第1話 置き薬
あの日のことを、僕はまだ覚えている。
五歳か、六歳か。縁側に座って、庭の柿の木を眺めていた午後のことだ。
「今日は薬屋さんが来る日だから、あなたはお外で遊んでなさい」
母がそう言った。声はいつもと同じだったけれど、僕はなんとなく、その日の母が違うことに気づいていた。台所から白粉の匂いがした。いつもは割烹着姿で台所に立っている母が、薄い紫の小紋を着ていた。帯もいつもの木綿じゃなかった。
子供というのは、言葉よりも空気を先に読む生き物だ。僕は「どうしてそんな格好してるの」と聞かなかった。なんとなく、聞いてはいけない気がしていた。
二
昭和二十四年の富山は、まだ戦争の傷が生々しかった。
母の旧姓は堀内といった。堀内の家は代々、砺波の庄屋格の家柄で、蔵が三つあって、庭に松の古木が三本立っていた。祖父は厳格な人で、娘の縁談については一切妥協しなかった。相手は魚津の資産家、坂本の家だった。坂本家は田畑を広く持ち、戦後の農地解放でいくらか減ったとはいえ、それでも郡内では知られた家だった。
結婚式の写真を、僕は大人になってから見たことがある。母は白無垢で、表情が読めなかった。隣に立つ父は、悪い人ではなかった。ただ、不器用な人だった。
母が誰かを好きだったということを、僕が知ったのは、ずっとずっと後のことになる。
三
薬屋の名前は、村中さんといった。
国立の薬学部を出て、富山市内で薬局を開いた人だ。当時の富山は置き薬の本場で、村中さんも懸場を持って、月に一度、集金と薬の入れ替えに各家庭を回っていた。
僕の家にも来た。
玄関で「ごめんください、村中です」という声がすると、母の動きが少し変わった。台所の中でも分かった。微かに急ぐような、でも急いでいないふりをするような、そういう動き方になる。
「まあ、村中さん、いらっしゃい」
母の声は穏やかだった。穏やかすぎるほど、穏やかだった。
四
村中さんは背が高くて、無口な人だった。
薬箱の引き出しを一つひとつ開けて、使った薬を確認して、補充して、手帳に書き込んで、代金を受け取る。それだけのことを、丁寧に、静かにやった。母はそばに座って、時々「こちらは先月使いました」「子供が熱を出しまして」なんて話した。
普通の会話だった。
薬屋と客の、普通の会話だった。
でも僕は縁側から眺めながら、なんでかは分からないけれど、目が離せなかった。二人の間の空気が、他の大人たちとは違った。父が客と話すときとも、母が近所のおばさんたちと話すときとも、違っていた。
言葉が少ない分、その隙間に何かが詰まっているみたいだった。
「では、また来月」
村中さんはそう言って、深く頭を下げて、帰っていった。玄関の引き戸が閉まる音がした。
五
そのあとだ。
僕が覚えているのは、そのあとのことだ。
母は玄関の方を向いたまま、しばらく動かなかった。僕はそっと縁側から家の中を覗いた。
母が、両手で顔を覆っていた。
声はしなかった。肩が、少し揺れていた。
「お母さん、どうしたの」
僕は畳の上を歩いて、母の横に立った。母はすぐに顔を上げた。目が赤かったけれど、笑っていた。
「なんでもないよ。目にごみが入っただけ」
子供の僕は、それを信じた振りをした。信じた振りをすることが、その場でできる唯一の正しいことだと、本能的に分かっていたから。
「お腹空いた」
「そう。じゃあ、おやつにしようか」
母は立ち上がって、台所に向かった。小紋の裾が畳を擦る音がした。
六 春
翌年の春、村中さんが来た日のことも覚えている。
縁側の外の梅がまだ咲いていた。その日の母は白地に薄墨色の梅を散らした小紋を着ていた。前の月から帯が変わっていた。水色の博多帯だった。七歳になっていた僕には、それが何を意味するのかまだ分からなかったけれど、母が鏡の前に長く座っていたことは知っていた。
村中さんはいつも通りだった。
薬箱を開けて、手帳を出して、静かに仕事をした。母はそばに座った。
その日、一つだけいつもと違うことがあった。
母が、村中さんの手帳の端に何か書き込まれているのを見て「まあ、お上手ですね」と言った。村中さんは少し驚いたような顔をして、「いえ」とだけ言った。それだけだった。ただそれだけのやりとりだったのに、母の頬が、ほんの少し赤くなった。
帰り際、村中さんは玄関で振り返って「お子さん、大きくなりましたね」と言った。
母は「ええ、おかげさまで」と答えた。
引き戸が閉まった。
その日も母は両手で顔を覆った。けれどその日は、泣き方が少し違った気がした。声を殺しているのに、どこかに温かいものが混じっているような。子供には説明できない、そういう泣き方だった。
七 夏
夏になると、村中さんは白い開襟シャツで来た。
富山の夏は蒸し暑い。僕は縁側で麦茶を飲みながら、蝉の声を聞いていた。母はその日、紺地に白い朝顔を染め抜いた浴衣を着ていた。普段着の浴衣だと言えばそれまでだが、母の浴衣はいつも糊がきいていて、ぱりっとしていた。
「暑い中をご苦労様です」
「いえ、どうぞお構いなく」
そういう短い言葉のやりとりが、座敷の奥から聞こえてきた。母が麦茶を出したらしく、村中さんが「いただきます」と言った。静かになった。二人でお茶を飲んでいるのだと分かった。
どのくらいの間だったろう。縁側にいた僕には、長いような短いような、不思議な時間だった。
蝉が鳴いていた。
それだけが続いていた。
「では」と村中さんの声がして、立ち上がる気配がした。
その夏は母の泣き声を聞かなかった。縁側から振り返ると、母は台所に立っていた。後ろ姿だったが、泣いていないことは分かった。
ただ、動いていなかった。
流しの前に立ったまま、ずっと動いていなかった。
八 秋
秋の訪問は、柿の実が色づき始めた頃だった。
あの年の秋、村中さんはいつもより少し遅い時間に来た。西日が縁側に斜めに差し込んで、座敷の畳が金色に光っていた。
母はその日、柿色の小紋を着ていた。
ずっとあとになって、それが意識的な選択だったのかどうか、僕には分からなくなった。ただ、庭の柿と母の小紋が同じ色に染まって、村中さんが帰ったあとの座敷に西日だけが残っていた光景を、僕は今でも写真のように覚えている。
その日の母の泣き方は、一番静かだった。
声も、肩も、揺れなかった。ただ両手を顔に当てたまま、長い間そうしていた。
「お母さん」
僕が呼ぶと、母はゆっくり手を下ろした。目が少し赤かった。でも顔は穏やかだった。
「ちょっと疲れた。今日はお夕飯、何がいい?」
「カレー」
「そう。じゃあカレーにしようか」
それだけだった。
九 冬
冬の富山は雪が深い。
ある年の冬、村中さんが来なかった月があった。
一月のことだった。大雪で道が塞がれたのかもしれない。あるいは別の理由があったのかもしれない。母は何も言わなかった。ただ、その日の母は小紋を着ていなかった。朝から割烹着のままで、台所で漬物を切っていた。
夕方になって、村中さんが来ないと分かった頃、母は縁側に出て空を見ていた。
雪が降っていた。
音もなく、ただ降っていた。
僕は母の隣に立って、同じように空を見た。
「寒いよ」と僕が言うと、母は「そうだね」と言って、僕の肩を引き寄せた。いつもより力強い抱き方だった。
泣いてはいなかった。
その代わり、母はとても長い間、雪空を見ていた。
十 春、再び
雪が解けて、また春が来た。
村中さんは翌月からまた来るようになった。母はまた小紋を着た。白粉を塗った。
それが何年か続いた。
僕が中学に上がる頃には、もう縁側から覗き見することはしなくなっていた。薬屋が来る日だと分かると、自分の部屋で勉強していた。でも耳は聞いていた。引き戸の音、村中さんの「ごめんください」、母の「いらっしゃい」、手帳に書き込む音、「では、また来月」、引き戸の音。
そして、しばらくの沈黙。
母が泣いているのは分かった。もう覗きに行かなかったけれど、分かった。
十一
あれから何十年も経った。
父はとっくに逝き、母も数年前に逝った。村中さんがどうなったかは知らない。
母が逝く少し前、病院のベッドで僕は母の手を握っていた。窓の外に冬の空が広がっていた。
「村中さんのこと、覚えてる?」
気づいたら口に出していた。母は少し目を見開いて、それから静かに笑った。
「覚えてるよ」
「好きだったの?」
母はしばらく黙った。天井を見ていた。
「薬屋さんだよ」
それだけ言った。
それ以上は聞かなかった。
十二
二人の間に何があったのか、僕には分からない。
たぶん、何もなかった。
何もなかったから、消えなかったのかもしれない。
言葉にならなかったもの。言葉にしなかったもの。月に一度だけ、白粉を塗って小紋を着て、それで十分だったもの。
富山の秋は早い。
柿の実が赤くなる頃、村中さんはいつも来た。
母の小紋は、柿色だった。




