第26話 おかえり、そして、はじめまして ―「夢の続き」
春は音が多い。
電車が軽くなる音。校庭でボールが跳ねる音。新しい靴底が床を確かめる音。廊下を流れる笑い声の高さ。桜が窓枠に触れてほどける、ほとんど無音の音。
新任の挨拶は短くした。長い挨拶は、聞く側の春を削る。
「今日から国語を担当します、天野です。どうせすぐ覚えるから、いま覚えなくていい。黒板に書いとく」
笑いが起きる。緊張していた空気が一段緩む。俺はチョークを握り、黒板の真ん中にゆっくりと書いた。
《夢の授業、第一回》
キイ、と硬い音。粉が宙でほどけ、文字の縁に小さな山脈をつくる。窓の外では、桜が控えめに舞っていた。花びらのいくつかがガラスに貼りついて、目玉のように教室を見ている。
新一年の教室は、どこの学校でも少しだけ同じ匂いがする。新しいノートとカバーのビニール、配られたばかりの教科書のインク、緊張を隠すためのフルーツガム。
前の列の真ん中に、双子みたいに似た姉妹が並んでいた。髪の結び方が左右逆。同じ柄のヘアゴム、色違い。片方が窓の桜を見て、もう片方が俺のチョークの握り方を見ていた。目が合うと、ふたり同時に小さく会釈する。胸の奥に懐かしさが走る。
――誰かを思い出すのは、記憶じゃなくて体の癖だ。
授業開始のチャイムが鳴る。俺は黒板を指で軽く叩いた。粉が晴れて、文字がはっきりする。
「第一回って書いたのは、今日で終わらないからだ。終わったら、第二回って書く。三回、四回、千回までいけたらいい」
教室の数十の目がこちらへ集まる。俺はできるだけシンプルに話す。難しいことを難しく言うのは簡単だけど、春には似合わない。
「まず、質問。夢って、見る意味あると思う?」
言い終わる前に、手が上がった。真っ先に上げたのは、後ろの列の、髪を短く切った男子。勢いのいい眉。
「先生、夢って、宿題から逃げられる場所です」
笑いが起きる。俺も笑う。
「逃げる練習も大事だ。でも、俺の答えはこうだ。夢は、“明日を先に練習する場所”。やること、言うこと、出会うこと。全部、いきなりは難しい。だから、先に夢で試しておく」
前列の双子みたいな姉妹の片方が、手をおそるおそる挙げた。
「先生。じゃあ、今日の授業も、夢かもしれないんですか」
「かもしれない」
「だったら、覚めたくないな」
小さな声で、でもよく通る声だった。教室がふっと静まって、誰かが息を飲む気配が伝染する。俺は頷いた。
「わかる。でも、覚めるのが悲しいのは、続きがあるからだ。続きがないなら、悲しくなりようがない。つまり――」
黒板の端、今日の日付の下にひとこと書く。
《つづく》
笑う子、写真に撮る子、無表情のまま目だけ動く子。それぞれの受け止め方で、同じ言葉がクラスに入っていく。
「今日は短い詩をやる。三行。作者は、いまから君たち」
ざわっとした空気。新入生は“いきなりの当番”に弱い。でも、弱いことに慣れていくと、強いのと同じ顔をする。
俺は配った短冊の紙を掲げる。
「テーマは“おかえり”。誰に、どこからでもいい。書けなくてもいい。書けないって書いてもいい」
教室のどこかで、ボールペンのクリップがカチカチ鳴った。隣の席の子が、その手を軽く止める。机の木目に文字が落ちていく。窓際の姉妹が、同時にペン先を上げて考える仕草をした。
斜め後ろの席の男子は、紙の角を少しだけ折ってから書き始める。
「時間は三分。短い? わかる。春は短い。だから、春に合わせよう」
三分は、長い。三分は、短い。チャイムでも砂時計でもなく、教室の呼吸で時間を計る。
「書けた人から前へ」
出てきた順に、黒板の前で読み上げる。
「“おかえり 靴が並んだだけで 家になった”」
「“おかえり 自分の声が 自分に言った”」
「“おかえり エレベーターの鏡が 笑ってくれた”」
小さな笑いと、小さな拍手。からかわない空気を先回りして作るのが、春のいちばんの仕事だ。
順番が回ってくる。双子みたいな姉妹が前に出る。背の高いほうが先に一歩。
「“おかえり となりの席に 同じリボン”」
読み終えると、もう片方が少し照れて笑った。
もうひとりが続く。
「“おかえり 知らない先生 でも知ってる声”」
胸の奥で、なにかがやわらかく鳴る。俺は、黒板消しを握り直してから、頷いた。
「いい。そういうの、いい」
最後に、読みたいけど読めない顔をしている子を一人、目で指す。
「無理に読まなくていい。でも、読んだら、今日の自分が明日を助ける」
ためらいのあと、その子は読んだ。
「“おかえり わたしの歩幅 だれかに合わせてもらった”」
前の列で、誰かが小さくガッツポーズをした。たぶん、今日、その歩幅に合わせた人だ。
「ありがとう」
その言葉で、教室の空気は春から初夏へ一センチ進んだ。
授業の終わりに、黒板にもうひとつだけ書く。
《やめたいは、やめないの予告。》
ざわめき。先にどこかで見たような、という顔。スマホで撮る音。
「この言葉は、君たちのものにしていい。悩んだら、ノートの端っこに書け。消してもいい。また書けばいい。僕も、昔から、これに助けられてる」
チャイム。
「第一回、おしまい。……つづく」
笑い声と椅子の擦れる音が混ざって、教室が立ち上がる。廊下へ流れる足音。窓の外、桜はまだ粘っている。
教壇を降りる前に、職員室の窓のほうをちらりと見る。廊下を挟んだ向こう側で、ユメが窓越しに小さく手を振った。補助員用のネームホルダーが胸で揺れて、日差しが透明のふちをきらりと光らせる。笑うと、目の端に小さな皺ができる。現実は、そういう細部の増やし方がうまい。
昼休み、職員室。
「どう、初回の手応え」
雨宮先生が紙コップを差し出す。インスタントでも、春の最初のコーヒーは少しだけ特別にうまい。
「詩で始めるの、早すぎます?」
「いいのよ。言葉は先に口に出すと、あとで意味が追いかけてくるから」
鵤が書類の束の陰から顔を出す。
「“夢の授業”か。管理職の悪夢にならないことを祈る」
「祈るのはコピー機だけで十分ですよ」
「その通りだ」
職員室に短い笑いが走る。ユメが湯沸かし器の前でカップを持ち、こちらに視線だけ投げて、すぐに逸らした。仕事中の顔。現実のルールを、彼女はすごくちゃんと守る。
午後の授業も無事に終わり、放課後。
配布物の印刷枚数とにらめっこして、最後のクラスの机間を抜け、廊下に出る。掲示板の隣で、双子みたいな姉妹が紙を見ながら話している。
「ねえ、“おかえり”って、先生に言ってもいいのかな」
「いいんじゃない? 知らない先生だけど、知ってる声なんでしょ」
目が合った。ふたりは少しだけ頬を赤くして、同時に頭を下げた。
「先生、おかえりなさい」
「ただいま」
屋上へ上がる。鍵の音。錆の匂い。フェンスの影が床に細かい格子を作っている。空はさっきより深い青で、風の温度も一段下がっていた。
ポケットのスマホが震える。画面に通知。
《白咲ユメ:新しい配信が始まります》
タイトルを見て、思わず吹き出す。
《#現実で再会した先生が推しです》
サムネイルには、彼女が学校の外で撮ったらしい笑顔。背景が白飛びして、顔だけがしっかり残っている。
「攻めるなあ」
声に出すと、背後で足音。振り向く前に分かる足音だった。
「攻めたほうが、見つかるから」
ユメが、うっすら汗を額にのせて立っていた。
「配信、これから?」
「五分だけ遅らせた。先生に“はじめまして”を言いに」
「おかえり、じゃなくて?」
「それはもう、何回も言った。だから今日は――はじめまして」
差し出された手。握る。春の体温。
「はじめまして。補助員の白咲です」
「はじめまして。国語の天野です」
握った手を離すと、ユメはスマホを掲げた。
「今日の配信、先生が“やめない”って言う瞬間の、効果音だけ借りる」
「効果音?」
「笑い声でも、ため息でも、チョークの音でもいい」
俺はポケットからチョークを一本取り出す。白。屋上の床にしゃがみ、コンクリートの片隅に小さく線を引いた。キイ、と鳴る。
《――つづく》
ユメが笑う。
「最高」
「これでどう?」
「充分。世界いける」
「世界いける、は、だいたい危ないフラグだ」
「折っていこう、二人で」
配信時間が近づく。ユメは風で跳ねる前髪を整えて、深く息をした。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
階段へ向かう背中に、最初の春と同じ柔らかい勢いがあった。俺はその背中を見送り、空を仰ぐ。
桜の花びらが、高い場所からゆっくり落ちてきて、フェンスに挟まれて止まる。指でそっと外して空へ投げると、風が拾って遠くへ運んだ。
スマホの画面に、配信が始まった印が灯る。
《#現実で再会した先生が推しです》
コメント欄が一瞬で賑やかになる。見知ったアイコン。見知らぬ名前。
『タイトルで泣いた』『現実ありがとう』『先生コラボまだ?』
ユメの声がスピーカーから流れる。
「こんばんは。今日は学校の屋上から、春の匂いをお届けします。わたし、最近、同じ言葉を何度でも言いたいなって思ってます。“おかえり”。“はじめまして”。それから――」
少し間を置いて、彼女は笑った。
「“つづく”」
俺は画面を閉じて、空に向かって呟く。
「やめないでよかった」
言葉は軽い。でも、着地は重い。胸の中のどこかに、静かに沈んでいく。
階下から生徒たちの声。部活の掛け声。新しい靴の音。
俺はフェンスに両手をかけ、校庭を見下ろす。春は音が多い。全部、練習の音だ。
夢で先に練習したことを、現実で何度でもやり直す。
その度に、誰かが「おかえり」と言ってくれる。
その度に、誰かに「はじめまして」と言い直せる。
ポケットの中の“生活ノート”の角が、太ももに当たる。ページの最後に空白が残っている。今日の夜、埋めよう。
《今日のありがとう:春が来た。来させた》
《今日のできた:黒板の前に立った。笑った。聴いた》
《今日のやめない:明日、第一回と書く。何度でも》
風が吹き、屋上の影がひとつ分ずれる。空は深く、青い。
――夢は終わらない。
だって、誰かが“やめない”って決めたから。
俺は階段へ向かう。職員室へ戻って、指導案の空欄を埋める。
明日の板書、最初の一行はもう決めてある。
《夢の授業、第二回》




