その117
「何か思うこと、感じることはあるか?」
紫羅義が尋ねると阿美華はゆっくりと首を左右に振った。
親兄弟のことや、生い立ちのこと、旅の一座のことを聞いても阿美華は首を傾げながら横に振るばかりだった。
「でも、懐かしいような気がします」
阿美華はうつむきながら言った。
「そうか、懐かしい気がするか」
紫羅義は寂しそうに笑った。
「無理をしても仕方ないでしょう、立て続けに聞いても困惑するだけです。今日はここまでにした方がいいと思います」
神澪が言うと、紫羅義も羽玖蓮もため息混じりで頷いた。
その日の夜、阿美華を別の部屋に寝かせ、紫羅義たち三人は本堂に煎餅布団を敷き、その上に座って額を寄せ合っていた。
「史蘭が命を落としたときのことは今も忘れられない」
羽玖蓮は辛そうに肩を落とした。
「こんな日が来るとはな。しかし、ここまできたら、なにがなんでも真実を見極めなければ……史蘭を目覚めさせなければ」
紫羅義は神妙な顔で神澪と羽玖蓮を交互に見た。
「明日もこの村で調査を続け、終わり次第、高陽に向け出発しましょう。明日は史蘭、いや、阿美華のそばについていてください」
神澪が言うと、紫羅義は無言で頷いた。
深夜、阿美華の枕元に白い影が現れた。
「史蘭、史蘭」
枕元に立つ影が呼び掛けると、阿美華は呻きながら体を左右に揺すった。
「目覚めない、史蘭。あなたは唯国の大将軍である史瑛夏の娘、そして、隆斗の許婚、思い出すのです史蘭」
閉じられた瞼の中で史蘭の目の玉は上下左右に激しく動き回った。
何度も呼ばれ阿美華は飛び起きた。
「翅苑!」
暗い部屋の中を見回しながら阿美華は呟いた。そして、振り向き、自分の後ろに立っている白い影を見上げた。
「目覚めましたか、私が誰だかわかりますか?」
「……翅苑」
白い影の問い掛けに阿美華は今にも泣き出しそうな声で答えた。
「では、あなたは誰? 本堂に寝ている者は誰です?」
翅苑に尋ねられ阿美華は放心したように立ち上がった。
「隆斗様」
阿美華は振り返り部屋と廊下を仕切る障子を見つめた。
「行きなさい史蘭、あなたは生まれ変わったのです」
翅苑が言うと阿美華は走りだし、障子を開けて廊下に飛び出した。
紫羅義が目を開けて剣に手を伸ばすと神澪と羽玖蓮も剣に手を伸ばし、三人は同時に起き上がった。
「誰だ! 誰が走ってくるんだ?」
三人が剣を手に廊下の方をみると、障子が勢いよくスパーンと開けられて一つの影が現れた。
「隆斗様!」
影が叫び、その声に紫羅義が反応した。
「阿美華か? どうしたんだ?」
紫羅義が言い終わる前に阿美華は走りだした。そして、紫羅義に飛びつき、両腕を紫羅義の首に回し、両脚を胴に巻き付かせて締めあげた。
「お、おい、阿美華、どした、何事だ、怖い夢でもみたのか?」
紫羅義は剣を置き、阿美華の両腕を掴んで引き離そうとした。だが、渾身の力で抱きつく阿美華はビクともしなかった。
「今、隆斗様と言いましたね」
神澪は目を細めて紫羅義に抱きつく阿美華を見た。
「確かに。ここでは誰一人、隆斗という名を呼んではいない。この娘がその名を知るわけはない」
羽玖蓮も紫羅義に抱きついたままの阿美華を見据えた。
「史蘭なのか?」
紫羅義が耳元で言うと、阿美華の腕の力が少し緩んだ。
「辛かった、胸の痛みより、命が尽きるより、あなたと別れることが辛かったのです。隆斗様」
抱きついたままそう言うと、阿美華は再び両腕に力を込めた。
「そうか……お帰り、史蘭」
紫羅義が背に手を回わすと阿美華は腕の力を抜き、顔を離して紫羅義を見つめ、神澪と羽玖蓮は顔を見合わせて何度も頷いた。
「来世ではないけど、また巡り会うことができました。翅苑のお陰です」
そう言って紫羅義を見つめた女は阿美華ではなく史蘭だった。
「ありがとう翅苑。父と私、親子二代に渡って君に救われたようだ」
「俺が捕らわれときも、君が力を貸してくれたんだな」
紫羅義と羽玖蓮は申し訳なさそうな声でそう言いながら部屋の中を見回した。
「ご武運を」
闇の中からか細い女の声が部屋の中に響いた。
「邦信村の小屋で火を放たれたときも翅苑が教えてくれたのです」
史蘭は一点を見つめながら言った。
「そうか、あのとき小屋に近づく者たちを敵だと言ったのはそういうわけがあったのか」
紫羅義は遠くを見つめるような目をしながら呟いた。
「今日はもう眠れそうもないな」
羽玖蓮が言うと、皆は笑いながら頷き、それから四人は夜が明けるまで語り合った。
朝、仕事を始める前に紫羅義は史蘭を皆に紹介した。
「これが、史瑛夏将軍の娘か」
馬元譚が槍や剣を品定めするかのような顔つきで史蘭を舐め回すように見ると、他の兵たちも顔を突き出し、不思議そうな顔をして史蘭を見据えた。
「馬元譚将軍や、皆さんの勇猛ぶりは父から聞いています。この大陸で最強の者たちだと言っていたことがあります」
史蘭が言うと馬元譚も兵たちも照れたような顔で目をキョロキョロと動かした。
「ああ、うん、そうか、史瑛夏将軍がそんなことを。まあ、国に帰ったときには宜しく伝えてくれ」
いつもと勝手が違う相手に馬元譚も困ったような表情を浮かべた。
「将軍、史蘭を唯国に送りたいのです。三十名ほどを史蘭の護衛として唯国に同行させたいのですが」
紫羅義の意見に馬元譚は頷いた。
「うん、せっかく現世に戻ったんだ。そりゃ、早くお父上の元に返してやらねばいかんな、わかった三十名を選別しよう。蔡文霊、頼むぞ」
馬元譚は史蘭を護衛する兵の選別を蔡文霊に命じた。
「私も一緒に行きます」
史蘭が小さい声で呟いた。
「え、なんだって?」
周囲の者は史蘭に注目した。
「史蘭……この先は」
「嫌です! 私も一緒に行きます。もう離れるのは嫌です! 絶対に嫌です!」
紫羅義の言葉を遮り、史蘭は喰いつかんばかりに吠えた。
「宣国の全軍はここより東に位置する義諒に向かっている。しかし、宣国には得体の知れない五百ほどの軍勢がいるとの情報が入ってきている。おそらくその軍勢と正面から戦うことになるだろう。危険なんだ、史蘭」
紫羅義は諭すように史蘭に話した。
「私も一緒に戦います」
史蘭はさらに一歩前に出た。
「う~ん」
紫羅義は神澪と羽玖蓮の顔を見た。
史蘭の性格を知っている二人は項垂れながら首を左右に振った。
「思い出すなぁ」
馬元譚は懐かしそうな顔で史蘭を見た。
「思い出す?」
史蘭も紫羅義も怪訝そうな顔で馬元譚を見た。
「お父上と波流伽皇后様のことさ。聞いたことはないか? 二人が出会った頃、皇后様は、隆徹様が命を落とすようなことがあれば、自分もその場で自害すると言ったんだ。皇后様の父上である波邪斗殿はそれを承知の上で娘を隆徹様と一緒にさせた。そして、もし、娘が戦いの中で命を落とすことがあっても、お前は進まねばならぬ、そこで止まることは義勇軍の頭目としても、那岐一族の次の長としても許されぬ。どんなことがあっても生き抜いて目的を達成せよ、娘のためにも生き抜いてくれと、婚礼の席で波邪斗殿は隆徹様にそう言ったそうだ。この娘もそのときの皇后様と同じ覚悟を持っているのではないのか?」
馬元譚が言うと、兵たちは皆、目を輝かせながら頷いた。




