26 月夜の語らいⅠ
「よいか、人の子よ。この際はっきり言っておくが、ケッ……、決して私を、猫と思っては、ならない。こ、この姿は……私のジツザイ、性を安定的に表象する、うう……、ひ、ひとつの貌に過ぎないのだ。私の身体は今や、この地にありとある生き物たちによって繋ぎとめられた、云わば無限とも言えるセイ、ぐ……、かはっ……、ハァ、ハァ……生命の、けほっ、集合体、なのだから……」
「へぇ……」
たった今、自らの発生的な出自を開陳してみせたはずのその神を、私はただ白んだ目で見返していた。その言葉が仮に真正なる神の言だったとしてだ。彼はやはり、このタイミングで毛玉を吐き出すべきではなかったのだ。
「ふぅ、その顔は信じぬか?」
「そうね。今のはどう見たって、存在的に不整合よ」
「はは、これもまた、神の戯れというものだ」
「……あなた、引きこもってなんていないで、人里で生きた方がいいんじゃないかしら」
「だから、こうしてお願いしているのであろう?」
「うふふ、そういえばそうね」
自らの権威を逆しまにまとってみせた彼の男性的な振舞いに、私は今度こそ笑った。
この神はちゃんと気付いていたのだ。値踏みするような私の冷えた眼差しに。あるいは、男を品定めする女の冷めた視線に。そして試されていると知りながら、敢えておどけて見せたのだろう。
ただ笑われるのではなく、身を挺して女の笑いを誘うことができるのは、つまりは彼がそういう男だということだった。私は猫が吐き出したあとの生き生きとした光沢を放つ毛玉を見つめたまま、そのように彼を認めた。
「あなた、思ってたよりずっと賢いのね」
「そなたは、『神を試してはならない』と、習わなかったか?」
「ええ、ごめんなさい。でも、私の神に対してはいつもそうしているわ」
神は選ぶものではないのだがな、と猫は困ったように微笑んでいた。
血を交え、言葉を選んで交わされた私たちの長い挨拶は、これでようやく済んだのだろう。許しを得た安堵を滲ませたまま、時を得た猫は静かに自らの思いへと触れた。
「娘よ、私は飽いたのだ。私は永きに渡ってこの地を統べてきた。それこそ、そなたたち人の子が何度でも生まれ、また何度でも生まれ変わるほどの無窮とも言える時を、この変わらぬ足で跨いできたのだ。なるほど私には神として生きることの誇りや矜持を得ていた時代もあっただろう。あるいは自らの力能を揮い、享ける限りの生を享受した時もあったやもしれぬ。だが、すべては過ぎ去るのだ。この地にともに根を張ろうとした同志や同胞も既に去り、残った者も永き眠りについた。もはや変わる余地のないこの私だけを残してな。まぁ、こうして歳若い娘を捕まえて孤独を託つようでは、とても神の言とは思えぬであろうが」
「いいのよ、別に。今さら超越したことを言われても、また冗談が始まったのかと思っちゃうわ。だから思ったことを話してくれるだけでいいの。夜はまだ、きっと長いのでしょう?」
「あぁ、だろうな」
雲間に紛れた月の姿を目で追いながら小刻みに震えた私のことを、猫はそっと掬い上げた。
その滑らかな手つきには、つかの間私の心を奪うだけの繊細さがあったのだろう。
森の匂いのする肉球を伝って毛並みの整えられたもうひとつの前足へと降ろされた私は、促されるがままに寝そべっては悠然と佇む猫を見上げていた。
なるほどこれが、壊れやすい世界を跨ぎ歩いてきた者の所作なのかと。
「まぁ、レディの扱いにも心得があるのかしら?」
「私とて、女を知らぬ訳ではないのでな」
「へぇ、女の尻を追い回していた頃の御言葉にも興味があるけれど、それだと朝になっちゃうわね?」
「いやいや。そう見くびってもらっては困る。控えめに言っても、きっともう一度、夜が訪れるだろうな」
「ふぅん。じゃあ、今夜はそういうことにしておきましょう」
神との軽口を愉しんだ私は、すっかり脱力した手を小さく上げて彼に続きを促した。
思えば男の声をこれほど心地よく感じたのはいつのことだったか。おそらくは養父の膝で本を読み聞かされた時以来だろう。
暖炉の熱に染められた養父の体から、直に流れ込むような低く柔らかな振動に包まれながら、あのときの私は、すべてを信じることのできる世界に生きていたはずだった。
そして今もまた、すべてとは言わないにしても、この身体を伝う熱と響きくらいは信じてしまえるだけの世界に、私は揺られようとしているのだろう。




