表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫羅義  作者: 海道 睦月
53/125

その53

 (そう)の国の(れい)(よう)という地に(えい)(しゅく)()という評判の美女がいた。

 彼女は物心ついてから笑ったことがない、笑うどころか感情というものがない。永淑妃が幼少のときに父が病気で亡くなり、そのときから感情と呼べるものが消え、その頃に母親はある夢を見たと語っていた。

 仙人のような老人が夢枕に立ち、王の中の王たる天意を持った者に出会ったとき、娘は笑うであろうと、そう告げたと。

 父親の居ない永淑妃の家は裕福ではなかったが、母親は女手一つで彼女を育て上げ、永淑妃は一七歳になった。

 笑わぬ絶世の美女、これが評判にならないわけはなく、近隣諸国から、その評判を聞きつけた多くの者が彼女の家を訪れ、彼女の感情を引き出そうとした。そして、いつの間にか、笑わせれば、結婚という図式ができ上がり、富豪や県令、太守までが家を訪れたが永淑妃はついに一度も微笑むことはなく、誰もが、肩を落として帰って行った。

 永淑妃は病気ではなく、幼い頃より母親に感情を出すなと厳しく躾られていた。笑えば怒られ、蜘蛛を見て驚けば叩かれ、泣けば、納屋に閉じ込められる毎日だった。

 こうして彼女は喜怒哀楽の一切を表に出さない女に成長した。

 永淑妃の噂は宗国の王である(じゅん)()(けい)にも届いた。

 荀宇桂は父である前国王が若くして病死し、その地位を十代で世襲した。

 それから十数年、今は三十代半ばであったが、その姿は凛々しく、彼は自分の外見や立ち振舞いに絶対の自信を持っていた。

「笑いを忘れた絶世の美女か、しかも、王の中の王たる者に出会えば、微笑むだと。面白い、是非ともわしの側室に迎えたいものだ」

 国王は永淑妃に会いに行くことを決めた。

 国王には正室の他に何人かの側室がおり、七人の子どもがいたが、そろそろ毛色の違う女が欲しいと思っていたところだった。

 国王が命ずれば、すぐに誰であろうと城に連れて来ることができる、しかし、それでは面白くない、自分に絶対の自信がある荀宇桂は自ら相手の家まで出向き、皆の前で彼女を微笑ませ、自分が大国の王であるに相応しいと誇りたかった。

 荀宇桂は二千騎の警護兵を引き連れて城を後にし、麗揚の地に着くと、あき地に合戦でも始まるかの如く陣を敷き、兵を配置して永淑妃が来るのを待った。

 永淑妃の家には前もって使者が出向き、身なりを整え国王に謁見せよとの命が下っていたので、この噂を聞き、遠方からも一目見ようという人々が駆け付け、囲いの外には大勢の人間が集まった。

「かまわん、近くで見せてやれ」

 荀宇桂は群衆を囲いの中に入れさせたが、彼は事前に恐ろしい命令を兵たちに出していたのである。

「永淑妃が笑えばよし、だが、もし笑わなければ、永淑妃を含め、そこにいる者は全て斬れ、一人残らずだ」

 荀宇桂は天下に己を誇りたいと思いここまで来たが、相手が微笑まなければ、国王の資質を疑われることになる。それを外に漏らすわけにはいかないのだ。見物に集まった群衆を兵たちの内側に入れたのは優しさからではなく、彼らの逃げ道をなくすためだった。 

 そうとは知らず、見物人たちは兵たちに囲まれた中で永淑妃が来るのを待った。

 そして母親に連れられて永淑妃がやって来た。

 永淑妃はうつ向いて、頭から薄い布を被ったまま国王の前に来ると、母親と二人、並んで座った。国王の前には大きな真紅の敷物が敷かれ、永淑妃と母親はその上に座って深々と頭を下げた。

「お前が噂に聞いた永淑妃か、立って顔を見せてみよ」

 国王が命ずると彼女は立ち上がり、頭から被っていた薄い布をハラリと取って前を見た。

 その様相と仕草は、真紅の敷物の上に大輪の花が一瞬、開花したように見え、国王も見物人たちもその美しさに息を呑んだ。

 国王は立ち上がり、永淑妃の前に行って、一緒に城に来るかと尋ねた。

「はい、あなた様が来るのを、長い間お待ちもうしておりました」

 彼女は国王の顔を見上げ微笑んだ。

「おお!」

 周囲からはどよめきが起こり、国王はその微笑んだ顔の美しさと、周囲に自分を認めさせた満足感で言葉が続かず、ただ、ただ何度も大きく頷くばかりであった。

「娘を私の側室にする、異存はないな」

 国王は座っている母親に形だけの同意を求めた。

「はい、異存などあろうはずはございません」

 母親は真紅の敷物に擦り付けるようにして頭を下げた。

「うむ、一緒に連れて行くが、夕刻まで待とう、それまで母娘で別離を惜しむがよい」

 荀宇桂はすぐにでも永淑妃を連れて出発したかったのだが、周囲の群衆に自分の心の広さを見せつけることは忘れなかった。

 母娘は家に戻ると急いで身支度を整え、そして別離の時間を過ごした。

「許しておくれ、ずっと、ずっと、辛い思いをしてきただろう、ひどい母親だと思っただろう、お前の器量を広く噂にするには、ああいう方法しかなかった。いつか、こんな日が来ると信じて、心を鬼にしていた。私も辛かった、でも、やっと報われる日が来た」

 母親は娘を抱き締め、泣きながら何度も詫びた。

「わかっていたわ」

 娘も母親を強く抱き締めたが、彼女の目から涙が零れ落ちることはなかった。

 夕刻、国王の一行は永淑妃を連れ、城に向け出発した。

 紫羅義が生まれた年のことであった。そして、二十年後、この永淑妃が紫羅義の前に立ち塞がることになるのだった。

 永淑妃は荀宇桂の側室となり城内で何不自由のない暮らしを始めた。きらびやかな服を身に纏い、欲しい物は全て手に入った。それでも、母を、故郷を思い出すのか、朱に彩られた長い廊下に佇み、遠くを見つめることが多かった。

 夕陽を受けて全体が朱色に染まる廊下で空を見上げる永淑妃のその美しい姿に城内の者は誰もがため息を洩らした。

 そんな永淑妃を荀宇桂はいつもそばに置いて、微笑ませようとしていた。

 彼女は感情を表すようになったが、それでもほとんど笑うことはなく、荀宇桂は彼女を微笑まそうと必死だった。豪華な物を集め、いつも彼女のご機嫌とりをしていたのだ。

 永淑妃はめったに笑うことはなく、たまに微笑むと荀宇桂はその顔を見て狂喜するほどであった。

 やがて永淑妃は身籠り、男の子を生んだ。

 その子は国王の名を一字貰い、(じゅん)()(ほう)と名付けられたが、その半年後に、他の側室が男の子を生み、その子は(じゅん)(かく)(しん)と名付けられた。

 国王は永淑妃に夢中であったが、彼女のお腹に子がいるときには、いそいそと他の側室の元にも行っていたのだ。

 母は違えども、荀宇宝と荀閣信は仲が良く、いつも一緒に遊び、大人びていた荀宇宝はいつまでも幼さが残る荀閣信の面倒を良くみていた。しかし、荀宇宝が十二歳になった頃から城内で異変が起こるようになった。国王の子どもが次々と病気や事故で亡くなったのである。

 子どもばかりでなく、正室や側室までも病に倒れたり、池に落ちたりという事故が相次ぎ、世を去って行った。

 国王には荀宇宝と荀閣信を含め、男女合わせて九人の子どもがいたが、残ったのは荀宇宝と荀閣信以外では、三つ上の兄だけであった。

 宗国の人々は何かの祟りかと恐れたが、城内では永淑妃が命じて殺害しているのではないかと噂が流れ、国王も、もしかしたらとは思っていたが、すでに彼女がいなければ日々の生活が送れないほど骨抜きになっていた。

 それに加え、永淑妃は三十歳を越えると、その美しさだけでなく、妖艶とも言える雰囲気を身に纏い、家臣たちもその容姿に魅了されていので、彼らは国王の疑問に対して、永淑妃様がそんな恐ろしいことをするはずはないと口々に進言していた。

 皇太子として指名していた息子たちが次々といなくなり、国王は五十歳を越えて、さらに後継者を決めなければならなかった。

 国王に子どもが一人なら当然の如く荀宇宝が指名される、永淑妃は他の子どもを消せとは命じてはいなかったが、我が子を後継者にと、その気持ちを言葉に表せば、周囲が勝手に動き、願いを成就してくれるのだ。

 永淑妃は幼い頃から感情を押し殺すように育てられただけでなく、他の子どもと遊ぶことも、人と交わることも許されず、彼女は人と楽しく話したという経験がなかった。

 人々が話しているのを感情のない目で見ていたが、いつしかそれは観察という行為に変わり、どうすれば人は喜び、どんな言葉を発すれば人が動くのか、その身に刻み込み、人を暗示にかける力を身に付けていった。

 永淑妃はその力で国王や家臣を操りだしていた。

 永淑妃の母親は娘の将来のためと考えて感情を出さないように育てたが、その行為は娘の体内に、恐ろしい魔物をも育ててしまっていた。

 荀宇宝が十七歳になったとき、皇太子に指名されていた三つ上の兄が事故で亡くなった。

 気晴らしにと、数人の家臣を連れ鹿狩りに行き、馬もろとも崖から落ちたのだ。

 事実はわからなかった、同行した者たちの報告であり、もし、その者たちが永淑妃の息のかかった者であるなら、口裏を合わせれば、真実はわからないのである。

「そろそろ、国王様もお年だし、我が息子を次の王位に就けたいのです」

 永淑妃が憂いの表情で一人一人を見つめれば、彼女に魅了された者、その権力に取り入りたい者は無言で頷き、永淑妃の願うことを実行するために陰謀を張り巡らせた。

 宗の城に巣くった魔物はもはや誰にも止められないほどの力を持ち、その魔力は家臣たちに浸透していった。重臣の中にも危機感を持つ者がいたが、迂闊にそれを口にすれば、何処から永淑妃の耳に入り、命を落とすかわからない。国王に進言するどころか、危機感を人に話すことさえできなかった。

 荀宇宝は利発な子であり、母親の行為に気づいていた。そして、力のない自分では母親を止めることができないのも理解しており、弟である閣信から片時も離れないようにしていた。

「閣信さえいなくなれば、安心なのですが、しかし、息子と閣信は仲が良いので、宇宝の前では……」

 永淑妃が息のかかった者たちの前で話すと、彼らは顔を見合せ、永淑妃に深々と頭を下げた。

 国王の子どもは、もはや二人しかいない。順当なら兄である荀宇宝が国王の後継者に指名されるのが当たり前なのだが、永淑妃は徹底的に憂いの芽を摘もうとしていた。

 周囲に漂う異様な空気を感じとって荀宇宝は弟である閣信のそばを離れなかった。

 そんなとき、国王は病に倒れ、伏した床の中から荀宇宝を後継者に指名し、あっけなく世を去った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ