第2話 海の見える家
北の海の近くに、小さな灯台島があった。
島には古い木の家が一軒だけ建っている。白い壁。青い窓枠。風が吹くたび、屋根のどこかが小さく鳴った。
夏が終わると、観光客は来なくなる。海鳥だけが空を横切り、夕方になると霧笛が遠く鳴った。
その家には、一人の老人が住んでいた。
若い頃、彼は絵描きだった。
正確には、絵描きになろうとしていた。
展覧会に入選したことはある。雑誌の挿絵を描いたこともある。だが、それだけでは食べていけなかった。三十になるまでは修行のつもりだった。絵だけで生きていけるようになるまでは、誰かを巻き込みたくなかった。
だから、愛した人にも何も言えなかった。大切な人だから、手に触れることすらできなかった。
老人は、そのことを今でも時々思い出す。
雨の日や、海の色が鉛みたいに暗い日になると、昔の記憶は静かに浮かび上がってくる。
二
その女性と出会ったのは、まだ戦後の匂いが街に残っていた頃だった。
小さな出版社で開かれた挿絵展で、彼女は一枚の絵の前に長く立っていた。
白い灯台の絵だった。
「この海、寒そうですね」
それが最初の言葉だった。
彼は驚いて振り返った。絵を褒める人はいても、「寒そうですね」と言った人は初めてだった。
「北の海なんです」
そう答えると、彼女は少し笑った。
「やっぱり」
静かな人だった。
派手ではない。けれど、一緒に歩いていると、季節の匂いに気づく人だった。夕方の風とか、川沿いの柳とか、そういうものをちゃんと見ていた。
彼は少しずつ、その人を好きになった。
彼女もたぶん、同じだった。
けれど二人とも、不器用だった。
三
「縁談があるの」
ある冬の日、喫茶店で彼女はそう言った。
窓の外では雪が降っていた。
彼はカップを持つ手に力を入れた。陶器が小さく鳴った。
「そうか」
それだけ言った。
彼女は彼を見ていた。
長い沈黙があった。
「……何か、言わないの?」
彼は笑おうとした。
「幸せになれよ」
その瞬間、彼女の表情が崩れた。
「どうして」
彼女は泣きそうな声で言った。
「どうして、“行くな”って言ってくれないの。おれと一緒になろうって」
彼は答えられなかった。
まだ狭いアパート暮らしだった。展覧会の入選だけでは食べていけない。未来が見えなかった。
愛していた。
だからこそ、自分の不安定な人生へ引き込みたくなかった。
彼女はしばらく泣いていた。
それから顔を上げ、小さく笑った。
「いい絵描きになってね」
雪はずっと降っていた。
四
それから何十年も経った。
彼女はその後まもなく別の人と結婚した。相手は彼女の郷里の酒蔵の若旦那だと友人から聞いた。
子供を育て、家庭を築き、遠い町で暮らした。
彼は絵を描き続けた。
少しだけ名が知られ、絵本を出し、展覧会を開き、それから疲れて、海の見える島へ移った。
一人で暮らすには、静かでいい島だった。
ある雨の夜、玄関を叩く音がした。
扉を開けると、一人の女性が立っていた。
四十前後だろうか。
黒い髪に少し白いものが混じり始めている。紺の上質なコートを着て、濡れた傘を持っていた。
その顔を見た瞬間、老人は少し息を止めた。
面影があった。
若い頃の彼女が、そのまま長い人生を生きて、静かに歳を重ねたような顔だった。
「……突然すみません」
女性は小さく頭を下げた。
「母の遺品を整理していて、あなた宛ての手紙がたくさん見つかったんです」
老人は何も言えなかった。
「出されていませんでした。全部」
雨の音だけが聞こえていた。
「でも母、ずっと部屋にあなたの絵葉書を飾っていました」
女性は少し困ったように笑った。
五
部屋の中で、二人は温かい茶を飲んでいた。
ランプの灯りが小さく揺れている。
女性はテーブルの上の手紙を見ながら言った。
「母はいつも優しく幸せそうでした」
老人は静かに頷いた。
「ええ」
「でも、あなたのことがずっと忘れなかった」
老人は窓の外を見た。
暗い海が静かに揺れている。
「……わたしとのことは、青春の思い出です」
女性は黙って聞いていた。
「お母様は、ご主人とあなたを愛して、いい家庭を築いてらした。それは、あなたを見れば分かります」
彼は小さく笑った。
「幸せな暮らしをされたんですね。本当に良かった」
女性は俯いた。
「母、時々言ってました」
老人はゆっくり顔を上げた。
「好きだからその人の人生によりよい選択であるように、身を引くこともある。でも確かに心の中に愛はあるんだって。
ーーあなたのことだったんだと手紙の束を見てわかりました。」
しばらく、誰も喋らなかった。
雨だけが降っていた。
六
帰り際、老人は棚から一枚の小さな絵を取り出した。
水彩だった。
白い灯台。
海。
風。
そして、後ろ姿の若い女性。
「これを」
女性は驚いた顔をした。
「でも、大事な絵では」
「ええ。とても大事な絵です。だから差し上げたいのです」
老人は頷いた。
長い年月を生き抜いたあの人の人生へ、最後に返したかった。
女性は絵を胸に抱き、小さく頭を下げた。
扉が閉まる。
老人はしばらく玄関に立っていた。
やがて窓辺へ戻り、遠い海を見た。
若い頃、自分は何も掴めなかったと思っていた。
けれど違ったのかもしれない。
抱きしめ合うこともなく、
連れ添うこともなかったけれど、
生涯愛し続けたものが
確かに心の中にずっとあったのだ。
海の向こうで、
霧笛が静かに鳴った。




