その103
「史蘭、俺は足に怪我を負い思うように走れない。一人で秀白まで走り、全力で逃げろ。奴らは俺が足止めして時間を稼ぐ」
「あなたを置いてなどいけません」
史蘭は聞く耳持たんという態度だった。
「史蘭、逃げてくれ。俺のために君が命を落としたら、俺は紫羅義に顔向けできん、頼む」
羽玖蓮が後方に迫る騎馬隊と、史蘭の顔を交互に見ながら懇願すると史蘭は足を止めた。「覚悟を決めましょう」
羽玖蓮が史蘭の言葉に前を見ると、秀白の後を追うように、五百騎はいるであろう軍勢が近づいていた。
「奴らの本隊か。流石にこれは無理か。すまん、史蘭」
羽玖蓮は覚悟を決めたように言った。
「……巴錘碧とやらはどっちにいるんだ? 本隊か分隊か。どうせならそいつを道連れにしてやる。史蘭、許してくれ。詫びはあの世で十分にする」
羽玖蓮は前方と後方を交互に見て、それらしい人物がいるかどうか見極めようとして、いたが、後方の部隊を見たときに異変に気がついた。
後方から近づいてきた五、六十騎が止まり、慌てたように馬を返して逃げ出したのだ。
「あの旗は!」
史蘭が叫んだ。
前からくる五百騎ほどの軍勢の旗に『桂』『劉』という文字が見えた。
「助かった!」
羽玖蓮も史蘭もその場にへたり込んだ。
劉比青のほうでも二人を見つけた。
「おっ? あれは羽玖蓮殿と史蘭殿ではないのか?」
劉比青は馬から降りて二人に駆け寄った。
「すまない。私の早とちりであなた方を残し、城に戻ってしまった」
劉比青のお詫びの言葉を聞いて、羽玖蓮も史蘭も、いやいや、そんなことはありませぬと、首を精一杯左右に振った。
羽玖蓮は紫羅義たちと戦い中ではぐれたこと、惨霧軍が瑞国を取り込もうと侵攻を開始したことなどを劉比青に説明し、史蘭は自分の父が神澪とともに一万の軍勢を率いこちらに進軍してくることを話した。
「ちょっとお待ち下さい! 今、父と言いましたか? 史瑛夏将軍が父と?」
劉比青も周りにいる彼の部下も目を丸くした。
「はい、私は史瑛夏将軍の娘です。本来ならば桂国に使者を送り、了解を得るところなのですが、時間がありませんでした。朝廷には隆斗様より預かった手紙を、我が国の使者が早馬により届ける手筈になっております」
史蘭は桂国を蔑ろにしてしまって申し訳ないとばかりに頭を下げた。
「いやいやとんでもない、天下にその名が響く史瑛夏将軍が出てきてくれるならこんな心強いことはありません。我が国の国王も喜ぶでしょう。朝廷へもどう報告しようかと国王も悩んでいたところです。ところで……今、隆斗様と言いましたか! 隆斗様と?」
「はい、言いました」
そう答えて、史蘭は負け犬のような目で劉比青を見上げた。
「ああ、言ってしまった。隆斗という名前を出してしまった」
史蘭は後悔したが、ここまできたらもう全てを話すしかないと、自分を納得させた。
劉比青はしばし首を右に左に傾けながら考え込んでいた。
「史蘭殿、もし間違っていたら言ってほしい。紫羅義という名、昔、ある人間が名乗ったと聞いたことがある。そこから推測するに、紫羅義殿とは、現皇帝の兄上の隆斗様ということですかな?」
劉比青は史蘭の顔を食い入るように見つめ、羽玖蓮も横目で彼女の顔を見ていた。
史蘭は羽玖蓮の顔を見返すと、モジモジと落ち着かない様子で話し出した。
「間違ってはいません。その隆斗様です。そして、ここにいる羽玖蓮殿は志芭王朝の現宰相、羽宮亜様のご子息、そして、神澪殿は、現国防大臣である神羅威様のご子息です」
史蘭の言葉に劉比青は呆然として空を見上げ、兵たちはざわめいた。
「そ、そういう方たちだったのか、どうりで。知らぬとはいえ、俺は皇帝の兄上を惨霧軍との戦いで先頭に立たせてしまった。これは打ち首もんだ」
劉比青は放心状態だった。そして、我に返ると同時に振り向き、怒鳴った。
「捜せ! 今すぐだ! 紫羅義殿の顔を知っている者を先頭にし、すぐに行け!」
劉比青の命令に部下たちは大慌てで隊を組みなおして散っていった。
ここで、皇帝の兄に何かあれば桂国は間違いなく責を問われ崩壊する。劉比青が慌てるのも無理のないことであった。
「史蘭、話しておくことがある」
羽玖蓮は下を向いたまま史蘭の名を呼んだ。
いつもふざけた態度をする羽玖蓮の沈み込んだ横顔を見て、史蘭は彼が何を言おうとしているのかを察した。
「さっき、三人で戦っているときにはぐれたと言いましたね。緋備輝はどこですか?」
史蘭に問われ、羽玖蓮は荒れ寺で起こった戦いのことを話した。
「そうですか……緋備輝」
史蘭はガックリと肩を落とし、下を向いて目を閉じた。
暫くすると、喚声があがり、紫羅義と羽皇雅、そして彼らを捜しに行った部隊が戻ってきた。
劉比青は駆け寄り、膝をついて紫羅義に詫びた。
「知らぬこととはいえ、皇帝の兄上に対してご無礼の数々、どうかお許し下さい」
紫羅義は馬を降り、劉比青の両肩を掴んだ。
「劉比青将軍、あなたは私に詫びることなど何ひとつしてはいない。あなたが立派な将軍であることは十分承知しています、詫びることなどありません」
紫羅義はそう言って劉比青を励ましてから羽玖蓮を睨んだ。
「俺の正体を話したのか?」
紫羅義は羽玖蓮の方を向き、彼の横にいる史蘭を見て仰天した。
紫羅義たちを捜し出した兵は「お仲間があちらに」としか言ってはいなかったのだ。
「やはり、史瑛夏殿でも抑えるのは無理であったか」
紫羅義は呟きながら二人に向かって歩き、もう何も言わずに史蘭を迎え入れることを決めた。
「史蘭、役目は果たしてきたか?」
「はい」
紫羅義の問いに史蘭は嬉しそうに答えた。
「そうか」
紫羅義は苦笑いしながら史蘭の肩を掴んで揺すった。
四人と劉比青の軍勢はここでまた一つになり、これからのことを話し合いながら瑞国の城を目指し、ついに城の姿を遠くに確認できるところまで近づいた。
「惨霧はすでにあの城の中に入り込んだでしょう。我らは史瑛夏将軍率いる唯国軍に向かい、持っている全ての情報を伝え、神澪を交えて策を練るつもりです。劉比青将軍はどうされますか?」
紫羅義が尋ねると、劉比青は遠くに見える城を睨みながら言った。
「我らの軍はここであの城を見張はり、唯の軍勢が近づいたならば合流します。奴らは何をするかわからない。見張りは必要でしょう」
「わかりました。では後日」
紫羅義と劉比青はお互いに礼をして、紫羅義たち四人は唯の軍勢に向かって駆け出した。
紫羅義の予測した通り、惨霧軍は城の中に入り、すでに巴錘碧と国王である蘆鐘苑は協定を結び終わっていた。
蘆鐘苑は惨霧の軍を単なる協力者だと思い城内に迎え入れたが、城内に入るや惨霧は例によって圧倒的な力を見せつけ、国王も兵たちも驚き、声も出せなくなった。
力を誇示し、優位に立ったところで巴錘碧は蘆鐘苑の説得にかかった。
「国王様、朝廷の軍六十万を撃ち破って覇を唱えようとするならば、どうしても必要なものが四つあります。類を見ないような圧倒的な力、誰もが魅了される持って生まれた人を惹きつける力、この世の常を全て覆すような才能、百万の軍勢を縦横無尽に操る能力、この四つです。これらの力を最低二つは持っていなければ話になりません。これらが一つも備わっていないのなら、いくら兵を集めようとも想いが成就されることはないでしょう。国王様はどれをお持ちなのですか?」
巴錘碧の言葉に、蘆鐘苑は唸りながら顔をしかめた。
瑞国には呉謙襄という元老がいて、謀叛などとんでもないことだと蘆鐘苑を諫めており、その呉謙襄からも同じようなことを言われていた。反目する重臣から言われても反発するだけだったが、同じ野心を持つ者から言われると、蘆鐘苑も返す言葉がなかった。
呉謙襄は国王の取り巻きに罪を捏造され、蘆鐘苑から国外追放と獄中に落とされるのとどちらかを選べと迫られ、このままでは命さえ危なくなると思い、一族を率いて他国へ流れて行く途中に病死してしまった。
国王を抑える者は誰もいなくなり、蘆鐘苑は志芭への侵攻を決めたが、野心に燃える蘆鐘苑の目は曇り、数万の兵で進軍すれば、人がその旗の元に集まってくるだろうくらいにしか考えてはいなかった。
「我らが陛下と仰ぐ惨霧様の力はいかがでしたか? 圧倒的な力を持つ陛下が志芭に向かって侵攻すれば、おそらく百万の兵が集まるでしょう」
巴錘碧は蘆鐘苑の顔を覗き込んだ。
北方騎馬民族に援軍を送らせる約束を取りつけたものの、本音を吐けば、蘆鐘苑も心の奥底には不安があった。そこへ目を疑うほど強烈な力を持った惨霧と、溢れんばかりの自信を持ったいかにも策士といった巴錘碧が現れたのだ。
蘆鐘苑は巴錘碧の話に引き込まれていった。
「国王様、お人払いを」
巴錘碧は二人だけで話がしたいと言った。
「惨霧皇帝は玉座に興味などありません。皇帝としての住まいを与え、好きなようにしてもらいましょう。あなたが宰相、私が相談役、実権を握り、天下に号令するのはあなたです。まずいことが起これば皇帝のせいにすればよいのです」
巴錘碧は膝を寄せて蘆鐘苑に夢物語を話して聞かせた。
蘆鐘苑は話を聞いて有頂天になったが、事が成就すれば巴錘碧は蘆鐘苑を殺してしまおうと考えていた。
「そうだな、皇帝にならなくても、同じ権力を行使できるならそれで十分だ」
蘆鐘苑は満足そうに頷いた。
惨霧軍と瑞国の協定は成立した。
「準備は既に整っている。北方の騎馬隊が到着次第、直ちに出陣しよう」
蘆鐘苑は俺の覚悟を見ろ、と言わんばかりに拳を前に突きだした。
「我が軍も準備を整え、いつでも出られるようにしておきます。では、これにて」
巴錘碧は蘆鐘苑に挨拶をして退出した。
巴錘碧は協定が上手くいったことを惨霧に報告した後、夏遼甫たちと以降の作戦について話し合っていた。そこに物見に出ていた者から東に向かう四騎を見たとの報告が入った。
「東だと? 桂国軍と合流するつもりか、それにしては方向が違いすぎる」
巴錘碧も蘆鐘苑もまだ東から近づきつつある史瑛夏の軍勢に気がついてはいなかった。
「奴らはここで始末しておかなければならん」
巴錘碧は今が復讐する最後の機会と思い、確実な方法はないかと考えていた。
「女が一人いたと言っていたか?」




