第1話
嘘は、黒い靄になって視える。
物心ついたときから、クラリス・アーヴェントの世界はそういうふうにできていた。人が偽りを口にするたび、その言葉は黒い靄をまとって唇から零れる。優しい世辞も、その場しのぎの方便も、悪意ある虚言も、等しく黒く濁る。だからクラリスは早々に人の言葉を信じることをやめ、感情を面に出すこともやめた。社交界が侯爵令嬢たる彼女を「氷の令嬢」と呼ぶようになったのは、いつからだったか。
レオンハルト・ギーゼルバッハとの婚約は、三年前に家同士が定めたものだ。温厚で誠実と評判の伯爵家嫡男。彼の言葉にもむろん嘘は混じったが、貴族の会話とはそういうものだと、クラリスはとうに割り切っていた。
その日、クラリスはそのレオンハルトに庭園へ呼び出されていた。届いた手紙の文面は、婚約者に宛てたものとは思えないほど硬質で、嫌な予感だけが胸に残った。
白薔薇の咲く東屋に、レオンハルトは立っていた。伯爵家嫡男らしい端整な面差しに、珍しく苦悩の影が差している。そしてその隣には、見知らぬ令嬢がひとり。
「クラリス嬢。急に呼び立ててすまない。……どうしても、君に聞いてほしい話があるんだ」
声は鉛のように重い。促されるまま、令嬢が進み出た。亜麻色の髪の、儚げな少女だ。頬はこけ、ドレスの上からでも分かるほど痩せ細っている。少女はふらつく足取りでクラリスの前まで来ると、崩れるように芝の上へ跪いた。
「ミレーユ・フォラントと申します。レオンハルト様の幼馴染にございます。……厚かましいお願いと承知のうえで、どうか、どうかお聞きくださいませ」
大粒の涙が、白い頬を伝い落ちる。
「先月、神殿にてわたくしに神託が下りました。わたくしとレオンハルト様は、神によって結ばれた運命なのだと。……信じがたいのは分かっております。わたくし自身、初めは信じられませんでした。けれど神託の日から、わたくしの身体は日に日に弱っていくのです。神官様は仰いました。定められた運命に背き続ければ、遠からず命を落とすだろうと」
ミレーユは細い両手を胸の前で組み、祈るようにクラリスを見上げた。
「クラリス様。あなた様から婚約者様を奪うなど、許されぬ大罪と分かっております。それでも、わたくし、死にたくないのです。どうか……どうか、婚約をお譲りいただけませんでしょうか」
嗚咽が庭園に響く。付き添いの侍女までもが、もらい泣きにハンカチを目元へ当てていた。レオンハルトが目を伏せ、絞り出すように言った。
「僕も、困り果てているんだ。神託とあらば、神殿も王家も無視はできない。かといって、幼馴染を見殺しにすることもできない。……クラリス、君を傷つけたくはない。それは信じてほしい。だが」
「陛下のお耳にも、すでに神託の件は届いていると聞く。……すまない。こんな形になってしまって、本当にすまないと思っている」
沈黙が落ちた。誰の目にも、筋書きは明らかだった。神託という絶対の大義。衰弱していく哀れな乙女。板挟みに苦しむ誠実な婚約者。この場でクラリスに許された役はただひとつ、涙を呑んで身を引く、物分かりのいい令嬢だけ。
――なるほど。よくできた舞台だわ。
クラリスは表情ひとつ動かさぬまま、目の前の光景を静かに眺めていた。
跪くミレーユの涙も、神託の告白も、命が危ういという訴えも、その一言一句が、どす黒い靄に包まれて視えている。嘘の言葉を浴び続けるうちに、こけた頬も、震える指先も、細い肩がまとう空気さえも、淀んで見える心地がした。名乗りから哀願まで、初めから終わりまで、何もかもが嘘。涙ひと粒に至るまで、この美しい庭園で、真実はただのひとつも語られていない。
そして、もうひとつ。この舞台には、観客を欺く仕掛けがまだ隠されている。
クラリスは視線をゆっくりと横へ滑らせた。困り果てた顔で立ち尽くす、三年間隣を歩いてきたはずの婚約者のほうへ。
――あなたの言葉も、真っ黒なのよ。レオンハルト様。




