表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

第1話



 今日も日々となんら変化のないシーンが流れていく。

 満員電車に押し潰されそうになり、スーツを着た人ごみに馴染みきったように紛れてい

る。どこその工場のベルトコンベヤーのように、連続的に会社員たちは運搬されていく。

やっている仕事の内容は違えど、会社に向かう彼らの顔色はどれも似たようなものだ。

 彼らの中で、ふとした道端に咲いた一輪の花に感動を覚える人間はどれほどいるだろう。

それなりの花好きでもなければ、ただ「花が咲いた」としか思いはしない。

 彼らの中で、小さい頃に抱いた夢を叶えた人間はどれほどいるだろう。答えは「ほぼ0%」

といえる、ただ負け組になったわけじゃない。勝ち組になるために夢を諦めた、夢を追っ

たままでは負け組になることを悟って。最後に笑えばいい、そのために彼らはシフトチェ

ンジを選択したまでだ。

 ただし、誰もが勝てるわけでもない。負ける人間がいるから、勝てる人間がいる。彼ら

は敗者にならぬよう、毎日を必死に紡ぐように生きている。しかし紡いだ先に勝利がない

のも漠然と分かっている、それでも日々を繰り返す。



 フウッ、苅部健一は慣れたように溜め息をついた。彼ほどその姿が似合う人間も珍しい

だろう、あまりにもその画は馴染んでいる。晴れた空もくすんで見える、彼の瞳や心が淀

んでしまっているから。

 まぁその気持ちも分かる、あんな毎日を過ごしていればこうもなるだろう。寝癖を直し

ただけの髪、覇気のない顔、生気のみなぎらない体、その様子はオーラに滲みでている。

個性もへったくれもない、普通人という言葉は彼のためにあるようだ。それに加えてのお

っちょこちょい、ミスばかりを繰り返す生まれながらの凡人。

 学生時代からそれは如実になる、独りぼっちではなかったが親友といえる相手も少なか

った。チーム分けでチームメイトになった同級生からは煙たがられる、活躍しないのだか

ら当たり前ともいえる。係分けでは人気者だった、要は係のやる業務を全て彼に押しつけ

ればいいだけだから。不良グループの使いっぱしりはしょっちゅう、女子からの熱い視線

を受けることなど天地が返ろうともない。バレンタインで本命を貰ったことなんかなく、

義理から外されたこともある。

 そんな乾いた人生だった、1日1日をなんとなく過ごすだけの。

 ふと先の自分を考えてみることも多い、ただそこに明るい光は兆しすら見やれないが。


 会社までの往路、苅部の頭の中といえば「今日1日をうまく遣り過ごすこと」を願うぐ

らいだ。なんとかミスをせずに普通に終われれば、彼にとってその日は成功と位置付けら

れる。

 ずいぶんレベルの低い成功だが、その設定は個々人によるものだから仕方ない。レベル

の低い人生を泳ぐ中で、彼のハードルは次第に下がってきてしまったのだ。

 会社のあるビルに着くと上を見上げてみる、20階建てのガラス張りの建築物の迫力に

やられそうになる。

 また息をつく、逃げる勇気さえなく歩を進めていく。

「おはようございます」

 おはようございます、同僚は彼を見やってから目線を合わすことなく挨拶を返す。

 同僚からの挨拶に二言目はない、彼自身にそれをさせる度量がないから。社内の人気者

でも来れば、あちこちから

「この企画、こうしたいんですけど目を通してもらっていいですか?」

「昨日飲みすぎちゃって、先輩強いですよねぇ」

だとか、苅部には投げられない「二言目」が送られるのに。

 こんなことに関してはもう諦めている、望む方が間違いだろうとも思えてきた。大学を

卒業して社会に出てからも彼の周囲の環境におけるポジショニングに変化はなかった。

 20階建てビルの1階分にある、社員30人余の会社に苅部は就職した。数多くの会社

を片っ端から受けまくり、唯一内定をもらえたのがここだった。まだ立ち上げて数年の会

社で、これからが伸び盛りといえる。世界のヒット商品をいち早く取り入れ、街にある雑

貨店などに売り込む仕事だ。今はまだ小さい規模だが、良いものを扱っていけば良い店と

繋がれる。良い店に手を差し伸べられれば、会社もどんどん良くなっていけるはず。

 その中で苅部は財務部に配属になる、その配属は妥当といえた。彼に世界のヒット商品

を取り入れる知識もなければ、それを売り込む技量も持ち合わせていない。彼にはマニュ

アル通りといえる仕事をこなす、デスクワークがお似合いだ。


「まだ? 俺、もうすぐ出なきゃいけないんだけど」

「あぁ、すいません、ちょっと待ってください」

 先輩からの催促に苅部は気を焦らせる。

「はい、どうぞ」

「ったく、前もって出してるんだから用意しとけよ」

「すいませんでした」

 言い捨てるような愚痴に、苅部は身を縮ませる。お似合いであるはずの仕事ですら、彼

は定期的にミスを犯す。年下なら気を遣って待ってくれるが、年上からは容赦なく強い言

葉が飛んでくる。その度に気持ちは萎えて、「自分なんか」と己を卑下してしまう。はっき

り言って、この30人余の社員の中で彼が最下位であることは間違いない。

 こんなことばかりの毎日に何があるんだ、そう考えたところで喜色に変わる答えなんか

見い出せないからやめる。

「これ、お願いしていいですか?」

「あっ、はい」

 差し出された領収書の上にある手のひらで、それが誰であるかはすぐに判別できた。

 馬瀬遥、社長秘書という名に劣りのない清廉とした佇まいは今日も健在だ。167cm

の長身にモデル並みのプロポーション、その体型に相応しい端麗な容姿。その体にまとう

スーツは彼女を映えさせ、腰上あたりまで伸びるロングヘアも髪先まで手入れがされてあ

り艶もある。

 その姿は眩しいほど輝いていた、正反対にいる苅部にはこうやって接していること自体

が不思議なくらいに。

「じゃあ、お預かりしておきます」

 なんでもない会話に、少し緊張が伴う。

「私は急いでませんから、いつでもいいですよ」

 馬瀬はそう小声で呟き、フッと笑みを見せて去っていく。

 さっきの先輩と苅部の掛け合いを目にした上での馬瀬の気配りの言葉だった。こんな自

分なんかに気を掛けるなんて、どれほど出来た人間なんだ。3つも年下とは思えない、と

いうより自分が出来なさすぎるからとも言えるが。


 結局、この日は1時間半の残業をして帰路についた。仕事の遅い苅部には残業は友達と

いっていいほど着いて回るものだ。同じぐらいの仕事してるのに残業代がついて良いな、

と嫌味をこぼされることもある。こっちだって好きで残ってるわけじゃない、と怒鳴って

やりたくなる。まぁ、そんな大それたことが彼に言えるわけはないが。



 仕事帰り、苅部は焼き鳥屋「どうよ」に寄る。カウンター席と3つのテーブル席、地域

密着型といえる小さめの店だ。ただ地元の人間ばかりが集まるので、ワイワイと賑やかで

活気はある。誰も彼も何度と顔を合わせたことのあるので、彼にとってもホーム感覚のあ

る和む場所だった。

「まぁた残業か、そんな仕事が好きか?」

「好きなわけないでしょ、やらなきゃなんないからやってるだけだよ」

 カウンターの向こう側で焼き鳥を焼いているのが番野功是、苅部の幼なじみだ。

 オーダーされた焼き鳥の串を何本と焼きながら、2人の会話は続く。小さい頃からのよ

しみだろうが、彼だけはうだつの上がらない苅部の側にいてくれた。苅部に何かあったと

きは手を貸してくれる、唯一といえる親友だ。

「ほらよ、地鶏お待ち」

 目の前に置かれた地鶏の焼き鳥を2串、ビールとともに口に入れていく。

 焼き鳥屋「どうよ」は番野の父親が店長を務めている、従業員は父親と母親と番野と彼

の奥さんの4人。父親が始めたお店で、番野は2代目としてここを継ぐ予定だ。2年前に

結婚もして、店の奥にある自宅には8ヶ月になる子供が寝ている。

 羨ましいかぎりだ、彼は苅部の出来ないことをあっさりとこなしていく。学生時代も勉

学こそ苅部と同等といえたが、運動神経はクラスで指折り。行動力や決断力など、何に置

いても勝る番野を苅部は誇らしく思っていた。

「いいよねぇ番ちゃん、こんな良いお店を継げてすごいよ」

「そんなことねぇよ、俺は元々あったものを引き継ぐだけだし。お前の方がすげぇって、

ちゃんと就職試験とか受けまくって会社に入ったんだから。言うなら、俺は親のコネで会

社に入れてもらったボンボンみたいなもんだぞ」

 番野の言ってることは事実だが、素直に受け入れられる言葉ではなかった。きっと、彼

は苅部と同じように就職試験を受けたとしても、苅部を上回る会社に入っていただろうか

ら。

「それに、あんなかわいい奥さんと子供がいるしさ」

「まぁな、お前も良いのいねぇのか?」

「いるわけないでしょ、分かってるくせに」

 こんな男、好んでくれる女性がいる方が珍しい。そんな女性が現れたら、良い男の判断

基準が変化したのか、と疑ってしまうだろう。

「そうだな、お前の恋人になるなんて余程の物好きだろうな」

「ちょっと、番ちゃん」

 ハハハッ、番野は失礼にあざわらう。場を和ませる上での失礼だとは長い付き合いで分

かってるので、別にそれ以上に責めたりもしない。

「悪い悪い、でも健一はホントにモテないからな〜。人生唯一の彼女が大学時代の学部一

のブーちゃんだったし」

 クックック、堪えきれずに番野は体を揺らせながら笑う。そんなんなら、いっそのこと

大笑いしてくれた方が気持ちいい。

「しかも、そのブーちゃんに全部捧げちまった末にフラれちまったわけだし」

「ちょっと!」

 ごめんごめん、その言葉の代わりに番野は手を軽く上げる。

「でもよ、お前も顔は悪くないわけじゃん。普通なんだからさ、後はダメダメなところさ

え直ればいいんだよ」

「それが直ってたら、とっくに直してるよ」

 30年もこの凡と付き合ってるんだ、そう簡単に直らないのは分かる。

「まぁ、気合いだ、気合い。お前に足らないのは、積極性と自信なんだから」

 そうは言われても、こんな人間じゃあ自信もなくなるのは察してほしい。ローラースケ

ートで流れるように道を進んできた番野と、三輪車で必死に道を進んできた苅部とでは結

果は大きく違う。



 焼き鳥屋から2分のところにある自宅マンションに帰ると、妹の康恵の姿があった。

 両親は地方にいる祖父母と一緒に住んでるので、ここには2人で住んでいる。元はここ

から5分ほどの一回り大きなマンションに両親と4人で暮らしてたのだが、祖父母の体調

が年々悪くなって、苅部が大学進学のときから母親が定期的に田舎に帰るようになった。

その2年後に康恵も大学に進学し、同じ頃に父親が山形に転勤が決まったので、今のマン

ションに2人で引っ越し、両親は祖父母を呼んで4人で山形に暮らすことになった。その

後は2人とも無難に就職し、康恵はなんてことないOLになる。

「お兄ちゃん、おかえり」

「あぁ、ただいま」

 康恵はリビングで「巨人×ヤクルト」を熱心に見ている、ちなみに彼女は巨人ファンだ。

好きな選手は阿部慎之介、ホームランの打ち方が見てて気持ちいいらしい。幼少の頃から

父親の見ていたプロ野球に男の自分より影響されてしまった末がこの形だ。だからといっ

て、徒に結んだ髪にTシャツにジャージという寝巻き姿の雑なところまで似せることない

だろうに。

「夕食、私も外で食べてきたから何も用意してないよ。番ちゃんのとこで食べてきたんで

しょ?」

「うん」

 康恵の言葉は送るだけで、意識は完全にテレビの画面に向いていた。一死満塁のピンチ

で代打が送られる見どころのシーンになっており、兄ですらそっちのけだ。

 苅部は自分の部屋に入り、目的もなくベッドに寝そべる。

 しばらくすると、

「よっしゃあ!」

と、強い声がリビングからここまで響く。おそらく、巨人がピンチを脱したのだろう。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ