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紫羅義  作者: 海道 睦月
48/125

その48

 今までうっ積していたもの、耐えていたもの、そして自分の心に忠実に生きていけるのだという喜び、それらが一度に溢れ出し、史瑛夏の目からは、とめどもなく涙がこぼれ落ちた。

 後ろにいた部下たちも声を押し殺しながら体を震わせ、その場にいた文官、武官たちも袖で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

 誰もが皆、史瑛夏の気持ちを知り、心を痛めていたのだった。

 一緒に行く者を集い、準備し、慌ただしく城から出てきた。戦うためではなく、志を同じくする者と、長い道のりを共にすべく出てきたのだ。そして紫羅義の軍と相対した。その数は四千数百であり、紫羅義の軍はその数を八千に増やし唯国を後にした。

 数が多くなれば進軍の速度も遅くなる、途中、大富豪である伯淳桂や洸伯昌の縁の者の屋敷に立ち寄り、物資や食料の補給をしながら東へ東へと進んだ。

 その間に簾国や唯国で起こった出来事は全て朝廷に報告が入っており、蘆震石の大軍が消失したことも、劉賢誠や史瑛夏が紫羅義の軍勢に加わったことも逐一報告されていた。

 どの国にも、朝廷の密偵が入り込んでいたし、それ以外にも、朝廷と裏で繋がり、国内で起こったことを報告する者がいるのだ。

 朝廷では紫羅義の軍勢よりも蘆震石の率いる十万余の軍勢の動きを気にしていた。いくつかの国に向け討伐の命令を下し、唯国にもその勅旨は届いていた。

 蘆震石軍が消滅して、一安心はしたものの、紫羅義の軍が八千ほどに増え、唯国を後にしたと聞いて、魏嵐は唯国の裏切りに怒り、近隣の国々に唯国を攻めよとの命令を出した。

「紫羅義とやらが率いる反乱軍にそろそろ朝廷の力を見せてやれ」

 魏嵐が宰相である墨幻蒋に反乱軍討伐を命じると、墨幻蒋は(きょう)の国の将軍、(しゅ)(りょう)()を出陣させるよう進言した。

「朱遼貴将軍と私は旧知の仲でございます。彼は戦いにおいてはいまひとつですが、怪しい陣を用い、敵を殲滅するのは得意です。このまま反乱軍が進めば姜の国に入り、(うん)(けい)という地を通るはずです、そこは朱遼貴将軍にとっては庭も同然、必ずや敵を虜にするはずです」

 墨幻蒋は平伏したまま答えた。

「おお、朱遼貴将軍の話は前に聞いたことがある、山と深い森のある場所に誘い込み、二度とそこから出られなくすると言っていた者だな。わしも東進するときに雲慶を通っていたなら危なかったということか。面白い、すぐに出陣せよと伝えるのじゃ、ただし、ただ迷わせて朽ち果てさせるなどつまらん、最後に外に導き出し、瀕死の状態で出てきたところを捕えよ、紫羅義はここまで連れてこい、顔を見てやる。他の者はその場で斬り捨ててもかまわん」

 魏嵐は満足そうに言った。

 姜国は小国で、擁している兵は五千ほどの弱小国であり、生き残るために、真っ先に魏嵐王朝に忠誠を誓った。

 西の諸国からの志芭の国に向かって東進するには、この姜国を通過するのが最短の道であったが、小国で兵力が少なくとも、西から敵意を持って来る者はこの国を通過することができなかった。

 姜国の手前には、高くはないが、広く連なる山々と、深い森が広がる雲慶という地があり、姜国の将軍である朱遼貴はこの山と森を熟知していた。そして、敵が来ると、いたるところに仕掛けを施し、相手を森から出られないようにしていた。

 姜国に反乱軍討伐の命が下ると、朱遼貴将軍は敵が八千余と聞いて、全軍を率い、急いで出陣した。相手が雲慶に到着する前に仕掛けを施しておかねばならないのだ。

「俺様の作った陣の中に迷い込めば二度とは出られん、最後に出口に導いてやるのは少々やっかいだがな」

 朱遼貴将軍は自信満々の表情で、副官に言った。

 朱遼貴は雲慶の地に到着すると、直ぐに新たな道を何本も作ったり、切り倒した木や大岩で道を塞いだりと、総員で森の中に二度と出られぬ異世界のような陣を作りあげ、義勇軍が最後の最後に出てくるであろう場所に布陣した。

 その数日後、紫羅義たちの義勇軍八千が雲慶の地に到着した。

 姜国にも羽宮亜の手の者は入り込んではいたのだが、彼の耳にもこの陣に関する情報は入ってきてはおらず、前方に見えている低い山々を半日ほどかけて抜ければ姜国だということ以外は何の情報もなかったのである。

「姜の国がどういう国なのか、小国という以外は何もわからない、全軍でこのまま進むより、少人数で先行し、様子を探ろう」

 紫羅義は羽宮亜と趙子雲を残し、百騎ほどを連れて山に向かった。

「なに、百騎で来るだと?」

 紫羅義たちを見張っていた者の報告を受け、朱遼貴将軍は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに声を出して笑い始めた。

「奴ら、先行して様子を探ろうというわけか、天は我らに味方したぞ、青息吐息で出てきた百騎を五千で囲むのだ、こりゃ、まさしく赤子の手をひねるより簡単ぞ、わっはっは」

 朱遼貴の笑い声につられて部下たちも大声で笑った。

 その頃、紫羅義は神羅威、叙崇国たちを伴い、両側に山が迫る道を進んでいた。山と林を縫うように走っている道は広く、比較的平坦であった。しかし、この道こそが、朱遼貴将軍が作った、誰もが安心して入り込み、そして、深みへ深みへと導かれてしまう入り口だったのである。

 通常ならゆっくり進んでも半日もあれば森林地帯を抜けられる。だが、朱遼貴将軍が陣として作り変えた今、出口はなく、同じ山や森の中をぐるぐると歩き回るしかない恐ろしい道へと変貌していた。

 紫羅義たちが山道に入って半日ほど進んだとき、それぞれが得体の知れぬ違和感を感じ始めていた。誰もがそろそろ抜けてもいい頃だと思っていたが、その希望的推測に反して、道は益々深い森の中に続いていた。

「これは何か妙です、ここからは目印をつけてみましょう」

 神羅威の提案に従い、ある程度の間隔を置いて、太く大きな木に一つ、二つと傷を付けていった。日も傾きかけたとき、一本の大木を見て、一行は思わず声を上げた。その木には一つの傷が付けられていた。

「ここはさっきの場所じゃないか。途中に別れ道はなかったのに」

 神羅威は険しい顔で木に付けられた傷を見つめた。

 もう日も落ちるので、これ以上動くのは危険と判断し、一行はそこで夜を明かすことにした。

「道が駄目なら、この方向に真っ直ぐ進むしかないな」

 朝になって、紫羅義が指差したのは、道のない木々の間であった。その木々の間には太陽が東から顔を覗かせていた。

 一行はまた、目印を付けながら、林の中に分け入り、しばらく進むと道らしきものが見えたので、その道を進み、再び声を上げた。そこには傷が一つだけの大木が立っていた。しかも、運悪く、その後の空は厚い雲に覆われてしまった。

 紫羅義たちは丸三日の間、森の中を彷徨った。

 夜が訪れ、さすがに誰もが疲れはて、座り込んでいるうちに夜が明け、空が白み始めてきたとき、闇の中に白い影がふっと浮かびあがった。


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