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フラン・ロイスダールの逃走  作者: みかげ石
第一章 私が男と眠るまで
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1 神をめぐる噂Ⅰ

 思考を奪うほどの日差しがふいにやわらいだ。昨夜の雨をしのばせたあの粘り気のある暑さは、ひとときを境にすでに去っていたらしい。


 地息じいきを放ち、路面が乾いた熱を帯び始めたところで敷き詰められた石畳に水をやり、白く付着した目地材の跡を刷毛はけで洗い流していく。

 そうやって、光を蓄えた目地の表面を澄んだ水がするすると伝い、やがては路肩の土を湿らせていくその姿を私はただ見つめていた。初めからそうしていたのだと言わんばかりの滑らかな水の振舞いを。


「嬢ちゃん、もうメシにしようや」

「あぁ、そうしてくれ」


 いくどか見たことのある老年の男が肩をすくめながら立ち去っていくそのかたわら、今できたばかりの土の泥濘ぬかりには、ひとときの水場を得た蝶や蜂たちが、いつしか気の向くままに飛び回っていた。


「お前たちは――」


 どこからやってくるのか。世界が見せるこの限りなく微細な所作を、虫たちはどうして見逃すことがないのか。誰に教わるでもなく、こうも軽やかな足取りで。新たな喜びを分かちに来たとでもいうように。私の指先から生まれた、刹那せつなにも似たこの偶然を。どうすれば――


「おーおー、どっからともなく湧いてくるねぇ。砂糖でも混ぜてんのかい?」


 見上げると、今度は別の男が立っていた。先ほどまで慣れない手つきで石を配っていた若い手許てもとだった。

 大方今回の噂を聞きつけて訪れた新参の手だろう。


「放っておいてくれ。昼なら勝手にする」

「まぁ、そう言うなよ。汗臭い男にだって女に話しかけるくらいの権利はあるだろ? それにほら、手ぶらで話しかけるほど無粋でもないんだぜ」


 男は背後からそっと、見慣れた銅のマグと肉を挟んだパンの包みをのぞかせた。二人きりで話がしたいという合図らしい。


 私は黙ってそれを聞いていた。それとも、いくらか笑っていたのかもしれない。

 私の空想を遮るのは大方が男というもので、彼らはそうやっていつも違うもので私を満たそうとすることに、私は安堵のような嫌悪を覚えていたのだろう。

 頬でも擦りつけたいというように私の足元を飛び回る蝶を遊ばせたまま、そんなことを思う。触れれば濡れてしまいそうな、黒く肉感のあるはねを見つめながら。


「じゃあ、あの辺りでいいよな?」


 ただ、そんな考えとは別に私の首は割に早く縦へと振れていたらしい。

 川べりの木陰を指して私を過ぎ去ろうとする男の背から温く湿った風が抜けたところで、私はそのことに気がついた。

 熱をたたえた体から絶えず流れ落ちる汗のように、私の思考はこの体に留まり続けることをどこかで拒んでいたのかもしれない。


「どうした、来ないのか?」

「いや、今行く」


 それに実際のところ、好奇心に飢えた若い男を相手にする面倒と、これから満席の食堂に赴く面倒を、一度は天秤にかけようとしたものの、どちらがどのくらい面倒なのか、今さら考えるのも面倒になったのだ。



「なーにが『ビール純粋条例』だよなぁ。こんな混ぜ物の効いた酒が横行する町を野放しにするなんて、本当に王国領なのか?」

「辺境というのは、どこもそんなものだろう。もっとも奴らはここを町とも思っていないだろうが」


 川の水で拭った肌が木陰を吹き抜ける風になでられるにつれて、体の強張りが次第に解れていくのを感じていた。どうやら私はすっかり暑気に当てられていたらしい。

 手渡されたマグはよく冷えていた。『アクア・ビア』と総称されるこの町ではなじみの二級酒だが、混成酒の割には妙な甘さがなく、味はそれほど悪くない。

 口に流し込むと、喉から胸元にかけて心地よい苦味が抜け、体中に漂っていたざらついた眠気がそのまま押し流されていくようだった。

 

「これは、『磔刑たっけいの滴り』か」

「そうさ。『流罪の明日』よりは香りが潔いし、喉のかかりが違う」

「まぁ、同感だな」


 銅がゆるゆると溶け出したような鈍い苦味の泡を上唇に当てながら、「ここではビールは頼まないことだ」と町に流れてきた頃に聞いた言葉を私は思い出していた。


 正規の酒にありつけない流民たちが当局の目を盗みながら、彼らの目こぼしを得るに至るまで執拗に繰り広げられた密造の歴史こそが、代謝の絶えないこの町の確かな根をなすものだと男たちはそういう類のことを口にしていた。だから、「ビールではなく、俺とアクアを飲もう」と。


 あのときはベッドにたどり着きたい男たちの体のよい枕でしかなかったが、目の前の男は同じ魂胆で私に近づいてきた訳ではあるまい。爪に土を食い込ませたままビールをすする汗ばんだ女を口説くほど、ここは女に不自由する町でもないのだ。


「それで。ビールは口に含むものではないのだろう?」

「あぁ、そうさ。たとえ二級品アクアでもな。にしても、あんた、かなり東の出だな。イルニア辺りか?」

「……否定はしない」

 

 生まれ育った土地が人間の舌に与えるかおりというのは、そう簡単には拭うことのできないものらしい。

 抑揚を欠いた私の平淡な口調からも、捨て去ったはずの郷里の陰影が(にじ)んでいたことを思うと、今さらながら肌がそわつくような感じがした。


「そうか。なら、トランシルヴァニアを知ってるよな。サンティルニアの大森林を抜けた先にあるあの小さな島国さ。そこに兄貴が住んでいてな、帰る度に甥っ子と遊んだもんだよ。あいつ、元気にしてやがるかな。俺とは違って、虫も殺せないような泣き虫な奴でさ――」


 私の抱いた感情など男の知るところではなかろうが、男はなおも故郷の話に一人で花を咲かせようとしていた。どうも話の運びというものに無頓着な男らしい。


 人夫に珍しい性質ではないが、利得にあずかることに正直でいられない人間は、ここでは多かれ少なかれ泣きを見ることになる。相手につけいることができなければ端から相手にしないことだと、男の生え揃わない顎鬚あごひげを見やりながら、そんなことを思う。


 ただそれも、パン屑を払った私の仕草が水を差したのだろう。男はやがてこちらに向き直って本題を切り出し始めた。風炎ふうえんと呼ばれる熱く乾いた風を連れてくる山の向こうを指差しながら。


「あんた、ロップウィルの神が殺されたって話、本当だと思うか?」

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