第01話 表示されない ①
最初に分かったのは、ここがログイン地点ではないということだった。
その次に分かったのは――どうやら、目を覚まして数分で死にかけているらしい、ということ。
「……っ」
カイは森の中を走っていた。正確には、自分の意志で走っているというより、走らされていた。
目を覚ましたら知らない森で、起き上がったら着ているのは見慣れた探索装備だった。状況を確認する時間は、背後の木々が揺れたところで終わった。何か大きなものが出てきて、こちらを見た。それで逃げた。今のところ説明できるのは、そこまでだ。
情報が足りない。足りないが、説明書を探している暇もない。
背後で木が折れた。乾いた破砕音が森へ響いて、できれば自分の身体から一生聞きたくない種類の音だな、と思う。
(距離、十二……いや、十一)
振り返らずに測る。足音と、足裏へ伝わる地面の揺れだけで足りた。一歩ごとに湿った土が沈んでいる。重さからして人間ではない。少なくとも、人間のサイズではない。
でかい。速い。たぶん話し合いにも向いていない。
なら逃げる。そこに議論の余地はなかった。
走りながら、視界の右上を見た。
残量を確認する癖だ。四千六百十七時間、同じ場所を見てきた。
何もなかった。
考える余裕はない。後で考える。
夜明け前の森は、まだ薄暗い。濡れた土、むき出しの根、踏めば沈みそうな泥。
見覚えのない森だ。それでも、森という地形そのものには慣れている。
正面に低い枝。速度は落とさず上体だけ沈めて、その先のぬかるみを避けて右へ半歩。滑る土ではなく、露出した根の上へ足を置いて踏み切る。
考えて選んでいるわけではなかった。四千六百十七時間ぶん、同じことを繰り返した身体が勝手に選んでいる。
背後で、また何かが砕けた。
問題は、どこまで来るかだ。
走りながら視線だけを動かした。左に細い獣道、中央に倒木、右は急な下り斜面。
左は狭いから、巨体なら速度が落ちる。中央は論外。右は地面の状態が読めない。
(左)
判断した瞬間には身体を切り返していた。木と木の隙間へ滑り込んで、肩が枝を掠める。背後で獣らしきものが吠えた。腹の底まで震える低い声で、たぶん怒っている。
怒ると足が速くなるタイプでなければいい。
次の曲がりで追手との視線が切れた。その先にあったのは、ゆるく見える下り斜面だった。
湿ってはいる。だが水が集まっているようには見えない。大きな亀裂もなく、苔の偏りも薄い。
問題なし。そう判断して踏み込んだ瞬間、足元が沈んだ。
「……っ」
違う。
表土だけが残って、その下が抜けていた。崖ではない。大規模な崩落でもない。たった一歩分だから読めなかった。
身体が前へ投げ出される。一度、二度、三度と斜面を転がって、途中で右腕の外側に鋭い感触が走った。布が裂ける音。岩だ。さらに数メートル滑ったところで、ようやく止まった。
カイはそのまま動かなかった。痛いからではない。先に耳を澄ませる。
斜面の上で足音が止まって、低い唸り声が落ちてきた。しばらくして遠ざかる。巨体では下りる方が危険なのだろう。
追跡、切れた。そこでようやく息を吐いた。
読み違えたのは一歩だけだ。斜面そのものを選んだのは合っていた。
大きいものは、下りで重心を殺せない。追う側の速度が落ちるのは、上ではなく下だ。
向こうで何度も使った。
別の森でも、形が同じなら通る。
「……朝から運がいい」
口に出してから、自分で首を傾げた。
「いや、悪いか」
追われて、転げ落ちて、怪我までしている。ただ、生きている。なら最悪ではない。
身体を起こして、右腕を見た。袖は裂けている。傷の長さは十センチ前後で、擦過傷に浅い裂傷が混ざっていた。骨には問題なさそうだ。指を動かす。動く。出血はある。
血が一滴、湿った土へ落ちた。
傷を確認したあと、カイはもう一度、右上を見た。
二度目だ。
何もない。視界の上端、左、下、自分の腕の周囲。どこにもない。
「……HP表示どこだ」
返事はない。当然だ。だが、カイにとっては当然ではなかった。
傷がある。血も出ている。痛みもある。なら普通は、減っている数字がある。
「HP」
声に出してみる。何も出ない。
「ステータス」
「メニュー」
やはり何もない。
「……気まずいな」
誰もいない森で、一人で単語を呟いている。見られていないことだけが救いだった。
確認する。ミニマップ。簡易方角。パーティ欄。スキルショートカット。装備耐久。
何もない。
何も表示されていない空間を、しばらく見た。薄い朝の空と、枝先を移る鳥だけだった。
「……なんで、こうなった」
そして、ようやく記憶が繋がった。
EIDOLON FRONTIER。正式名称で呼ぶ人間はほとんどいなかった。みんな、エイドロンティアと縮めて呼んでいた。
CHARACTER DEATH = PERMANENT LOST
キャラクター死亡時、当該キャラクターデータは永久消失します。




