その101
紫羅義たちの後ろに立っていた羽皇雅が、裂指鋼牙を打ち込んでいた。
「こいつらは生かしておけば、後々必ず我らの憂いの元となる、逃がすわけにはいかん、すまんな緋備輝、お前の勝負に水を挿してしまって」
「我らもつい飛び込んでしまった、すまん」
羽皇雅が詫びると、紫羅義と羽玖蓮も緋備輝に謝った。
「いや、こいつらは二人だったのだ。あのままだったら俺はやられていただろう。礼を言うよ」
緋備輝は自分の体の傷を見回しながら言った。
四人が林から出て寺に向かい歩き始めたとき、遠くに土煙が見えた。
「あれは? 二百以上はいるぞ。やはりあの小僧共、先に知らせていたんだ、走れ!」
羽皇雅が叫び、四人は慌てて寺に向かい、繋いである馬に飛び乗った。
巴理無からの伝令を聞いた巴錘碧は、夏遼甫、洪殻宝に、姜費興が率いてきた寧国の軍勢とともに出て敵を討てと命じていた。
紫羅義たちが寺から飛び出すと、敵の軍勢はすでに目前に迫っていた。
「いたぞ、あいつらだ、このまま追え!」
寺を囲もうと走ってきた惨霧軍は逃げる紫羅義たちを見つけ、追撃を開始した。
寺を出て少し走ると道は川にぶつかり、川と平行に走る道は狭く、緋備輝はそこで馬を降りた。彼は致命傷を受けてはいなかったが、無数に斬られており、手当てする間もなく馬に跨り駆け出したために、彼の体からは血が滴り落ちていた。
緋備輝は馬を降りると、一直線に川に向かって走り、紫羅義たち三人も馬を止めた。
「ここは俺が防ぐ、行け!」
緋備輝は川の中に入り、迫る敵軍に顔を向けたまま、三人が進むべき道の先を指さした。
「緋備輝!」
川に入った緋備輝に向かって紫羅義が叫んだ。
その声に反応するかのように川面がざわめき、一つの大きな水柱が立ち上がり、それは一匹の巨大な水龍に変わり、それに続くように次々と水柱が立ち上がった。
「俺にはこれがある、このままでは追いつかれみんなやられる。お前達がそばにいたら力を解放できない、先に行け、後から必ず行く!」
緋備輝の言葉に三人は顔を見合わせ頷いた。
「わかった、必ず後から来い」
惨霧軍に加わった姜費興の率いる軍は巨大な水龍を見て度肝を抜かれた。
「な、なんだこれは?」
一団は唖然として巨大な水の龍を見上げた。
水面で揺らいでいた龍たちは一斉に惨霧軍めがけて突っ込み、兵たちは吹き飛ばされた。
巨大な水龍の攻撃に惨霧軍は翻弄されたが、彼らは盗賊集団とは違っていた。攻撃を受けながらも状況を分析し、姜費興は軍の中にいた二十人ほどの弓隊を前面に呼んだ。
姜費興は弓隊に一斉掃射を命じた。混乱の中、弓隊は緋備輝に向けて矢を放ち、何本かが緋備輝の体を貫いた。
水龍はただの水柱に変わり、水面に落ち、緋備輝は動かなくなった。
「なんなんだ、こいつは?」
兵の一人が近づいたとき、緋備輝は瞬時に剣を抜き、その兵を斬った。同時に再び川面がざわめき、無数の円盤状の水玉が川面の上に飛び出て惨霧軍に襲い掛かった。
「何をしている、弓隊!」
姜費興が叫ぶと、何本かの矢が再び緋備輝に向かって放たれ、そのうちの一本が彼の胸に深く刺さった。
緋備輝は惨霧軍に背を向け、紫羅義たちが去って行く方向を見ながら呟いた。
「俺を兄弟と言ってくれた。嬉しかったぜ。後は頼む」
緋備輝はそのまま崩れるように川の中に倒れた。
その姿を紫羅義は振り返ったとき遠目に見た。
「緋備輝!」
紫羅義は叫び馬を止めたが、羽皇雅はそんな紫羅義を怒鳴りつけた。
「止まるな! 緋備輝の死を無駄にしたいのか。俺たちが今やるのはあそこに戻ることじゃない、逃げていつか奴らを殲滅させることだ、今ここで斬り死にして緋備輝の意思を断ち切りたいのか!」
羽皇雅にはわかっていた。多くの傷を負った自分は足手纏いになる、命をかけて三人を逃がそうと、緋備輝はそう考えているのだろうと。
緋備輝を残し走り始めたとき、彼はいつか仇はとってやると、すでにそう思っていたのだ。
三人はまた全速で駆け出した。
惨霧軍は恐る恐る緋備輝に近づいた。
倒れているその様子からさすがにもう大丈夫だと思い体勢を立て直したが、姜費興は追うのをやめた。
「ここまで離されては追いつくのは無理だ。引き返そう」
惨霧軍の姿が消え、再び静寂が訪れると、緩やかな川の流れと緋備輝の亡骸だけがそこに残っていた。
戻った夏遼甫たちの報告を受けた巴錘碧は半ば呆れた顔で言った。
「どこまでしぶとい奴らなんだ、あれだけの人数で急襲し、倒した者が一人だけとは」
彼は戻ってきた者たちを見回してあることに気が付いた。
「巴理無と巴呂無はどうした? 寺の近くに居たはずだが」
「いえ、近くに姿は見当たりませんでした」
洪殻宝の答えと、報告を受けたその状況を重ね合わせ、巴錘碧は肩を落とした。
「やられたのか、早まって二人で仕掛けたのか」
息子たちの死を悟り、巴錘碧は声を出して泣きたい気持ちであったが、惨霧軍の中心にいる者が取り乱すようでは兵たちの士気にかかわる。
彼は感情を出さずにいたが、心の中では鬼が泣きながら吠えていた。
「息子たちの仇は必ず討つ、必ずな」
巴錘碧は目を見開き、悪鬼のような形相で壁の一点を見つめながら呟いた。
暫くして紫羅義たちは戻ってきた。
緋備輝の亡骸をそのままにしておくわけにはいかない。危険を承知で戻ってきたのだ。
緋備輝の亡骸を見付けた三人は彼を林の中に運び、穴を掘って埋葬した。それが今の彼らにできる精一杯のことであった。
「緋備輝、惨霧は必ず倒す、安らかに眠ってくれ」
三人は手を合わせ、緋備輝の眠る林を後にした。
「明朝、出陣する。諸将に伝えよ」
史瑛夏は一万の軍を率い、瑞の国に向かおうとしていた。
十日ほど前に、神澪と娘である史蘭が突然姿を現し、惨霧軍の現状と彼らの目指すものを報告した。二人の話を聞いて史瑛夏もさすがに驚いた。
「直ぐに国王や重臣たちを集める、彼らにもう一度、今の話をしてくれ」
「わかりました」
神澪が返事をすると、史蘭は二通の手紙を差し出した。
「隆斗様から預かってまいりました、一通は国王に、一通は朝廷に届けてほしいと」
史瑛夏は直ちに国王や重臣たちを集めた。
話を聞いた者たちは皆、驚きを隠せなかった。
「青弧の地でそんなことが起きていたのか、しかも瑞の国に謀反の兆しありとは」
国王は話を聞いて茫然とした。そして険しい顔で紫羅義からの手紙に視線を落とした。
「これを読んでみよ」
国王は史瑛夏に手紙を手渡した。
史瑛夏は手紙を読みながら神澪の顔を見て、最後に史蘭の顔を一瞬見た。
父の目の動きを見て史蘭は自分に関して何が書いてあるかを確信した。
「なんと書いてあるのですか?」
さすがに史蘭も、この手紙を途中で盗み読みをするような真似はしなかった。
「うむ、神澪殿と史蘭の話は全て事実であり、唯国の英断を望む。神澪殿に軍勢の参謀長を任せ、瑞国に向かってほしいと書いてある」
史瑛夏は険しい顔で手紙を見ていた。
「もう一つ、何か書いてありませんか?」
史蘭は父の顔を食い入るように見た。
「ん、うむ、史蘭は残り、女を磨けと、そう書いてある」
史瑛夏は急に歯切れが悪くなった。
手紙の最後には『以後は熾烈な戦いが予想されるため、史蘭は国に残してほしい。言うことは聞かないだろうから、場合によっては見張りを付け幽閉も』と書かれてあった。
「では、剣を置き、花嫁修行の開始ですね」
史蘭はそう言ったが、心の中ではそんなことは露ほども思ってはいなかった。
紫羅義も史瑛夏も史蘭も、三者三様に相手の考えることを予測し言葉を操っていた。
軍備を整えるのに五日ほどを要し、史瑛夏は出陣する旨を皆に伝えた。
出陣を命じた後、史瑛夏は、ふと娘のことが気になった。史蘭は女の姿に戻り、ずっと大人しくしており、史瑛夏も安心していたのだが、その日は準備に追われ、朝から史蘭の姿を見てはいなかった。
「まさか!」
史瑛夏は侍女に史蘭の部屋の様子を見に行くように命じた。
暫くすると、侍女は『父上へ』と書かれた手紙を持って戻ってきた。
『先に行きます』手紙を開くとそこにはその一言だけが書かれていた。
「ぬぬ、小癪な。女の姿で大人しくしていると思えば策を弄しおって。なかなかやりおるわ……向こうで隆斗様に謝らねばならんな。」
史瑛夏は複雑な表情で手紙を握り潰した。
次の日、史瑛夏将軍に率いられた唯国軍一万は瑞の国に向けて進軍を開始した。
単騎で城を抜け出した史蘭は北玲の地を目指して走っていた。
史蘭が北玲を目指して馬を走らせている頃、同じく北玲の城を目指す軍勢があった。それは、劉比青の率いる五百の桂国軍であった。
劉比青は惨霧軍の襲撃に備え自国の守りを固めていたが、敵は一向に現れる気配がなく、そのうち北玲の城周辺に不穏な動きがあると聞き、彼はそれが惨霧軍によるものだと推測した。
「あのとき、神澪殿が言わんとしたのは、北玲城だったか、彼らはそこで惨霧軍と戦っているのか?」
劉比青は国王に再び出陣することを願い出て兵を集め、北玲城に向かっていた。
桂国が兵を集めているという話は、北玲の城に集まってきた者たちにより巴錘碧の耳にも入っていた。
「桂国が集められるのは、せいぜい千だろう、今は我らの襲撃を恐れ、城の防衛を警固なものにするだろうから、出てくるのは五、六百か」
巴錘碧は天井を見上げながら顎を撫で、目を泳がせた。
「この城では敵は防げませんな、撃って出ますか?」
洪殻宝は呆れたような顔で、今にも崩れそうな壁や天井を見回した。
「今の我らの兵力なら、策を廻らせれば桂国の五百など十分に叩ける。だが、気になることがある。お主たちは青弧で大敗してここに逃げてきたのであろう。外にいる連中が、そのときの戦いに関係があるとすれば、事は簡単ではなくなる。それほどの力を持つ者たちが桂国軍に加担すればどうなるか、戦えばこちらも半分の兵を失うだろう。瑞国に向かうのに今は兵を失いたくはないのだ。それにもう一つ気になることがあるのだ……敵をかわし、瑞国に侵攻しよう」
巴錘碧は瑞国に進むことを決めた。
もう一つの気がかりは惨霧が姿を見せていないことだった。ここ数日の間、村から連れてきた何人かの娘とともに奥へ入ったまま出てきてはいない。娘の首を食い破る惨霧の姿を想像して、巴錘碧は全身に鳥肌をたてて身震いした。
「物資を運搬してくる部隊が村から戻る途中で拾ったと、妙な雰囲気を持った女を連れてきたが、あの女が何か関係しているのか。瑞国に侵攻することを相談しなければならんときに」
巴錘碧が困ったという顔をしているところへ惨霧がその女を連れて出てきた。
「この女を俺の妃にする」
「は、左様でございますか」
巴錘碧は今更何を聞いても驚かなかった。
「桂国の軍勢が迫っている様子、奴らが来る前に瑞国へ向かおうと思うのですが」
「お前に全て任せる。好きなようにせい」
惨霧は相変わらずの無関心ぶりだった。
女が連れてこられたときはよく見なかったが、惨霧の傍らにいた女は目も醒めるような美女であり、宝徳賢から贈られた服を着て立っている惨霧も眉目秀麗と呼べる若者に見え、巴錘碧は暫し二人に見とれてしまった。
惨霧はクルリと背を向け、女とともにまた奥へ向かった。
「女を妃にするとだけ伝えに来たわけか……惨霧皇帝の二世が出現するのか」
巴錘碧は複雑な表情で二人が消えた奥を見ながら呟いた。




