが別に広間を借りていた。
畳の部屋に、ビールとつまみが並んでいた。枝豆、唐揚げ、乾き物、安いチーズ。予算に入っている感じではなかった。どう見ても、じゅんちゃんが用意したものだった。
「先生、これ自腹でしょ」
「いや、まあ、そんなことより飲め」
「いくら?」
「飲め」
「絶対自腹じゃん」
「飲めと言っています」
じゅんちゃんが珍しく押し切ったので、僕たちはそれ以上聞かなかった。
広間では、どうでもいい話ばかりした。誰が高校のとき誰を好きだったとか、あの先生は今どうしているとか、文化祭で何を壊したとか、秋刀魚の七輪は誰が持ってきたのかとか。
「俺じゃねえよ」
「お前だろ」
「秋刀魚買ったのは俺だけど、七輪は違う」
「秋刀魚担当って何だよ」
じゅんちゃんはビールを飲みながら、困った顔で笑っていた。
「本当に、あれは大変だったんだからな」
「でも先生、授業続けようとしてたじゃん」
「続けるしかないだろう」
「誰も聞いてなかったけど」
「知ってます」
みんな笑った。
笑いながら、僕はあの日のことを思い出していた。煙の上がる教室で、じゅんちゃんが一人で黒板に向かっていたこと。震える字で「羅生門」の続きを書いていたこと。僕たちがそれを笑っていたこと。
あのときは、ただ頼りない先生だと思っていた。
今も、頼りないところはある。ビールの缶を開けるのに少し失敗して、畳にこぼして、慌てておしぼりで拭いている。旅行のしおりを何度も確認して、明日の集合時間を三回言う。誰かに「じゅんちゃん、もう聞いた」と突っ込まれている。
でも、その頼りない人が、六年前の約束を覚えていて僕たちの修学旅行を実現してくれた。
僕たちが忘れていた約束を、ちゃんと形にして、バスを手配して、宿を取って、広間まで借りていた。
誰かが、酔った声で言った。
「先生、来年もやろうよ」
「修学旅行を毎年やったら、それはもう修学旅行じゃないだろう」
「じゃあ同窓会」
「それなら、まあ」
そこで、別の奴が言った。
「先生、これからも会っていい?」
広間が、少し静かになった。
そいつは高校のとき、よく遅刻していた奴だった。今は工務店で働いている。日に焼けて、腕が太くなって、昔よりずっと大人の顔をしていた。
「同窓会とかさ。毎年じゃなくてもいいけど。あと、相談とか。別に用がなくても、学校行っていいかな」
じゅんちゃんは、すぐには答えなかった。
ビールの缶を両手で持ったまま、僕たちの顔を順番に見た。卒業式の日みたいに、一人ずつ名前を呼びそうな顔だった。
「来いよ」
じゅんちゃんは言った。
「先生、いるから」
その言い方が、なんでもなさすぎて、僕は困った。
泣くような場面じゃなかった。誰かがつまみの袋を開けていた。隣の部屋から酔っ払いの笑い声が聞こえていた。廊下では、製氷機の音がしていた。じゅんちゃんはこぼしたビールの跡を、まだおしぼりで気にしていた。
それなのに、胸の奥が変なふうに詰まった。
僕たちは高校生のころ、教師というものをあまり信用していなかった。怒る先生は面倒くさかったし、怒らない先生は舐めていた。じゅんちゃんは、そのどちらでもないように見えて、結局いちばん舐めていた。
でも、たぶん違った。
舐められても、笑われても、教壇を倒しても、授業を続けようとしていた。卒業式で泣いて、誰にも本気にされなかったプリントを配って、六年後に本当に僕たちを連れてきた。
じゅんちゃんは、僕たちが思っていたよりずっと、先生だった。
「じゃあ、来年も来るわ」
誰かが言った。
「だから修学旅行ではない」
「同窓会な」
「はい。同窓会なら」
「じゅんちゃん幹事?」
「それは違うだろう」
みんなが笑った。
僕も笑った。
その夜、広間はなかなか終わらなかった。明日の集合時間を三回も聞かされていたのに、誰も早く寝ようとしなかった。高校のときより酒が飲める分だけ、話は長くなった。けれど、話していることは大して変わらなかった。
窓の外では、伊勢の夜が更けていた。
僕は畳の上に座って、缶ビールを持ったまま、ふと講堂のスクリーンに映った金閣寺と鹿を思い出した。あのとき、僕たちの修学旅行はなくなったのだと思っていた。
なくなっていなかった。
ただ、少し遅れていただけだった。




