その82
「父からの手紙を預かってまいりました」
史蘭は手紙を差し出した。
『娘を預けます。煮るなり焼くなりお好きなように。孫の顔が見られる日を楽しみにしております』手紙にはそう書かれてあった。
「隆斗様、何と書いてあるのですか?」
史蘭は紫羅義の顔を凝視した。
「ん、ああ、我らと旅をともにし、世間を見せてやってくれと書いてある」
紫羅義はそそくさと手紙を懐にしまったが、史蘭はその手紙を途中で開き、すでに読んでいた。
「史蘭よ、隆斗の名前はここまでだ。以後は紫羅義と呼んでくれ、皇帝の兄とわかると色々と面倒なことが起きて自由に行動ができなくなる、頼むぞ」
「わかりました、紫羅義殿」
史蘭は即座にそう返事をした。
三人の旅は四人になったが、史蘭の特異な力によって紫羅義たちは夜襲を回避し、難を逃れることになるとは、このときは誰もが想像すらしてはいなかった。
紫羅義たちに史蘭が追いついた頃、青弧にある山間の村で、村人たちが次々と姿を消し始めていた。
わずか五十人ほどしかいない村では、総出で消えた者を捜したが、その間にも次々と行方不明者は増えていった。村人たちは麓の町に一時避難するとともに、盗賊を取り締まる役人に訴えでることを決め、山を降り始めた。
山間の道を降りていく村人たちの後を、見え隠れしながら一つの黒い影が追っていた。
目覚めた惨霧は黒い塊のような、異形な容姿であったが、人の生き血を得て、人の姿に近づきつつあった。
「まだまだ、血が足りぬ、元の力を取り戻すためにはもっと多くの血が必要だ。人間共よ、俺を連れてゆけ、もっと大勢の血があるところへ」
黒い影は村人たちがもっと人間のいるところに移動するのだろうと考え、襲わずに後をついて来たのだ。そして、草の陰から血走った目で山を降りる村人たちを見ていた。
村人たちが向かったのは街道沿いにある封軒という町だった。封軒は宿場町であり、旅人の往来も多く、栄えている町であり、人もたくさんいた。
惨霧はその様子を見て狂喜した。
眠りにつく前にはそんな町などなく、少数の人間の集まる集落を襲ってはなんとか命をつないでいたのだ。惨霧には町が家畜の集まる牧場のように見えていた。
群れに逃げられずにより多くの獲物を得るには、闇から闇へ一匹づつ、他の獲物に気づかれないように襲うのが効率的である。まず、町外れで茶屋を営む夫婦者が姿を消し、次の日には町の一番端で、鍛冶屋をやっていた若者が姿を消した。
山間の村人の訴えを聞いた役人は、村人が次々と行方不明となったと聞き、捜索のために青弧の地域を治める太守に応援を求めるべきかと悩んでいたが、今度は町の中で次々と行方不明者が出たと聞いて、大慌てで太守宛てに使者を送った。
報告を受けた太守は武玄頼という上級士官に城の守備兵の半数である五十騎を率いて調査に向かうように命じた。武玄頼はまだ若いが、切れ者との評判で、洞察力にも優れ、正義感の強い人間であった。
彼はすぐに封軒の町に向かい、山間の村から降りてきた者の話を聞き、町中で行方がわからなくなった者たちの捜索をするとともに、彼らの家を調べた。
家の中は物色された形跡もなく、山間の村人の話からも、盗賊の類いの仕業ではないことはわかったが、手がかりになるようなものは何一つ出てはこなかった。
人々は神隠しだと恐れたが、武玄頼は何か得体の知れない獣が山の村を襲い、それがここまで降りてきたのではないかと感じ、付近を徹底的に捜索させた。そして、町の裏に広がる森の中から十人ほどの遺体を発見した。遺体はどれも首を食い破られていて、彼はやはり大きな獣の仕業であったかと確信したが、獣の仕業にしてはあまりに多くの疑問があり過ぎた。
「誰にも騒がれずにこれだけの人間を襲えるものなのか。それに、どれも首を食い破ってはいるが、他に外傷らしきものは無い。獣が襲ったのなら、こんなことはありえない」
武玄頼は腕を組んで首を捻った。
彼は部下にその獣を捜し見つけ次第討てと命じ、再び捜索を開始するとともに街道を封鎖し、人々には外に出ないように注意を促し、要所に警備の兵を立てた。しかし、多くの人間の血を得た惨霧はほぼ完全な人間の姿になっており、すでに町の中の人間に溶け込み、往来を行く人々を、次の獲物はどれにしようかと物色していた。
警備の目をすり抜けるように次々と人は姿を消してゆき、町人は恐怖に震えあがり、多くの者が逃げ出していったが、その殆どは惨霧の餌食となっていた。
彼は人間の心理を理解し、それを利用していたのだ。なるべく多くの獲物を得る方法を彼はいつも考えていた。恐怖に駆られ、群れから離れる者を襲うのが一番安全で効率がよいことを彼は知っていた。
自分を探す警備兵の存在も知っているが、まだ力は完全ではない、見つかると面倒だと思っていたが、力が戻ればその姿を現し、次の行動に移るつもりでいた。それは、人間の支配であり、惨霧が皆の前に平然とその姿を現す日は近づきつつあった。
武玄頼は決断した。もうこれ以上、犠牲者を出すわけにはいかない、自分が囮になって獣を誘き寄せて倒そうと考えた。
部隊の中で一番の剣の使い手は武玄頼だった。彼は自らを囮にし、町の外れの街道沿いに兵を隠し、そこに誘い込む策を決行した。
昼間のうちに兵を配置し、夕刻、人々が恐れ、家の戸が全て閉じられて人の姿が見えなくなると、彼は怯えるような仕草で周囲の様子を伺いながら街道を歩き始めた。
「何処からか見ているのだろう、お前が望むように一人になってやったぞ、出て来い」
武玄頼は辺りを見回しながら逃げるような早足で歩き、街外れまで来たが、特に何も起こることはなく兵を配置してある場所にたどり着いた。
「出てこなかったか」
そう呟いた時、武玄頼は硬直したように震え、振り返えった。
彼の後ろには一人の男が立っており、武玄頼はその者の異様な風貌を見て、目を見開き、息を呑んだ。
その男は痩せて肌が透けるように白く、大きな目を細めながら歯を剥き出して笑っており、その歯は二本だけが異常に大きく長く、まるで犬の牙のようであった。手足は細くて異様に長く、肩を落とし、前屈みに立ち、赤い女物の着物を身に纏っていた。
「なんだ、こいつは、いつの間に!」
武玄頼はその男の頭から爪先まで舐めるようにして観察し、そして確信した。
「こいつだ!」
武玄頼は叫んだ。
その男が犯人であろう決定的な証もあった。その赤い着物の奇妙な明暗の柄は血の染みだったのである。
「囲め! 逃がすな!」
武玄頼の命令で息を潜め、様子を伺っていた兵たちが飛び出した。
「人々を襲っていたのはこいつだ。捕らよ。油断するな、抵抗するようなら斬れ」
部下に命じながら武玄頼は無意識に剣を抜いていた。
彼の本能は危険を察知していたのだ。
数人の兵が男に近づくと、男は細く長い腕を目にもとまらぬ速さで振り回し、近づいた兵は目や額を押さえながら悲鳴を上げた。
男の爪は鋭く長く、それを武器にしていたのだ。
「斬れ!」
武玄頼の命令で今度は剣を抜いた兵が数人で斬りかかったが、男は残像を残すような速さと奇妙な動きで瞬く間に兵たちを倒した。
「武玄頼よ、大事な兵を失うだけだぞ。どうだ、俺と一騎討ちをしないか、剣の腕に自信があるのだろう」
男はニヤニヤと笑いながら武玄頼を挑発した。
「俺の正体まで知っていたか、ここに兵を隠していることも知っていたのだな。いいだろう、相手をしてやる」
武玄頼は構えると、男に近づき、剣を一気に振り下ろした。
男は柳の枝がしなるように避け、将軍の繰り出す剣をのらりくらりと避け続けた。
武玄頼は少し間をとり、次の瞬間、疾風のように速さで間合いを詰め、剣を真っ直ぐに突き出し、その剣は男の胸に深く刺さった。
「やった!」
兵たちの間から歓声が上がった。
男は胸に刺さった剣を両手で掴み、「ぐう」と声を洩らしながら、うずくまるように膝を着いた。
武玄頼は剣を手から離し、よろけるように二、三歩下がると肩で大きく息をして、男を見下ろした。
兵たちが囲むように近づくと、男は笑いだし、皆は後ろに下がり息を呑んだ。
男は笑いながらゆっくりと立ち上がった。
「なかなか良い腕だ。だが、もう俺にはこんなものは効かんよ」
男はそう言いながら胸に刺さった剣を引き抜くと、大きく一歩を踏み出し、武玄頼の胸をその剣で突いた。
武玄頼はよろけるように下がりそのまま仰向けに倒れた。
「おまえは何者だ? 何が目的だ?」
武玄頼は喘ぎながら男を見上げた。
「冥途の土産に教えてやろう、俺の名は惨霧、この世を支配するものだ」
男の言葉が終わらないうちに武玄頼は息絶えていた。
呆然と立ちつくす兵たちに向かって惨霧は言った。
「俺の力を見たであろう、何者も俺を倒すことはできないのだ。俺が地上の支配者となる。お前たち、今、俺に従えば後々、高い地位に就けるぞ、よく考えろ。逃げる者は自由にせよ、従うものは残れ」
惨霧は自分の圧倒的な力を見せつけて、剣を持った兵を取り込もうと考え、武玄頼の策に嵌まったようにみせかけて、その姿を現したのだ。
殆どの兵はすぐに逃げ出したが、五人はしばらく考えた後、そこに残った。
彼らは先の見えない雑兵よりも、こちらが有利だと思い、惨霧に従うことを決めた。あろうことか、最初に惨霧の手先になったのは、青弧の地を守るはずの守備兵であった。
逃げ帰った兵たちは事の成り行きを太守に報告した。
太守は驚き、信じられないという表情だったが、逃げてきた数十人の兵たちが誰に聞いても同じ証言をするので、これは事実であろうと思い、腹心を集め、対策を協議した。
封軒での話を聞いて、両の拳を握り締め、惨霧を倒すと息巻く者がいた。それは、武玄頼の弟の武真郭であった。
「戻った兵たちの話が本当なら、このままでは大変なことになります。直ちに国王に使者を送り援軍の要請をするべきです」
腹心の進言に太守は確かにこの城の兵力では心もとないと感じ、国王に使者を送ることにした。
武真郭はその間にも犠牲者は増えるし、このままでは兄も浮かばれない、自分を派遣してほしいと太守に直訴した。
武真郭は武玄頼の弟でありながら、その指揮能力、剣の腕とも兄より優れていることは誰もが認めるところであり、太守は武真郭に三十騎を与え、惨霧を討つように命じた。そして武真郭は兵を率い封軒の町に向かった。
武真郭が三十騎を連ねて封軒を目指している頃、紫羅義たちの一行は唯の国を通過し、簾の国に入っていた。
「日も傾いてきたけど、宿屋なんつうもんはありそうもないな」
一行はその日の宿を探したがついに見つからず、農具が置いてある小さな小屋を見つけ、そこで一晩を過ごすことにした。




