33. 職域というものがありまして
「ウェン、楽な姿勢になりませんか」
脇に控えていたタインは、ゴーウーボーが扉の向こうに消えるのを待って、寝台に歩み寄る。
「ああ、そうだな」
ウィンダムは殆どの意識を思考に振り分けているような生返事をした。タインはウィンダムの背を支え、重ねていた枕を抜く。
「貴女は随分と長いことここに居るが、こんなことをしていて大丈夫なのか」
ウィンダムはふと気付いてタインを見た。
「殿下が気を利かせてくださったんです。侍女より、貴方にはいいだろうからと」
愛しい人からの呼びかけは、意識の回復に良いのではないだろうかと。実際には悪夢を見ていたようなので効果は不明だが、少なくとも、タインはありがたかった。おそらく通常通り警護に入っても、集中できず不安を与えていただろうからだ。人として、当然の心の動きだとは思う。だが騎士としての失望もある。心中がどうあれ、涼しい顔でナディーンの傍に立ち続けてこそとの、理想の近衛騎士像があったのだ。それができる人間であると、少なからず自惚れていたことを知ったのである。無理に任務についていたら、警備に綻びができていたかもしれないと思うと、ナディーンの判断は的確だったと思わざるを得ない。一方で、気遣いにかこつけて逃げたのだという意識もあって、罪悪感に似た痛みが仄かに燻っている。
「それはありがたいな」
タインの補助でゆっくりと横たわったウィンダムが、痛みを逃すように細く息を吐いた。その声音には慰めの類の気遣いは感じられない。タインの心情を知らないのだから、当たり前だ。だから余計にここにいることを全肯定されたように感じて、タインは胸の締め付けが少し緩んだ気がした。
「眠ったら如何ですか」
声音が自然と柔らかくなる。眼鏡を外そうと伸ばしたタインの手は、ウィンダムの右手が制した。
「まだ指示がある。書いてくれ」
タインの和らぎかけていた気持ちが、急激に硬化した。外交官としての判断に、タインが挟める口はない。それでも、危険を冒すことについて何も思わないわけではなかった。
「タイン?」
ウィンダムは微かな表情変化を目敏く読み取ったようだったが、タインは問う眼差しを避けるように身を起こし、書き物机に向かった。
口述筆記をしたものを各所に出し終え、振り返ると、ウィンダムは目を閉じていた。流石に気力も尽きたのだろうと、タインは今度こそ眼鏡を外そうと近寄る。薄目を開けたウィンダムはそれを受け入れた。
「何か言いたいことがあるだろう」
「いいえ」
「嘘だな」
「そうだとしても、今は眠ってください」
「気になって眠れない」
それこそが嘘だろうことはタインでも判る。声には眠気が混じり、落ちそうな瞼を無理矢理持ち上げているのだ。直ぐに眠気に負けるだろうと黙っていると、思いの外粘る。タインは吐息した。このような時に無駄な労力を使わせるべきではない。
「貴方の言う覚悟が、私にも必要なのだと思っただけです。ただそれだけのことですから、さあ、お休みください」
ウィンダムは言葉の意味を考えたいようであったが、そうかと呟いた声はもう、不明瞭だった。
交代の侍女に後を任せ部屋を出ると、タインは歩哨中のクレイグと出くわした。数日では骨は繋がってはいないが、臓器損傷を伴わない肋骨骨折である。騎士団では軽傷に分類されるため、既に警護についていた。
「随分人の出入りがあったな。もう落ち着いたのか」
「うん。漸く休んでる」
「なんていうか。意外と無茶をする人だな」
ウィンダムの意識回復に皆が安堵したのは今朝のことである。程なく伝令が走り回り、日が傾ききらぬうちに状況が整い出したのだ。クレイグは呆れたらいいのか感心したらいいのか判らないといった風情で首を振る。
「状況的に仕方がないと思う」
「…おう」
クレイグの声が感情を押し殺すように低くなった。
ガーカム領主、ヒヅォーグが騎士の取調べへの参加を速やかに受け入れたことを始め、ナディーンが軽んじられていることをまざまざと見せつけられたことに関しては、皆、心中穏やかではなかった。タインとて、悔しい気持ちがないわけではない。だが仕方がないと自ら口にした言葉を、冷静に受け止められている。いつの間にか視座が変わっているようで、不思議な気分だった。
「この後どうするんだ」
数歩歩くうちに気持ちを切り替えたように、クレイグの声音は平常通りになった。
「隊長に報告して警護に戻る」
クレイグは物言いたげな眼差しでタインの顔を眺める。
「何?」
「……いや、ちょっとお前がわからなくなった」
タインは不可解な気持ちを乗せてクレイグを見上げた。クレイグは言いにくそうに言葉を押し出す。
「暫くはあの人につきっきりになるんだと思ってた」
「どうして? もう危機的状況は脱したんだから、私がついている必要もないでしょう」
外傷の処置は済んでいる。熱が下がり意識さえ戻れば、骨が折れているだけなのだ。タインが傍にいたところで血の生成が早まるわけではない。処置は医者の仕事で、看護は侍女でもできる。
クレイグは怯んだような、困惑したような表情になる。
「あんな風に放心するくらいだから、俺はてっきり」
ウィンダムを見つけた時のことを言われているのだと理解して、タインは凍りついた。その時タインは、膝から崩れ落ちていたのだ。
「わ、忘れて」
確かめもせずに、勘違いで、崩れ落ちたのだ。あまりにもお粗末な反応だった。いまだかつてない羞恥の波に呑まれ、タインは顔を覆った。
「あんな、…あんな恥ずかしい失態……」
クレイグは面白くないような溜息をついた。
「別に恥ずかしいことではないだろ。誰だって……大事な奴があんな状態だったらあのくらいなる」
タインの肩が揺れた。そういうことなのだろうと、タインも思う。だからといって、開き直っていいものでもないのだ。タインは深く深く、反省している。思考の空白はごく僅かな時間だった。だがその僅かな時間が事を分けることとてあるのだ。
殊にウィンダムは、使えるならばなんでも使う。それこそ身の危険さえも。決して捨て身なわけではない。勝算があるからこそだ。神王の兵は懸命にウィンダムを護るだろう。そうせざるを得ない状況であるからその判断をした。それでも万一の可能性は消えたりはしない。そんな人間に添うというのだから、二度と、ああいった場面で、あんな状態に陥ってはいけない。二度とだ。
「でも駄目なんだよ。そんなんじゃ、あの人の妻は務まらない」
「なんでだよ。妻があんな場面に出くわすわけないだろ」
「えっ」
タインは顔を上げた。
「えってなんだ。お前はまだ妻じゃないから此処に居るんだろうが」
「それは、そうだけど……え、でも外交官って妻を同伴するでしょ」
「それは駐在する大使とか式典の出席とかだろ。友好国の。あの人の担当に友好国ってあったか」
グルバハルは未だ友好国ではない。ザムルとも停戦はしているが、何か切っかけさえあれば、また戦が起こるだろう。
タインは黙った。妻になれば、敵性のある国に外交に行くウィンダムを家で待つ立場になるということだ。
「あの人の妻になったって、一般的な貴族の妻と変わんないんじゃないか」
「同伴は、ない……」
「……あったとしても、洞窟に探しに行くのは護衛の仕事だぞ。警護対象者の身内についてこられたら迷惑なの、言われなくても知ってるだろ」
戸惑っているタインに、クレイグは困惑気味に常識を口にした。
「お前はあの人の妻をなんだと思ってたんだ」
タインは暫く棒立ちになっていた。




