27 月夜の語らいⅡ
「それで。あなたはどうしてそれだけの力を持ちながら、ここでの暮らしに満足することができないの? ここは、あなたの力の源泉でもあるのでしょう?」
「あぁ、確かにな。ここにいる限り、私は生きるのに必要なだけの力を享け続けることができる。それこそ、なに不自由のない暮らしということだ。だが、だからこそ、私は喪ったものについて考えてしまうのだ。私は今でこそ、この豊かな神域の守り神とも言える存在だが、すべての時代においてそうだった訳ではない。小さな縄張りを構えるために、それを守るために、あるいは広げるために、私は数限りない命をこの手で損ねてきた。それらを自らに取り込み、さらなる力を得てきたのだ」
「だけど、それはあなたの生命の中へと溶け込んでいるのでしょう。あなたが生きるためにそうしたのなら、悔やんでいても仕方のないことだと思うわ。それに、その力こそが、途方もない時間を経てこうして豊かな神域を生み出し、育むことにも繋がっているじゃない。あなたは立派に、その使命を果たしているのよ」
「ふふ、今となってはそうかもしれぬな。そなたの言うように、もちろん私の行いは、私と私の家族が生きるために必要だったことだ。だが、すべてがすべてそうだった訳ではない。私にも、闘争の時代があった。自らの力能を、力の限りに揮うことが私に許された当然の権利だと、そう信じて疑わない季節があったのだ」
「そんなこと、珍しいことでも何でもないわ。私だって、先月まで郷里で戦争していたし、今だって人間たちはきっと、世界中で同じ権利を主張しあっているはずよ」
「そうだな、私の悩みなどそなたたちにはありふれたものなのかもしれぬ。ただ、私の場合、その裁量が大きすぎたのだ。私が一柱の神へと成り上がるまでに、いったいどれだけの『日々の糧』を求めてきたのか。そしてどうして私ばかりがその恵みに与ることができたのか。そう考えてしまうと、怖いのだ」
「怖い?」
「あぁ。この神域には、とても強い風が吹く。からからと、心の乾くような音。ざらざらと、私を笑うような声。そしてごうごうと、私を打ちつけるような冷たい風の音を聞いていると、いつしか私の心の中にまで、風は吹き荒ぶようになったのだ。『Tibi numquam ignoscent(彼らはお前を、赦しはしないだろう)』と」
「そんなこと……」
言葉を失った私は、そのとき自分の内で互いに重なりあうように脈を打つふたつの音を聞いていた。
私が口にしたのは、彼の言葉がやがてたどりつくはずの光景を、この温かな腕の中で迎えたくはないという思いだろう。つまりは、私を揺さぶり、私の心を傾けるに至った彼の温もりから得た、私自身の怖れとも呼べるものだ。今はただ、彼を慰めたいと。
「すまない。眠たくさせてしまっただろうか?」
「いいえ」
それでも私は、最初に私を訪れたはずの心音を強く信じることにした。
彼は怖れを口にしたのではない。そうではなくて、おそらく彼は、自身を捕えて放さない怖れから正当に逃れるための生き方を、ただ自らの手で手繰ろうとしているだけなのだ。
だとすれば、私にできることはきっとひとつしかないのだろう。
「続けて」
「あぁ」
初めから分かっていたように、猫は鋭く光を集めた夜目をゆっくりと閉じて頷いた。私の心が奏でた音など、とっくに彼を伝っていたのだろう。なんせ彼は、家出をしたその足の少女を、もう腕の中にすっかり収めてしまうような、女の扱いを弁えた賢い男なのだ。
「私がこの地に住まう限り、その声は鳴りやむことはないだろう。結局のところ、私は神となるべき器ではなかったのだ。そなたの言うように、お飾りの神という訳だな」
「ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの」
「もちろん、わかっているさ。私を、知ろうとしたのだろう?」
「うん。でも、きっとよくないやり方だった」
「そうか? 私は愉しませてもらったし、おまけに胸の支えも吐き出せたがな」
「そういうあなただからよ。あなたにはユーモアがあって、少なくともレディに対しては優しい心を持っているわ。あとはそうね、あなたは自分の人生を、自分の足で変えようとしている。今からでもあなたが望む者になりたいと、努力しようとしている。そうじゃなくて?」
「あまり正面きって言われると、少し参ってしまうがな」
「ふふふ。だから、遠慮せずに言うわ。でもそれだったら、あなたは自分の足で森を去るべきじゃない?」
「なるほど。そうだな、そうしたいのは山々だが、私はこれでも顔が売れていてな。何といっても、この地に永く住まう神だ。かつてそうだったように、姿を変えたとしても、私が町へと下れば自ずと気付く者も現れよう。私はこの地に根を張った神として、周縁の人間たちと利害を分かつことを――すなわち、ある者は祐け、ある者は挫くということを――望んではいない。ましてやそれがこれまでのような気まぐれではなく、私自らの生を問うべき旅路となる限りはな」
「……そうね。その考えはよく分かるわ。私も、私のことを誰も知らないような場所に行きたかったもの」
私自らの生を問うべき旅路。彼は、確かにそう口にした。
彼が心に決めていたはずのその言葉は、決意というよりは諦念を、そして希いというよりはもう少し穏やかな、すでにひとつの旅を終えたかのようなしみじみとした感慨を覗かせるものだった。
(私と、同じ言葉。だけど、彼の方がきっと……)
目の奥がかすかに痛むのを感じながら、私は月へと注がれた彼の瞳を追うように空を見上げていた。
私は雲間に隠れたあの月の顔を知っている。自ら光を放つことを知らない彼女が再び訪れくる新たな憂いに向けて、すでに満ち足りたその顔を静かに傾け始めたことを、私は養父の箱庭で知ったのだった。
「ここは、あなたの箱庭なのね」
私たちは今夜、同じ月を眺めようとしていたのだと私は思った。それぞれの軛から、ただ自らが抜け出す姿を思い描いて。そこにいれば、すべてがうまく収まるまずの、調和のとれた美しい箱庭に佇みながら。
同じ言葉を胸にした者どうしが今夜、同じ月に照らされてしまったから、こうして私たちはめぐりあった。ほかにどんな事象が働いていたのだとしても、もうそれでいいじゃないかと私の心は囁いていた。
私の空間魔術が――私だけのものだったカーズ・ヴィードが――、私に開いて見せた新たな景色のことを、私はこの夜、それだけ強く信じようとしていたのだろう。
「きっと、そうなんだわ」
そんな私の独り言に遅れて頷くように、それともこの月明かりを顔中に染み渡らせるかのように、猫はほとんど目だけで小さく欠伸をした。




