その113
「戦う気はないようですね。あれだけの人数が闘気と殺気を放っていれば周囲の獣や鳥たちがもっと騒ぐはずです」
神澪は周辺の意志を感じ取るように見回しながら、冷静な口調で紫羅義に向かって話し掛けた。
「全員、剣から手を離せ」
紫羅義が振り返って大声で叫ぶと、剣の柄を握っていた兵たちは手を離した。だが、その拳は何かを掴むように強く握られていた。
広がりながら草地を覆っていく軍勢がたなびかせている旗には「王」の文字が見え隠れしていた。
「王琥来か、このようなところにいるとは思わなかったぞ」
紫羅義の後ろで馬元譚が声を荒げた。
「王琥来将軍か、面識はないが、彼は軍の中枢を担う位置にいると聞いたことがある。それがなぜ国境付近に。叔父貴は会ったことがあるのか?」
紫羅義は背筋を伸ばし、迫ってくる軍勢を見てから、振り返って馬元譚の顔を見た。
「何度か会っています。崇命秦国王が我が国を訪問するとき、奴が護衛として付いてきていましたから」
馬元譚は近づく千騎ほどの軍勢と、その軍勢を率いている人物を見透かすように見た。
王琥来に率いられた宣国の軍勢は紫羅義たちの前に軍を展開させた。河川敷と草地の境は段差があり、宣国の軍勢は紫羅義たちを見下ろしながら、その前に壁のように立ちふさがった。
王琥来は軍勢から飛び出ている紫羅義たちに気がつき、ゆっくりと近づいた。そして、馬元譚に気がつき大声を出した。
「馬元譚将軍、なぜここに?」
「久しぶりですな、王琥来将軍。我らもあなたと同じように国境付近の巡回をしていたのです」
「巡回……ですか?」
王琥来は怪訝そうな顔で馬元譚を見てから紫羅義見た。そして、目を見開き息を呑んだ。
「あ、あなたはもしかして」
「紫羅義と言います」
紫羅義は王琥来の言葉を遮った。
「紫羅義? では、やはり……」
王琥来は絶句した。
「王琥来将軍、私が出てきたということが何を意味するかわかりますか?」
紫羅義は王琥来の目を見据えた。
王琥来は無言のまま紫羅義を見ていたが、その後ろに並ぶ兵たちを見回し、深く息を吸うと目を伏せてその息をゆっくりと吐き出した。
「今、我が国は国家存亡に関わる事態に直面しております。我らが国境周辺を警備していたのも、その事態に関連すること。軍事行動中故、馬を降りて挨拶せぬこと、ご容赦願いたい」
王琥来は馬の手綱を両手で持ったまま、胸を張って、頭を少し前に傾けた。
「軍事行動と申されましたか?」
紫羅義は表情のない顔で王琥来を見据えた。
「はい、申しました」
「何処に向けての軍事行動です?」
「今は、申しあげられません」
紫羅義と王琥来は睨み合った。
王琥来の隣にいた若い副官がゆっくりと剣に手を掛けると、後ろに並ぶ兵たちも剣に手を掛けた。だが、紫羅義軍の兵たちは剣に手を掛けるようなことはしなかった。彼らは一切喋ることはなく、無言で目の前の軍勢を食い入るように見ていた。
「あなた方はまだ我が国には立ち入ってはいない」
王琥来は隣の副官が掴む剣の柄を横目で見下ろしながら、そんな言葉を吐き出した。
「あなた方の国境付近警備は、我らが関知するべきことではありません。国王の承認なしに軍をこのまま進めれば侵入と見なし、我らはそれを阻止しなければなりませんが、河川敷内を進んで行くのなら我らにはなんの関係もないことです」
王琥来は意味深な言い方をした。
「そうですか。将軍、あなたは義の人だと聞いています。しかし、今は義よりも忠義に従うしかないのでしょう。心中お察し申しあげます。では、我らはこれにて」
紫羅義は軽く頭をさげ、振り返って自軍の兵たちに下流へ向かうよう命じた。
下流に向かって進む兵たちの背中を王琥来は目を細めて凝視していた。
「行かせてしまってよいのですか」
隣から副官が声を掛けた。
「どうすればよかったのだ?」
王琥来は離れてゆく紫羅義たちを見ながら答えた。
「朝廷軍は今は我らの敵です。このまま行かせてしまえば、将軍は反逆罪で処罰されるかもしれません」
「処罰か。以前の崇命秦国王ならそんな愚かなことはしなかったぞ」
王琥来は寂そうな顔で若い副官を見た。
「国王様が変わってしまわれたのは私も知っています。しかし、国王は国王です。我らは従うしかありません」
「そうだな、お前の言っていることは理解できる。だが、俺は国王を元に戻したいのだ。国王は操られているとしか思えない。このまま朝廷と戦えば、どうなるか、よく考えてみろ。たとえ勝ったとしても国は疲弊し、さらに、内部に悪が蔓延り、その連中のために国力は低下する。それで、国王は皇帝になるのか? 立ち上がったばかりで、さらに、力の衰えがみえれば、そんな朝廷など瞬く間に滅ぼされる。宣国は間違いなく消滅するだろう」
王琥来が言うと副官はため息をつきながら下を向いた。そんな二人のやり取りを後ろに並ぶ兵たちは複雑な表情で見ていた。
「それだけじゃない。ここで戦っていたならば我らは全滅だったろう」
王琥来の言葉に副官は驚いたように顔をあげた。
「全滅? 相手は五百ほどでした。こちらは千もいるのに、全滅とは?」
副官は理解できないとばかりに王琥来の顔を見てから振り返り、後ろの兵たちの顔を見回した。後ろに並ぶ者たちも皆、納得できないとばかりに首を左右に振った。
「お前たちはまだ若い。それに、実践経験が乏しい者ばかりだ。わからないのも無理はない。前面にいた者たちの強さはさすがにわかった思うが後ろにいた者たちはどうだ、どう思った?」
「おっさんの集団のように思いましたが……前面にいた四騎に気をとられ、あまり見ていませんでした」
副官は歯切れ悪く答えた。
王琥来は副官を見ながら大きなため息をついた。
「感じなかったのか、彼らの波動を。内から出て集まり弾け、渦を巻くように我らを包み込んだ闘気を。俺は押し潰されそうだったぞ」
王琥来は体を怒らせるようにしながら副官を見て、そして、後ろの兵たちを見回した。
「そこまでの闘気を。申し訳ありません気がつきませんでした」
まだ若い副官は手綱を両手で強く握り締めながら項垂れた。
「あのような連中は俺も初めてだ。あの年齢、あの気迫、もしかして、前皇帝とともに魏嵐と戦った者たちかもしれぬ。もし乱戦になれば彼らは命を惜しまず前に進み出て、一人で二人、三人の命を確実に奪うだろう。今の我らの軍勢ではとても太刀打ちなどできぬ」
王琥来は首を大きく左右に振った。
「彼が国王の心を元に戻してくれるかもしれん、あの紫羅義殿が。そんな気がする」
王琥来は遠くに離れて行く五百の軍勢を瞬きもせずに見ていた。
隠密行動をとっていた紫羅義たちが王琥来の軍と遭遇したとき、朝廷の正規軍二十万は朱浬の都を出発するところだった。
本隊を率いる筆頭の将軍は周英傑といい、まだ若いが頭の切れる人物であった。本隊は愁葉よりもずっと東にある義諒に向かい、寿洲という村に集められているという大量の物資と食料を抑え、さらに、宣国軍を打ち破るべく進軍を開始した。
王琥来は迷っていた。




