班長の受難
午前五時三十分。
ジャポネ無宗教軍、第七駐屯基地。
「…………」
アギ・ハワーは、宿舎の廊下に立っていた。
手元の軍用端末には、今日の訓練予定が表示されている。
午前五時三十分、起床。
午前六時、点呼。
午前六時三十分、基礎訓練。
午前八時、朝食。
午前九時、装備点検。
そして午後からは、班単位での実地訓練。
何の変哲もない、一日の予定である。
ただし。
「……どうしてでしょう」
アギは小さく呟いた。
「始まる前から、嫌な予感しかしません」
理由は明白だった。
昨日、同じ班に配属された二人。
黒瀬迅。
ラフバ・エラー。
身体能力だけなら、未覚醒者の中でも規格外。
しかし、軍人としての規律は壊滅的。
そして何より、二人とも勝負事になると周囲が見えなくなる。
アギは端末を閉じた。
「……まあ、最初から決めつけるのもよくありませんね」
そう自分に言い聞かせる。
人間、誰しも良いところはある。
きっと彼らにも、軍人としての自覚が――
ドゴォォォン!!
廊下の向こうから轟音が響いた。
「…………」
アギは目を閉じた。
「……まだ五時半ですよ」
急いで音のした方へ向かう。
すると。
「ははははっ!!」
「おらぁ! どうしたラフ!」
宿舎裏の空き地で、二人の青年が殴り合っていた。
迅とラフバである。
「ラフバだっつってんだろ!!」
「どっちでもいいだろ!」
「よくねぇ!!」
二人の拳がぶつかる。
鈍い衝撃音。
地面がわずかに陥没する。
アギはしばらくその光景を見つめていた。
「…………」
そして。
「……何をしているんですか?」
二人が振り返る。
「あ、アギ」
迅が軽く手を上げた。
「おはよ」
「おう! 早ぇな!」
ラフバも笑った。
アギは静かに尋ねた。
「……今、何時か分かっていますか?」
迅は空を見た。
「……朝?」
「五時三十二分です」
「細けぇな」
「細かくありません」
アギは一歩近づいた。
「それで、何をしているんですか?」
ラフバが胸を張った。
「勝負だ!」
「見れば分かります」
「昨日の決着ついてねぇからな!」
迅も笑った。
「今日こそ勝ってやろうと思ってよ」
「……なるほど」
アギは頷いた。
「つまり、起床直後から無許可で戦闘訓練をしていたと」
「おう!」
「そういうこと」
「…………」
アギは腰の刀に手を添えた。
「……二人とも」
「ん?」
「なんだ?」
「今すぐ、やめてください」
二人は顔を見合わせた。
そして。
「……あと一回だけ」
「俺もそれでいいぜ!」
アギのこめかみが、ぴくりと動いた。
「……そうですか」
次の瞬間。
ドンッ!!
二人の足元の地面が大きく砕けた。
「「!?」」
アギが片足を踏み下ろしただけだった。
それだけで、二人の間に亀裂が走る。
迅は目を丸くした。
「……お前、怖ぇな」
ラフバは笑った。
「ははっ! やっぱ強ぇじゃねぇか!」
アギはにっこりと微笑んだ。
「……次は、ありませんよ?」
「「……はい」」
この日。
アギ・ハワーは、班長としての第一歩を踏み出した。
もっとも、その道のりは果てしなく険しいものになるのだが。
午前八時。
第七駐屯基地、食堂。
「…………」
迅は目の前の皿を見つめていた。
灰色がかったスープ。硬いパン。
そして、正体不明の肉らしきもの。
「……なあ」
迅が口を開いた。
「これ、何?」
アギが答えた。
「朝食でしょう」
「いや、それは分かる」
迅はスプーンでスープをすくった。
「……なんで灰色なんだよ」
ラフバが豪快にスープを飲む。
「んぐっ!」
「…………」
「……まっず!!」
食堂中に声が響いた。
周囲の兵士たちは、誰も驚かなかった。
「……また新入りが騒いでるな」
「まあ、最初はそうなるよな」
「そのうち慣れる」
迅はパンをかじった。
ガリッ。
「…………」
もう一度かじる。
ガリッ。
「……硬ぇ」
アギも小さくパンをちぎった。
「……保存期間が長いのでしょうね」
「保存っていうか化石だろ、これ」
迅が呟く。
ラフバはパンを握った。
「おい、迅!」
「あ?」
「どっちが先にこれを食い切れるか勝負だ!」
「……いいねぇ」
アギが即座に止めた。
「やめてください」
「なんでだよ!」
「食事くらい普通にしてください!」
迅は笑った。
「ははっ! お前、母ちゃんみてぇだな」
「誰が母ちゃんですか!!」
そのとき。
食堂の入り口から、一人の整備兵が駆け込んできた。
「おい! 誰か手を貸してくれ!」
周囲の兵士たちが振り返る。
「どうした?」
「補給用の機械兵がまた故障した!」
「またかよ……」
「今度は関節駆動部だ! 交換部品が足りねぇ!」
迅は首を傾げた。
「機械兵?」
アギが説明する。
「戦闘や物資運搬を行う軍用アンドロイドです」
「へぇ」
「この基地ではJDA-24型が主力ですね」
迅は食堂の窓から外を見た。
そこには、二足歩行の機械兵が立っていた。
全高約二メートル。
鈍い灰色の装甲。
胸部には、ジャポネ無宗教軍の紋章。
『JDA-24《鉄兵》』
ジャポネ防衛工業が開発した旧式の量産型軍用アンドロイドである。
本来は基地警備や歩兵支援に用いられる機体だが、無宗教軍では物資運搬にも使われていた。
その機械兵は、右腕を不自然な角度に曲げたまま停止していた。
「……あれ、壊れてんの?」
迅が尋ねる。
「そうですね」
「ふーん」
ラフバが笑った。
「俺なら一発で壊せるぜ!」
アギは即座に言った。
「壊さないでください」
「まだ何もしてねぇだろ!」
「今後もしないでください」
迅は笑った。
「ははっ! 信用ねぇな、お前!」
「お前もだよ!!」
ラフバが言い返す。
アギはため息をついた。
「……どうして私が、この二人の面倒を……」
そのとき、基地内放送が鳴り響いた。
『第十三混成班、至急作戦室へ集合せよ』
アギが顔を上げた。
「……私たちですね」
迅はスープを飲み干した。
「やっと仕事か」
ラフバは拳を鳴らした。
「強ぇ奴いんのかな!」
アギは二人を見た。
「……お願いですから、命令には従ってくださいね」
迅は笑った。
「善処する」
ラフバも笑った。
「考えとく!」
「……絶対に従わない返事ですね」
午前九時。
第七駐屯基地、作戦室。
大型の立体地図が中央に表示されていた。
地図には、ジャポネ東部の国境地帯が映し出されている。
かつて巨大都市だった地域。
しかし、第一次世界大戦によって都市機能の大半を失い、現在は廃墟となっていた。
榊原宗一郎大佐が三人を見た。
「貴様らに初任務を与える」
迅は椅子にもたれた。
「お、やっとか」
ラフバは笑った。
「戦闘任務か!?」
「違う」
「……は?」
榊原は地図を拡大した。
「旧市街第七区画の警戒巡回だ」
ラフバの表情が曇った。
「……巡回?」
「そうだ」
「敵は?」
「現時点では確認されていない」
「……つまんねぇ」
榊原の額に青筋が浮かんだ。
「任務を選ぶな!!」
迅は地図を眺めた。
「……ここ、アリス領に近くね?」
「そうだ」
榊原は頷いた。
「最近、国境付近でアリス教軍の活動が活発化している」
地図上に赤い点が表示される。
「偵察ドローンの飛来、通信妨害、不審な機械兵の目撃情報……」
アギが口を開いた。
「小規模な威力偵察の可能性がありますね」
「その通りだ」
榊原は頷いた。
「ただし、我々は現時点で大規模な交戦を望んでいない」
迅が首を傾げる。
「なんで?」
「戦力差が大きすぎるからだ」
榊原は静かに答えた。
「アリス教軍と正面から戦えば、我が軍は甚大な損害を受ける」
「…………」
「だからこそ、今回の任務は警戒巡回だ。敵を発見しても、無理に交戦するな」
ラフバが不満そうに言った。
「……逃げろってことか?」
「必要ならば、そうしろ」
「気に入らねぇな」
迅も口を開いた。
「俺も」
榊原が睨む。
「……何?」
迅は笑った。
「敵が襲ってきたら、ぶっ飛ばしていいんだろ?」
「状況による!」
「じゃあ、状況見て決めるわ」
「貴様が勝手に決めるな!!」
アギが間に入った。
「大佐、私が責任を持って指揮します」
榊原は深くため息をついた。
「……頼むぞ、アギ」
「はい」
「この二人を絶対に暴走させるな」
「……努力します」
迅とラフバは顔を見合わせた。
「なあ、ラフ」
「ラフバだ」
「なんか俺ら、信用されてなくね?」
「おかしいよな!」
アギは静かに呟いた。
「……理由を考えてください」
午前十一時。
ジャポネ東部、旧市街第七区画。
一台の装甲車が、荒廃した道路を走っていた。
車両名は『JAT-16 軽装甲偵察車』。
ジャポネ軍が使用する四輪駆動の軍用車両で、偵察や小規模部隊の輸送を目的として設計されたものだ。
ただし、無宗教軍に配備されているのは旧式の車両である。
車内。
「……なあ」
迅が窓の外を眺めながら呟いた。
「なんでこんなボロボロなんだ?」
窓の外には、異様な光景が広がっていた。
折れ曲がった超高層ビル。
地面に突き刺さった巨大な建築物の残骸。
何十キロにもわたって続く、崩壊した都市。
かつては数千万人が暮らしていた巨大都市だった。
しかし、今は人の気配すらない。
アギが答えた。
「第一次世界大戦の戦場だった地域です」
「……第一次?」
「はい」
アギは窓の外を見た。
「アリス教が勝利した、あの戦争です」
迅は目を細めた。
遠くに、巨大なビルが見えた。
いや。
ビルだったもの、と言った方が正しい。
高さ数千メートルはあったであろう建築物が、途中から不自然な角度に折れ曲がっている。
まるで、巨大な手で捻じ曲げられたかのように。
「……これ、爆弾でやったのか?」
迅が尋ねる。
アギは首を横に振った。
「詳細は公表されていません」
「ふーん」
「ただ、一つだけ確かなことがあります」
アギは静かに続けた。
「この地域の戦闘には、女神アリスが参加していたそうです」
「…………」
迅は再び窓の外を見た。
広大な廃墟。破壊された街。崩れ落ちた巨大建築物。
その全てが、一つの存在によって引き起こされた可能性がある。
「……へぇ」
迅は小さく笑った。
「とんでもねぇ奴だな」
ラフバが身を乗り出した。
「アリスか!」
「知ってんの?」
迅が尋ねる。
「当たり前だろ!」
ラフバは笑った。
「世界最強の神だぞ!」
「ふーん」
「俺はいつか、あいつを超える!」
迅はラフバを見た。
「……神になりてぇの?」
「おう!」
即答だった。
「俺は神になる!」
迅は少し考えた。
そして。
「……変な奴」
「なんだと!?」
「いや、神になってどうすんだよ」
ラフバは拳を握った。
「決まってんだろ!」
そして、にやりと笑った。
「もっと強ぇ奴と戦う!」
「…………」
迅は数秒黙った。
そして、吹き出した。
「ぶはっ! 結局それかよ!」
「悪ぃか!」
「いや、最高じゃん!」
二人は笑った。
アギは小さくため息をついた。
「……本当に似た者同士ですね」
「「似てねぇ!!」」
また声が重なった。
午後零時十五分。
旧市街第七区画、中央商業地区。
三人は装甲車を降り、徒歩で巡回を開始していた。
周囲には、崩壊した商業施設が並んでいる。
かつて巨大な広告映像が表示されていた壁面には、今も古い映像が断続的に流れていた。
『……女神アリス様に……感謝を……』
映像が乱れる。
『……信仰こそ……救済……』
迅は顔をしかめた。
「……どこ行ってもこれかよ」
アギは周囲を警戒していた。
「気を抜かないでください」
「へいへい」
ラフバは退屈そうに歩いている。
「……敵いねぇのかよ」
「いない方がいいでしょう」
「つまんねぇ!」
「任務ですから」
迅は欠伸をした。
「……腹減った」
「さっき食べたでしょう」
「もう昼だろ」
「まだ十二時過ぎです」
「昼じゃん」
アギはため息をついた。
そのとき。
ピピッ。
彼女の軍用端末が短く鳴った。
「……?」
アギは画面を確認した。
周辺の電波状況に異常が発生している。
「……通信障害?」
さらに、別の警告が表示された。
『未確認機械反応を検出』
アギの表情が変わった。
「……二人とも、止まってください」
迅が振り返る。
「ん?」
ラフバも足を止めた。
「どうした?」
アギは周囲を見渡した。
「……何かいます」
その瞬間。
ガシャン。
廃墟の奥から、金属音が響いた。
三人が振り返る。崩れた建物の影。
そこから、一体の機械兵が姿を現した。
全高約二・三メートル。黒い装甲。
両腕には、軍用の多目的マニピュレーター。
右肩には小型の武装ユニットが取り付けられている。
胸部には、見慣れない紋章。
白い花を模した意匠。
アリス教軍の紋章だった。
アギの目が細くなる。
「……アリス教軍の機械兵」
機体の識別情報が端末に表示された。
『AAR-17《巡礼者》』
アリス教軍が運用する自律戦闘アンドロイド。
偵察、警備、対人戦闘を目的とした量産型機である。
機械兵の頭部センサーが赤く光った。
『未登録武装勢力を確認』
『所属識別……無宗教軍』
『警告』
『当該区域からの退去を要求する』
迅は首を傾げた。
「……喋った」
アギは即座に判断した。
「交戦は避けます。二人とも、後退してください」
ラフバが拳を鳴らした。
「……おいおい」
その口元が吊り上がる。
「やっと敵が出てきたじゃねぇか」
「ラフバ!」
アギが制止する。
しかし、ラフバは既に一歩踏み出していた。
「なあ、迅」
「あ?」
「どっちが先にあいつを倒すか勝負しようぜ」
迅は機械兵を見た。
そして、笑った。
「……いいねぇ」
アギの顔が引きつった。
「……待ってください」
二人は同時に構えた。
「「よーい……」」
「待ってくださいってば!!」
その瞬間。
機械兵の肩部武装が起動した。
『敵対行動を確認』
『排除行動に移行』
乾いた発砲音。
アギの表情が変わる。
「伏せて!!」
次の瞬間。
ドガガガガッ!!
銃弾が地面を叩いた。
コンクリート片が飛び散る。
迅は横へ跳んだ。
ラフバは反対方向へ踏み込む。
二人とも、直撃を避けていた。
「……おい」
迅が笑った。
「いきなり撃ってきたぞ、あいつ」
ラフバも笑った。
「ははっ! やる気満々じゃねぇか!」
アギは刀の柄に手を添えた。
「……二人とも」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
静かで、鋭い。
「これは訓練ではありません」
迅は頷いた。
「分かってる」
ラフバも笑みを深めた。
「当然だろ」
アギは機械兵を見据えた。
「……なら、油断しないでください」
三人の前で、機械兵が再び武装を構えた。
『排除対象、三名』
『戦闘継続』
迅は拳を握った。
ラフバも構える。
アギは刀に手を添えたまま、静かに息を吐いた。
そして。
「……じゃ」
迅が、にやりと笑った。
「仕事、始めるか」
同時刻。
アリス領、国境監視施設。
薄暗い管制室。
無数の監視映像が壁一面に表示されていた。
その一つには、旧市街第七区画の映像が映っている。
黒髪の少年。
赤髪の青年。
刀を携えた少女。
三人が、アリス教軍の機械兵と対峙していた。
「……妙ですね」
白い軍服を着た男が呟いた。
隣にいた士官が尋ねる。
「何がだ?」
「この三人です」
男は映像を拡大した。
「機械兵の初撃を、全員が回避しています」
「……それがどうした?」
「この機体の射撃管制は、通常の未覚醒者を相手にするには十分な性能を持っています」
男は映像を見つめた。
「しかし、彼らから覚醒反応は検出されていません」
「…………」
「特に、この黒髪の少年」
映像が拡大される。
黒瀬迅。
彼は笑っていた。
「……面白いですね」
男は端末を操作した。
「記録しておきましょう」
『観測対象登録』
『識別番号:J-071』
『氏名:黒瀬迅』
『所属:ジャポネ無宗教軍』
『覚醒反応:なし』
『身体能力:要再評価』
男は静かに呟いた。
「……さて」
画面の中で、迅が動いた。
「どこまでやれるのでしょうか」
その観測記録が、やがて女神アリスのもとへ届けられることになる。
だが、それはまだ少し先の話。
今はただ。
世界最弱の軍隊に所属する三人の問題児が、初めての実戦に挑もうとしていた。
次回予告
アリス教軍の戦闘アンドロイド《巡礼者》と交戦する三馬鹿。
しかし、敵は一体だけではなかった。
廃墟に潜む複数の機械兵。
そして、その背後で指揮を執る謎の人物。
未覚醒の三人は、初めて本格的な実戦を経験する。
戦闘の中で明らかになる、迅の速度、ラフバの怪力、そしてアギの圧倒的な技量。
だが、彼らはまだ知らない。
この世界における本当の強者が、どれほど理不尽な存在なのかを。




