その107
不死である彼は恐怖も感じなければ、斬られることに対しての恐れという感情もない。久々の戦いに血をたぎらせ、全身に返り血を浴びながら笑っている姿は、狂喜乱舞する赤い魔物と呼ぶに相応しい姿であった。
惨霧の意識は太古の時代に逆行し、もはや彼の中には皇帝も戦いの駆け引きもなかった。大地を風のように走り、馬上の敵に飛び掛かっては喉を食い破り、血を浴びて狂喜し、さらに相手を求め、目を血走らせた。
そんな惨霧を紫羅義たちは二百の兵を率いながら捜していた。そして、赤い魔物と呼ぶに相応しい姿となった惨霧を見つけた。
神澪が率いる二百の兵は敵を倒しながら彼を囲み、紫羅義と羽玖蓮は馬から降り魔物に向かって行った。
周辺に人の壁ができるとさすがに惨霧も自分を取り戻し、肩で息をしながら紫羅義たち一人一人を不機嫌そうな表情で順に見回した。
「貴様たちはあのときの小僧か、ここに居ようとはな」
惨霧は紫羅義と羽玖蓮、そして彼らが持つそれぞれの剣を睨み付けた。
紫羅義と羽玖蓮は惨霧に向け剣を構え、羽皇雅は惨霧の側面に回り、その手には老人から受け取った鈍く銀色に光る玉が握られていた。
風狼天翔と雲竜天舞の剣、二本の剣と羽皇雅の持つ玉はお互いを求めるように共鳴し合い、惨霧は険しい顔で三人を見ていた。
惨霧が目の前の二人に攻撃を仕掛けようと身構え、走ろうとした一瞬を側面にいた羽皇雅は見逃さず、彼の裂指鋼牙は惨霧のこめかみに向け放たれた。
銀色に輝く鋼の玉が撃ち込まれた惨霧のこめかみに孔が空き、惨霧は呻きながらこめかみを手で押さえ、その手を離したとき、何かに押し出されるように赤黒い血が噴き出した。
「小僧! 何を撃ち込みやがった?」
惨霧は険しい顔で羽皇雅を睨みつけた。
紫羅義は惨霧が横を向いたその隙を突いて一気に間合いを詰め、首めがけて右上段から剣を振り下ろしたが、剣は首に当たったと同時に掴まれてしまい、身動きができない状態となってしまった。
渾身の力で上段から振り下ろす紫羅義の剣技をもってしても惨霧の首を落とすことはできなかった。
気を集中し、剣に森羅万象の息吹きを集めれば、とてつもない力を集めることも可能であったが、惨霧相手では気を集中している一瞬の隙に致命的打撃を受けることは目にみえていた。
「残念だったな、この服は俺の首を守ってくれる。そして首に気を集中させれば、お前らの剣でも俺の首を斬るのは無理なことだ。以前は不覚をとったが、今度は油断しねえぜ」
険しい顔をしていた惨霧はまた笑いだした。
彼の右手に力が込められ、血で染まった鋼のような五本の長い爪が紫羅義に向けられたとき、羽玖蓮が飛び込み、剣を上段から振り下ろした。惨霧はその剣を肘で受け、外に向け、払うようにしながら羽玖蓮の剣をも掴んでしまった。
「はっはっは、お前ら能がねえなあ、この程度の力で俺が倒せると思ったのか、さあどうする、俺の蹴りはお前らの首など一撃でへし折るぞ」
惨霧は愉快でたまらんという物言いで、蹴りを出すために右足を後ろに半歩引いた。
油断しないと言いながら、自分に絶対の自信を持つ惨霧の気は既に緩んでいた。その油断を羽皇雅が見逃すはずはなかった。気を集中し、彼の手から放たれた銀の鋼は再び惨霧のこめかみに撃ち込まれた。
惨霧は悲鳴をあげ剣を離し、両手で頭を押さえ、彼のこめかみに空いた孔から赤黒い陽炎のようなものが渦巻くように噴出した。
その途端、紫羅義と羽玖蓮の持つ風狼天翔と雲竜天舞の剣、そして、惨霧の頭の中にある玉は激しく共鳴し合い、惨霧は頭を抱えながらよろめき、紫羅義は渾身の力を込め惨霧の胸に剣を突き刺した。
羽玖蓮は剣を持ち替えると飛び上がり、これもまた渾身の力で剣を惨霧の肩から一気に押し込み、惨霧の体内で二本の剣は交差し、「ガキッ」と音をたてた。
「ぎゃあああ!」
惨霧は目を見開き、牙を剥き出して叫び、二人の腕を掴んだが、そのまま時が止まったかのように動かなくなり、そのまま沈むように崩れていった。
「羽玖蓮、まだ手を離すなよ!」
紫羅義は剣をさらに押し込み大地まで貫いた。
惨霧と渾身の力を込めて剣を持ったまま離さない二人、そして、それを傍らで警戒しながら見据えている羽皇雅、その周囲を史瑛夏の兵が遠巻きに囲んで見ていた。
周辺の瑞国軍は殆ど倒され、まばらな戦いの中で、四人を囲む円はまるで闘技場のようであった。
その円を小高い丘の上から見つめる者がいた。神澪が違和感を感じ、遠くの丘に目をやると、林の前に一人の女が立っていた。
「何者だろう?」
神澪はその女から感じる違和感と不思議な存在感に首を傾げた。
「おお!」
兵たちの間からどよめきが起こった。
惨霧の体は黒くなり、得体の知れない醜い獣のような姿に変わり始めていた。いつも冷静な神澪もさすがにその姿に驚き、目が釘付けとなった。
我に返って、丘を見ると、女の姿はもうそこにはなかった。
「惨霧に関係のある女なのか……」
神澪は丘の上を見回した。
その女こそ、惨霧が自分の妃にすると巴錘碧に宣言した女だった。
その女が立っていた丘の続きに、劉比青の率いる五百余の桂国軍が突撃体勢のまま戦いの行方を凝視していた。
「我らが討つのは国王である蘆錘苑だ。皆の者、命を賭けよ、奴を撃ち取るのだ、必ずその機会は訪れる」
蘆錘苑と巴錘碧は最後部で千騎の瑞国の兵に守られており、劉比青はその一団をずっと見つめていた。
その頃、惨霧の体はボロボロと崩れ始めていた。
紫羅義と羽玖蓮が剣を抜き、その場にへたり込むと、周囲の兵から歓声があがった。
「終わったのか、これで」
「ああ、そう願いたいな」
紫羅義と羽玖蓮はお互いに顔を見合わせて大きくため息をつき肩を落とした。
羽皇雅は土くれに戻った惨霧の体に手を突っ込み、打ち込んだ玉を回収した。
「この玉の中にはお前の執念をも凌駕するほどの怨念が込められていたようだな」
羽皇雅は冷めた目で惨霧の亡骸を見下ろした。
惨霧の体が土くれに戻った頃、両軍の動きが慌しく変化し始めていた。連合軍が総崩れとなり、それを唯国軍が追い始めていたのだ。
「将軍、敵が引き始めました!」
全体の動きを把握するために、両軍をつぶさに観察していた部下が劉比青に告げた。
前方の瑞国の兵はほぼ壊滅し、北方の兵たちは史瑛夏の軍に恐れをなし、退却を始めたのだ。彼らは潮が引くように一団となって、自分たちの国に向かって走り始めていた。
その軍を追って唯の軍勢も移動を開始した。
「国王様、大突狄の軍が敗走を始めたようです、我らは城に引き返しましょう、城に戻り籠城するより他ありません」
巴錘碧は茫然としている蘆錘苑に進言した。
前方で国王を守っていた千騎の兵も慌てだし、統制のとれる状態ではなくなっていた。
劉比青はその様子を見て全軍に突撃命令を出し、彼の率いる五百余の軍は蘆錘苑国王に向かって一直線に駆けて行った。
馬頭を返し、城に逃げ戻ろうとしていた巴錘碧たちの後ろから叫び声が聞こえた。
「伏兵だ! 真っ直ぐこちらに向かってくるぞ」
兵たちは大混乱に陥った。
「まさか、伏兵だと? この機をずっと待っていたのか」
巴錘碧も慌てた。
この状況で伏兵などとはまったく予期してはいなかったのだ。
劉比青の軍勢を瑞の兵が遮ったが、彼らの大半は迫る唯の軍が気になって逃げ腰であるのに対し、桂の軍は全てをこの戦いに賭けようと命懸けで突っ込んで来ており、とても防げるものではなかった。
五百騎の中から劉比青が率いる百騎が飛び出し、逃げ出した蘆錘苑国王やそばにいた側近たちは斬られた。巴錘碧も斬られ、謀反を企てた瑞国の軍勢はここに崩壊した。
唯の軍勢もそこに到着し、史瑛夏が姿を現すと、劉比青は馬から降り、挨拶をして、今までの経緯を話した。
「おお、そうでしたか、あなたがここで蘆錘苑を斬ったお陰で、奴らが城に籠城するのを防ぐことができました。もし籠城されたら、こちらにどれほどの被害が出ていたか」
史瑛夏は劉比青の手をとり彼の功績を称えた。
紫羅義たちもその場に到着し、事の成り行きを聞いた。
「劉比青将軍、見事に反乱の首謀者を討ちましたね。我らも惨霧を討ち果たし、悪鬼を土に帰しました」
「おお! ついにあの魔物を討ちましたか」
紫羅義と劉比青は手を取り合って、お互いを称え合った。
唯の軍勢はそのまま瑞の城を囲み、中に残っていた者たちは国王が撃たれ、軍が崩壊したことを聞くとすぐに城門を開き服従の意を示した。
紫羅義は国王を支持していた親類縁者と重臣たちを幽閉し、反国王派であった者たちを要職につけるとともに、反乱に最後まで反対していたという国王の三男を朝廷の名において新国王に任命した。そして、史瑛夏とともに数日の間、城に留まり様子をみていた。
「隆斗様、もう大丈夫でしょう。我らとともに帰りましょう、途中、唯の国にお立ち寄りください」
史瑛夏は一緒に東に帰ろうと誘ったが、紫羅義は、祖母の墓と、世話になった先生に報告と別れの挨拶をしてゆきたいと史瑛夏の申し出を丁重に断った。
「無理もないか、わしと一緒では辛いのであろう」
史瑛夏は紫羅義たちに別れの挨拶をし、唯国の軍勢は東へと帰って行った。
紫羅義たちは李志村に立ち寄り、長の家へ行って今までの成り行きを報告した。姚秀麗は相変わらず神澪のそばに嬉しそうな顔で座っていた。
「緋備輝さんと史蘭のお姉さんは?」
姚秀麗は無邪気な顔をして、皆を見回しながら聞いた。
「ああ、うん、二人は用事があって先に自分の家に帰ったんだ」
紫羅義は本当のことが言えず、姚秀麗の顔を見ることもできなかった。
帰るとき、姚秀麗はまた千切れるほど手を振って皆を見送った。
それから祖母の墓に詣で、挨拶と報告を済ませ、伯柳禅先生の家に向かった。
今までの経過を全て話すと、先生は涙を流しながら話を聞き、紫羅義たちを労うために塾生を呼び宴会を開くと言い出した。その夜は大宴会となり、皆、久々に大酒を喰らい楽しい時を過ごすことができた。
紫羅義たち四人は翌朝早く先生の家を後にした。
「羽皇雅、君はどうする?」
「俺か、俺は仏像を親父の墓に供えてやらなければならんからな、家に戻るさ。お前たちに会えてよかった、達者でな兄弟」
羽皇雅は馬を南に向け、去って行った。
「朱浬の都を出たときと同じ、三人になってしまったな」
羽玖蓮は寂しそうに笑った。
「ああ、そうだな」
「そうですね」
紫羅義と神澪も寂しげに頷いた。
命がけの戦いを終えた三人の若者は朱浬の都を目指し、大地から昇ったばかりの太陽に吸い込まれるように消えていった。




