最終話 夢の授業、千回目の前夜
朝はいつも、少しだけやさしい。
赤信号の手前で自転車を止めると、校門の上に薄い雲がのび、春と夏の境目みたいな光が漂っていた。昇降口で靴を履き替える。新しいゴム底が床を鳴らす音が、今日もちゃんと生きている証拠に思える。
黒板に日付を書き、板書の一行目をためらわずに置く。
《夢の授業、千回目まで あと一回》
正確には、数えてはいない。数えると、数に追われる。けれど、積み木は気づけば塔になる。今日が九百九十九回目でも、九回目でもいい。重要なのは、次があると教室に示すことだ。
チャイムより早く教室へ顔を出す生徒たちが、波の順番で入ってくる。机の角に新品のノート、キーホルダーの鈴、髪の結び目、昨日のままの笑い。このクラスには、元気の出し方を忘れない天才が何人かいる。忘れがちな連中の横に、いつも自然に座る子もいる。そういう配置を神様がやってくれる日もあれば、俺が少しだけ肩を押す日もある。
双子みたいな姉妹は今日も左右逆のリボン。窓際の席を半分ずつ分け合うように座り、花びらを追うのと板書を写すのを交互にやる。後ろの列では、体育会系の男子が本日の弁解を練っている。プリントを忘れたことの説明は、毎回だいたい面白い。面白いけれど、提出はしてほしい。
「今日は宣言からいく。明日、放課後、体育館で“夢の授業公開版”をやる。題名は“百人のただいま”。全校と保護者と地域の人に、君たちの声で“おかえり”を見せる」
ざわめき。
「先生、それ、合唱ですか」
「合唱でもあり、朗読でもあり、動画でもあり、屋台でもある」
「屋台って」
「言葉の屋台だ。三秒で笑って十秒で好きになるやつ、覚えてるだろ」
教室の空気が、ほんの少しだけ文化祭の匂いになる。
「役割分担は後で配る。今日は練習。三つだけ、絶対にやることがある」
黒板に、ゆっくり書く。
《一 だれか一人の“ただいま”を拾う》
《二 自分の“ただいま”を短くする》
《三 “やめたい”を口で言ってから、笑う》
「三はなに」
「儀式みたいなもんだ。口に出すと、体が勝手に準備する。ほら、ほうれん草を口に出して言うと急に青くなるみたいな」
「例えが雑」
「国語の授業は雑談で育つ」
笑いの温度が上がる。温度が上がると、声は遠くへ飛ぶ。
「じゃ、まずは“ただいま”を三つ、即興で作ってみよう。誰でもいい」
前の列の男子が手を挙げる。
「“ただいま 眠気 置いてきた”」
「いい。短いのに勝ってる」
双子みたいな姉妹の片方。
「“ただいま ランドセルじゃない肩が 軽い”」
「中学ならではだ」
その横の子が、ちょっと悩んでから。
「“ただいま きのうの心配 ちょっと薄い”」
「薄くなるの、最高」
黒板の端が小さな“ただいま”でいっぱいになる。ひとつひとつに拍手は要らない。うんうん、と体でうなずく。言葉は体で聞くと、あとで思い出す。
四時間目の終わりに、練習を切り上げる。
「今日の放課後、自由参加で“録音会”。声を撮る。小さなスタジオは空き教室だ。マイクはタクミ印。ノイズの向こうにいる人へ、届くように」
放課後。女子の笑いと男子の足音が行き交う廊下のいちばん端に、空き教室をひとつ借りた。
タクミが最新の小型レコーダーを机に置く。いまや彼は、地域の映像屋として名前が通っている。仕事帰りに学校へ寄ってくれたらしい。
「先生、今日のマイク設定は、声の“ささやき寄り”でいきます。体育館で合体させたら、泣けるやつになる」
「泣かせにくるの、相変わらずだな」
「泣くのは主に先生」
ミオは大学の実習帰り。制服のかわりに、動きやすい服。手にはノートと細い蛍光ペン。
「先生、台本の最後に一行、足していいですか」
「読んでみて」
「“ありがとうは、言えた分だけ帰ってくる”」
言った瞬間、空き教室の蛍光灯が一段明るくなった気がした。
「採用」
「やった」
録音会は、笑って、詰まって、また笑って進む。声は顔より正直だ。うそ泣きはできても、うそ笑いは長く持たない。マイクは全部聞いている。
双子みたいな姉妹は肩を寄せ、互いの“ただいま”を先に褒めあってからマイクに向かった。
「“ただいま となりの人に 場所を空けた”」
「“ただいま 窓の向こうの 風に名前”」
レコーダーの波形がきれいに跳ねる。タクミがモニタを見て親指を立てた。
録音の合間、教室の後ろのドアが少し開き、顔を出した人がいる。
「ごめん、覗き」
白咲――いや、いまは学校の補助員である、ユメ。
「差し入れ。喉に優しいやつ」
紙袋の中には、蜂蜜のキャンディと、薄いクッキー。音が出ないように紙の内側に柔らかい布が貼ってある。配信者の気遣いは、現場で活きる。
「あとね、明日の“百人のただいま”、外部の音拾いは私のチームでやる。学校のルールの中でね。顔は撮らない。名前も出さない。でも、声は世界に届くように」
「頼もしい」
「頼って」
夕方、録音を終えて、皆を見送る。空き教室が急に広くなる。
「先生」
ユメが窓辺で止まった。もう外は薄暗く、校庭の土の線が曖昧になっている。
「明日、もし緊張したら、“やめたい”って言いなよ」
「壇上で?」
「心の中でも、舞台袖でも、どこでもいい。言葉は扉。言えたら、開く」
「お前は」
「わたしは、“やめない”って言う。だって、それが約束でしょ」
自然に笑い合う。笑うときに、目尻に小さな皺ができるのは、夢より好きだ。
家に帰ると、母が野菜を刻んでいた。包丁のリズムが、昔と同じ。
「明日、行くよ」
「ありがとう。多分、泣く」
「先に泣いて練習しとく?」
「もうしてる」
ただの会話が、帰ってきた日を少しだけ強くする。
その夜は、眠りが浅かった。浅い眠りは、昔より怖くない。夢と現実の境目は、もう点線でいい。点線は消すためだけにあるわけじゃない。ときどき、上から太くなぞれば、道になる。
翌日。体育館。
床は磨かれて、木の匂いがする。音響の確認。タクミがプロの顔でケーブルを点検し、ユメがチームとアイコンタクトをとる。生徒会は受付をし、保護者が入ってくる。地域のおじいさんが最前列に座って、両手を膝に置く。雨宮先生は、ステージ袖でものすごく短く頷いた。鵤は最上段から全体の動きを見て、なにかあれば走る準備。
体育館のライトが少し落ちて、ざわめきがすっと引く。
俺はマイクの前に立つ。
「始めます。“百人のただいま”。ここにいる全員で、帰ってくる練習をします。帰ってくる場所は、同じじゃなくていい。家でも、学校でも、自分でも。はじめに、一回だけ、全員で声を合わせる」
スライドの一枚目に、黒板の文字。
《やめたいは、やめないの予告。》
「まずはこれを読んでから、始めよう」
体育館に声がひろがる。小さな子の声、年配の人の声、恥ずかしがりながら遅れて出る声。合わないのに、合う。
そして“ただいま”が始まった。
一人目。
「“ただいま 朝の靴下 左右そろった”」
笑い。
二人目。
「“ただいま 体温計 昨日より少しだけ高い勇気”」
拍手。
三人目。
「“ただいま 名前を呼ばれて 返事の出番”」
声は続く。体育館の天井の骨組みに跳ね返り、壁に吸われ、床で少し丸くなってから観客に届く。ユメのチームが音を拾い、タクミが波形を見守る。
ミオの番。
「“ただいま 弟が見る わたしの背中”」
前列の親子が、目を見合わせて笑う。
双子みたいな姉妹は、二人でひとつのマイクへ。
「“ただいま となりに半分 空けてある”」
“空けてある”という響きが、体育館の空気をやわらかくする。
途中で小さなトラブル。マイクに布が触れて、ガサッと音。会場の空気が少し固くなる。
俺はマイクを一度切って、笑って言う。
「今のが、現実です」
笑い。固さがほどける。
「練習した通り、三秒で笑って十秒で好きになるやつ、つづけよう」
ラスト近く。
ステージの袖から、雨宮先生が珍しく前へ出た。
「“ただいま 目を閉じた先生が 目を開けた”」
体育館の空気がほんの少し揺れる。時間の重さがうっすら移動する。
そして、最後は、俺だ。
マイクの前に立ち、深く息をする。
「“ただいま 夢で先に 会ってきた”」
言った瞬間、体育館の遠くにいる誰かが、小さく鼻をすする音がした。ユメが袖で、目尻を指で押さえる。
終わりの合図は用意していた。
「ここで、もう一つだけ。全員で、三行いこう。黒板に書いた、いつものやつ」
スクリーンに、白い文字。
『いっしょに 読むから すきになる』
会場の声が重なり、最後の行で少しだけ笑う人がいる。好き、という言葉は照れを呼ぶ。でも、照れを通過した言葉は強くなる。
拍手が長く続いた。長い拍手は、うまくやった証拠というより、帰りたくないという気持ちの表れだと、最近ようやく分かった。
タクミが親指を立てる。ミオが胸の前で小さく頷く。雨宮先生は袖で、ほんの少しだけ口角を上げた。鵤は最上段から手を振る。母はハンカチを握りながら笑っている。
ユメがステージ裏から歩み寄り、俺の耳元でささやく。
「届けたよ。ちゃんと、遠くまで」
「遠くって、どこ」
「今日来られなかった人の、明日の手の中」
終演後。体育館は、片付けの音が忙しい。延長コードを巻く音。椅子を運ぶ音。テープのペリペリ。
片付けがひと段落してから、俺はステージに戻り、最後の黒板の文字を消そうとした。
黒板消しが止まる。消すのがもったいないわけじゃない。黒板は消すためにある。消して、書く。消して、書く。
けれど今日は、消しきらない部分を残すことにした。ほんの薄い、粉の山脈。角度によってだけ読める、影の文字。
体育館を出ると、空が群青だった。校庭の端に少しだけ残った桜が、風で遅れて舞う。
「先生」
声に振り向くと、双子みたいな姉妹が駆け寄ってきた。
「これ、いま書いたやつ。明日の自習の最初に、読んでもいいですか」
差し出された紙には、ぎこちなく、それでも真っ直ぐに三行。
“おかえり だれに言っても まちがいじゃない”
「いい。教卓の上に置いとけ」
「はい」
校門を出るまでの道のりが、いつもより短かった。足音の合いの手みたいに、スマホが震える。タクミからのメッセージ。
〈上がりました。“百人のただいま”。顔なし、名前なし。けど、声は世界仕様〉
再生ボタンを押す。ヘッドホンの向こうで、さっきの体育館がもう一度立ち上がる。波形が寄せては返し、遠くの誰かが“ただいま”と呟く。コメントが次々につく。
『会社の休憩室で聴いてる 帰りたくなった』『病院の待合で泣いた 早く帰る』『家にいて聴いた もっと帰ってきた気がする』
画面を閉じて、空を仰ぐ。雲が薄い。星はまだ出ない。風が少し冷たい。
その夜、家で。母は録画を見て、二回目でも泣いた。泣きながら笑った。
「いい仕事だね」
「ありがとう」
机に向かい、指導案を開く。明日の一行目を決める。
《夢の授業、千回目》
書いてから、ペンを止める。千という数字は区切りじゃない。数字は目印で、目印の先にも道は続く。
ノートの端に、昔と同じ言葉を書き足す。
《やめたいは、やめないの予告。》
この言葉を最初に黒板へ書いた日の粉っぽい匂いを、今でもちゃんと覚えている。覚えているから、明日も書ける。
寝る前、ベランダに出る。夜風がやさしい。遠くで電車がひとつ通る。
スマホが震える。ユメから。
〈今から五分だけ散歩しない?〉
〈する〉
角をふたつ曲がると、彼女がいた。部屋着に薄い上着。髪を簡単に結び、手には水筒。
「先生、今日の先生、先生だった」
「それしか取り柄がない」
「それがいちばん偉い」
歩道のタイルをゆっくり歩く。街灯が、等間隔に影を作る。
「ねえ、千回目を過ぎたら、何する」
「千一回目をやる」
「そういうと思った」
「じゃあ、ユメは」
「わたしは、今日の“ただいま”を編集して、明日の朝いちばんに出す。題名は“おかえりの練習”。サムネは体育館の天井」
「渋い」
「渋いけど、伸びる」
「信じる」
信じられる人がそばにいると、道の先は見えなくても怖くない。
分かれ道で立ち止まる。
「じゃ、先生は家へ、わたしは編集室へ」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
その短い往復で、世界はすこしだけ明るくなる。
布団に入って、目を閉じる。浅い眠りの向こうで、体育館の声がもう一度だけ流れる。
“いっしょに 読むから すきになる”
そのあと、別の声が重なる。今度は昔の教室の声。夢の中の子どもたち。ユメの、まだ画面の向こうにいた頃の笑い。雨宮先生の冷たい手。鵤の、時々だけ優しい言い方。母の、台所のリズム。
全部が、重ならないまま重なって、やがて遠くへ薄れていく。
朝。いや、朝の前。
目覚ましの一分前に目が開く。窓の向こうが、まだ青い。
歯を磨きながら鏡を見ると、昨日より少しだけ顔がよく見える。
トーストを焼く匂い。コーヒーの湯気。いつも通りの音が、いつも以上に元気だ。
学校へ。
職員室のドアを開けると、雨宮先生が先に来ていて、紙コップを二つ用意していた。
「千回目、おめでとう」
「ありがとうございます」
「緊張してる?」
「少し」
「じゃあ、先に言っておきなさい」
彼女は、古い友人みたいに笑う。
「“やめたい”って」
俺は口に出す。
「やめたい」
言って、笑った。
「はい、準備完了」
「便利な儀式だ」
教室へ。
黒板の前に立ち、チョークを握る。粉の匂い。窓の光。椅子の脚の音。生徒の息。
書く。
《夢の授業、千回目》
振り向く。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は、特別なことはしない。いつも通りやる。いつも通りのやつが、いちばん強い」
教室のどこかで、誰かが小さく笑った。
「じゃ、始めよう。三行からいこう。テーマは“はじめまして”」
双子みたいな姉妹が、いつものように左右逆のリボンを直し、ペンを構える。
俺は黒板の端に、もう一行をそっと添えた。粉が柔らかく落ちる。
《おかえり、そして、はじめまして》
チャイムが鳴る。
授業が始まる。
千回目が、いつも通りに始まる。
いつも通りは、ずっと続く。
昼の光が、窓の桟を白くする。
放課後の風が、校庭の砂を少しだけ動かす。
夕方のチャイムが、少し伸びて鳴る。
夜、屋上。
俺は空を見上げ、指で小さな丸を作る。
「続行」
誰に言うでもなく、言う。
風が答える。
遠くの電車が同意する。
街灯が、ぜんぶのノートの余白を照らす。
夢は終わらない。
だって、今日も誰かが“やめない”って決めたから。
そして、その誰かの中に、今日も先生が混ざっているから。




