第15話 水回りって大事
投稿の予約をすっかり忘れて遅くなりました…
野盗たちが王立警備隊へ引き渡された翌日、アルトは朝から村の外れを歩いていた。
昨日の出来事は、まだ胸の内に重く残っている。野盗たちの罵声、飛びかかってきた男の腕、双子の怒り、村人の一人が握りしめた刃。そのすべてが、一晩眠っただけで薄れるほど軽いものではなかった。けれど、だからといって足を止めていられるわけでもない。止まれば、そのぶんだけ領地の立て直しは遅れる。
防壁は立った。簡易の出入口も整った。夜の見張りも、当面は回る形になった。なら次に見るべきは、暮らしだ。守るだけでは人は生きていけない。食べること、水を回すこと、畑を保たせること。そこへ手をつけなければ、結局はまた弱っていく。
その考えは、昨夜のうちに決まっていた。
朝食の席でそう話すと、双子は揃ってアルトのほうを見た。ルカはわかりやすく首を傾げ、フィオナは最初から半分ほど答えを察している顔をしている。
「今日は水路と井戸、それから防壁の外の堀も見ようと思ってる」
「堀も?」
「うん」
「あるんですか?」
「浅いけどね」
アルトは頷いた。
「昔の名残みたいなもので、ちゃんと使えてる感じではないけど」
ベランからは以前、村の外周に沿って浅い溝があったと聞いていた。もともとは雨水を逃がしたり、多少なりとも足止めの役に立てたりする程度のものだったらしい。だが長く手入れされず、今は場所によって埋まりかけているという。
「防壁ができたなら、そこも見たほうがいいかなって」
「守りと暮らしの両方へ関わりますものね」
「そう」
ルカは少し考えてから言った。
「兄様、やること増やすの好き?」
「好きではないかな」
アルトは苦笑した。
「でも、見つけちゃうと放っておけないんだよね」
「お兄様らしいですわ」
「それ、褒めてる?」
「はい」
「それならうれしい」
ミレイアはそんなやり取りを聞きながら、いつもの落ち着いた顔で頷いた。
「良い順番だと思います」
「先生もそう思います?」
「ええ。守りを整えたのなら、次は暮らしです。領地を回すというのは、結局そこへ戻りますから」
その言葉は、アルトの中へひどく自然に収まった。
朝のうちにベランへ声をかけ、村の水路と井戸を見て回ることになった。畑を持つ者や、水汲みを日常的にしている女たちにも何人か来てもらう。実際に使っている人間の話を聞かなければ意味がないからだ。
村の外れにある大きめの井戸から始まり、そこから枝分かれする溝をたどっていく。整った水路と呼べるほどのものではない。地面を浅く掘り、ところどころ石や木で補強しているだけの簡素な造りだ。長いあいだ手入れがされていないのだろう。崩れている場所も多く、水が途中で広がってしまっているところもある。
「ここですな」
ベランが足を止めた。
「まず、一つ目の難しい場所は」
示された先では、流れてきた水が妙なところで溜まり、畑へ送るはずの筋へうまく入っていなかった。地面が少し沈み、そのぶん余計なところへ流れているらしい。
アルトはしゃがみ込み、土へ触れた。
湿ってはいる。だが、流れとしてはうまく機能していない。水は来ているのに、その先へ十分に回っていないのだ。
「乾く場所と、逆に湿りすぎる場所が出るわけですね」
「ええ」
ベランが頷く。
「昔はもっとましだったのですが」
畑を持つ男が続けた。
「前は春先に皆で掘り直してたんだ」
「今は?」
「人手が足りねえ」
その一言はやはり重い。
アルトは頷きながら、表向きはその場を見ていたが、同時に別のこともしていた。
ごく薄く、自分の魔力を込めた水を地面へ這わせていたのである。
防壁内でやっていたのと同じ、感知のための水だ。今回は見張りではなく、水の流れと地中の偏りを見るために使っている。術式ではない。薄く、細く、土へ染み込むように広げる。どこで流れが弱まるか、どこで余分に溜まるか、どこが乾きすぎているか。目で見るだけでは拾いきれない差が、魔力を帯びた水の感触として返ってくる。
やはり、広く浅く流れが滞っていた。大きな破損が一つあるわけではない。小さな崩れ、浅い沈み、枝分かれの角度の悪さ、そういうものが積み重なって、水の巡りを鈍らせている。
「兄様」
ルカが近づいてきた。
「何かわかった?」
「少し」
アルトは顔を上げた。
「水の通り道が、あちこちで弱くなってる」
「見るだけで?」
「まあ、ある程度は」
フィオナが静かに周囲を見回す。
「放っておくと、小さい崩れが積み重なっていくのですね」
「そういう感じ」
「お兄様は、水の流れをよく見ておられますのね」
「必要だからね」
「はい」
フィオナは素直に頷いた。
しばらく歩き回ったあと、アルトはひとつ確信した。
全部を一気に直すのは無理だ。
人手が足りない。時間も足りない。だから、優先順位をつけるしかない。流れが特に悪い場所を絞り、そこだけでも手を入れれば、畑の状態はかなり変わるはずだった。
「ベランさん」
「はい」
「まず、ここを掘り直したいです」
アルトは一番大きく流れが滞っている場所を指した。
「それから、この分岐」
「そこもですか」
「ええ。角度が少し悪いので、水が横へ逃げています」
畑を持つ男が目を丸くした。
「わかるのかい」
「見れば、ある程度は」
アルトは少しだけ曖昧に答えた。実際にはもっとはっきりわかっている。だが、そこを詳しく説明するつもりはなかった。
「ここを掘り直して、こっちは少し土を盛る」
アルトは地面へ簡単な線を描く。
「そうすれば、流れはたぶんこっちへ戻るはずです」
「やってみる価値はありますな」
ベランが頷く。
「全部ではなく、まずそこだけなら」
「そう」
アルトも頷いた。
「一度に全部は無理でも、影響の大きいところから手をつけたい」
そこで、ベランが少し気まずそうに咳払いした。
「水路のほうは、それで何とかなるかもしれません」
「うん」
「ですが、堀のほうは」
「……人手がきつい?」
「きついですな」
ベランは防壁の外側を見た。
「浅いとはいえ、あれを掘り直すとなると人が要る」
木こりの一人も困ったように言う。
「木を切るのもあるし、家の修繕もまだだ」
「堀まで一緒に、となるとなあ」
アルトは視線をそちらへ向けた。
防壁の外に沿って、たしかに堀の名残があった。だが、ところどころ埋まり、雑草が伸び、深さも一定ではない。溝と呼ぶには残っているが、防御や排水の役にきちんと立つかと言われれば怪しい。
直したい。かなり直したい。けれど、人手がない。
そう思った瞬間だった。
「それなら、ぼくがやる」
ルカが言った。
全員がそちらを見た。
「ルカ?」
アルトが聞くと、ルカは得意げに胸を張った。
「土を動かすだけなら、精霊たちができるよ」
ベランが目を瞬いた。
「堀を、ですか」
「うん」
「できるの?」
「できるよ」
ルカはあっさり言った。
「壁のときよりずっと簡単って」
ミレイアが少しだけ息を呑む。
「……土の移動だけなら、たしかに理屈は通ります」
「先生」
アルトが聞く。
「できそうですか」
「ルカ様なら、おそらく」
ルカはさらに言った。
「兄様が線を決めてくれたら、その通りに掘ってもらう」
アルトは思わず双子を見比べた。フィオナは少しだけ誇らしそうで、ルカ本人は褒められる気満々の顔をしている。
「……やってみる?」
「うん」
「無理しない?」
「大丈夫!」
フィオナが静かに付け加えた。
「ルカはこういうとき、妙なところで頼りになりますわ」
「妙ってつける必要ある?」
「少しだけ」
「兄様!」
「うん、かなり頼りにしてる」
それを聞いたルカは、一瞬で機嫌を直した。単純で助かる。
防壁の外側へ移動し、アルトは改めて堀の線を確認した。薄く広げていた感知の水も使いながら、どこを掘り、どこを残し、どこを少し広げるかを頭の中で整理する。深くしすぎても維持がきつい。浅すぎても意味がない。今はまず、排水と足止めを兼ねる程度の形へ戻せれば十分だった。
「ここからここ」
アルトは地面へ線を引いた。
「深さはこのくらい」
「うん」
ルカは真剣な顔で聞いている。
「で、こっちは?」
「そこは浅めでいい。水が抜ければ十分だから」
「わかった」
ミレイアが小さく目を細めた。
「ずいぶん具体的に線を引かれますね」
「形が決まってたほうがやりやすいかなと思って」
「ええ。とても」
その言い方は先生だった。
ルカは防壁の外で、すっと空を見上げた。何もないように見えるその先に、本人にはきちんと見えているのだろう。小さな手で輪郭をなぞり、何かを説明するように指を動かす。
「お願いしていい?」
風が揺れた。
「うん、そう」
「ここ、こうやって」
また頷く。
「深すぎなくていいよ」
少し間。
ルカはにこっとした。
「ありがと!」
次の瞬間、土が鈍く鳴った。
防壁に沿って、埋まりかけていた堀の筋がじわじわと掘り返されていく。草が押し分けられ、土が外へ寄せられ、浅く曖昧だった溝に輪郭が戻る。水路のように繊細ではない。だが、守りとしては十分な変化だった。
「おお……」
「これは」
「すげえ……」
村人たちの口から、次々に声が漏れた。
ルカは得意そうだった。得意そうだったが、気を抜いているわけではなく、ちゃんと集中しているのがわかる。そのあたりが少し前より成長している気がして、アルトは兄として少しうれしくなった。
堀の形が整い、最後に余分な土が脇へ寄せられると、村人たちの間から感嘆の声が広がった。
「ルカ様、すごい」
「ほんとに、こんなことまで」
「精霊魔術って、こんなに……」
「助かる、これは助かる」
口々に褒められ、ルカは一気に照れた顔になった。耳まで少し赤い。
そのとき、村人の子どもの一人が勢いのまま叫んだ。
「ちっこいのにすごいな!」
場が一瞬だけ静まった。
「こら!」
すぐさま母親らしい女の人が青ざめて頭を下げる。
「ご無礼を! 申し訳ございません、ルカ様!」
ルカはきょとんとした。たぶん、どこに怒る要素があるのかわかっていない顔だ。フィオナも少し目を瞬いている。
そこで、アルトが先に笑った。
「大丈夫ですよ」
母親はまだ青ざめている。
「ですが」
「むしろ、そう思ってもらえたならうれしいです」
アルトはその子どものほうを見た。
「ありがとうございます」
子どもは褒められると思っていなかったのか、逆に固まっていた。
「え、あ、うん……」
「ルカは実際すごかったので」
そう言うと、ルカはますます赤くなった。
「兄様」
「なに?」
「いま、ちょっとうれしい」
「うん、だと思った」
フィオナも小さく咳払いした。
「わたくしも、その……少しだけ」
「フィオナも?」
「弟が褒められているのは、悪くありません」
「なるほど」
アルトは笑った。
「じゃあ今日は二人とも褒められたということで」
「それ、兄様が一番うれしそう」
「ばれたか」
村人たちの間に、くすりと笑いが広がった。ほんの小さなものだが、昨日までの緊張を思えば、それはかなり大きかった。
ベランも目元をやわらげていた。
「ルカ様、見事でした」
「えへへ」
「本当に助かりました」
ルカはそこでようやく、少しだけ照れを隠すように胸を張った。
「兄様の線がよかったからだよ」
アルトは思わず目を瞬いた。
「……それ、ずるいな」
「何が?」
「そんな返しされたら、兄としてすごくうれしい」
「兄様ってたまにちょろい」
「ルカ」
「フィオナ、いまのは言っていいやつ」
「そうなの?」
「たぶん」
それからの空気は、朝よりずっとやわらかかった。
水路の掘り直しは人の手で進み、堀の修繕はルカの精霊魔術で一気に形になった。大人たちが役目を分け合い、双子がそれぞれ自分の力を使い、アルトがその全体を見て決めていく。その流れが自然にひとつへまとまり始めているのを、村人たちも感じ取っているようだった。
館へ戻る前、アルトは村人たちを見回してから、少しだけ声を落とした。
「ただ」
皆がそちらを見る。
「今日みたいに、こう……あまり気軽に話しかけたりする感じは、役人の方や他の貴族には内緒ですよ?」
一瞬の沈黙のあと、今度は困惑ではなく、どこか納得したような空気が広がった。
「そりゃあ、そうでしょうとも」
畑を持つ男が苦笑する。
「そんな気さくに話す貴族様、そうそうおりません」
「ええ」
ベランも頷いた。
「むしろ、村の者のほうが戸惑っておりました」
「やっぱり?」
「はい」
ベランは少しだけ目元をやわらげた。
「ですが、ありがたい戸惑いでした」
子どもの母親も、今度はほっとした顔で頭を下げる。
「外で軽々しく話したりはいたしません」
「ええ、そこは皆わかっておりますとも」
「ありがとうございます」
アルトがそう言うと、村人たちのあいだに小さな笑いが広がった。
ルカが小声で言う。
「兄様、やっぱり珍しいんだ」
「みたいだね」
フィオナも静かに頷いた。
「お兄様方のような貴族は、あまり一般的ではないのでしょう」
「“お兄様方”ってことは、僕だけじゃないんだ」
「もちろん、わたくしたちも含めてですわ」
その返しに、アルトは少しだけ照れくさくなった。
館へ戻ったあと、アルトは一人になった時間で、こっそりまた水を薄く広げた。防壁の内側だけではない。今日見た水路の筋と、掘り直された堀の線をなぞるように、ごく浅く。夜のあいだにどこが崩れるか、どこで流れが変わるか、明日の朝には少しわかるだろう。
誰にも気づかれないまま、薄く、広く。
そうして村の中へ感覚を伸ばしながら、アルトは思う。
守るだけでは、人は暮らせない。
けれど、暮らしだけ整えても、守りがなければ壊される。
どちらも要る。
どちらも少しずつやるしかない。
人手も足りない。時間も足りない。けれど今日、堀に輪郭が戻り、水が畑へ回り、村人たちの表情が少しやわらいだのを見たとき、ルーウェンはまだ立て直せるのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。
その小さな手応えを胸へ抱いたまま、アルトは窓の外の村を見た。夕暮れの中で、防壁の向こうに人の暮らしが続いている。
その景色は、昨日より少しだけ近く見えた。
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