第百一話
二人はそれぞれの位置についた。
ラインマーはフロスト・エンペラーを両手で握りしめていた。
一方、アインは待ちきれないといった様子だった。
その顔には大きな笑みが浮かんでいる。
「さあ、見てみよう」
アインは剣を持ち上げ、切っ先をまっすぐラインマーへと向けた。
「先に倒れるのは、どっちかな?」
アインはゆっくりと手首を動かした。
斜めに振るった剣が空を切り、続いて気負いのない横薙ぎが走る。さらに剣を一度くるりと回すと、今度は反対側から再び振るった。
そのどの動きも標的には届かなかった。そもそも、ラインマーを直接狙った攻撃ですらない。
それでも、剣を振るうたびに、空中には細い赤い軌跡が残された。
その線は一瞬だけ留まり、まるで目に見えない表面に刻まれたインクの跡のように見えた。いくつかは互いに交差し、別のものは異なる方向へと伸びてから、ゆっくりと薄れていく。
ラインマーはわずかに眉をひそめた。
最後の赤い軌跡が消える寸前、ラインマーの右側で空間が裂けた。
肩のすぐ後ろに赤く輝く裂け目が開き、そこから斜めの斬撃が飛び出した。狙いは、彼の首だった。
ラインマーはすでに出現位置を予測していた。頭をわずかに低くし、斬撃を頭上すれすれに通過させる。
同時に、左側の地面近くにも二つ目の裂け目が開いた。
赤い線が下から上へと閃き、反対側の角度から胴体へと迫る。ラインマーは横へ一歩ずれ、その斬撃を空振りさせた。
動きは短く、無駄がない。必要以上に大きく避けるために、余計な力を使うことはなかった。
しかし、別の裂け目がすぐさま身体の前後に現れた。それぞれが異なる方向へ斬撃を放ち、先の攻撃が完全に終わるよりも早く、次の脅威に対応するための位置取りを強いられる。
ラインマーは後退し、目の前を横薙ぎの斬撃が通り過ぎるのを見送った。
頭上に裂け目が開く。垂直に振り下ろされた斬撃が迫るが、ラインマーは即座に横へ身をずらし、赤い刃が地面を叩く前にその軌道から逃れた。
だが、体勢を立て直す間もなく、今度は膝の近く、低い位置に次の裂け目が開いた。
赤い線が地面を這うように走る。ラインマーはすぐさま地面を強く蹴り、横へ跳んだ。足元をすくうように薙ぎ払う斬撃をかわす。
バキィッ!
戦場の地面が鮮やかに断ち割られた。その切り口はあまりにもきれいで、まるで石の表面に一本の線を引いただけのように見えた。
ラインマーは元の位置から数歩離れた場所に着地した。その表情には、先ほどよりも深い真剣さが浮かんでいた。
予想外の方向から攻撃が現れること自体に驚いたわけではない。その程度の能力は、すでに想定のうちだった。
想定外だったのは、アインが斬撃の連なりを組み立てる方法だ。
先ほどの、一見すると無害な剣の振りが、これほど多くの攻撃経路を残していた。ひと続きの動作から複数の裂け目を発生させられるうえ、そこから放たれる斬撃は必ずしも同時に現れるわけではない。出現するまでにはわずかな間があり、そのせいでラインマーは次の脅威に備え、絶えず動きを調整し続けなければならなかった。
一度に読み切れる大規模な集中攻撃ではない。防御の隙間をひとつずつ突き、途切れることなく追い詰めてくる連続攻撃だった。
その間も、アインは一歩たりともその場を動いていなかった。
再びクリムゾン・ヴァラーを振るう。
空中に赤い線が一本走り、それを断ち切るように、さらにもう一本が続いた。まるで、未完成の絵に最後の線を書き加えたかのようだった。
ラインマーはすぐに足場をずらした。
左肩の近くに裂け目が開く。飛び出してきた斬撃を避けるために身体を傾けたが、動き終えるよりも早く、かかとの後ろの低い位置で別の裂け目が光っていた。
ラインマーは最初の攻撃の届く範囲から踏み出した。次の斬撃が、たった今まで彼のいた場所を薙ぎ払う。
動きは依然として制御されていた。必要以上に高く跳ぶことも、理由もなく距離を取ることもない。一歩ごとに危険な軌道から外れながら、同時に次の脅威へ対応できる位置を保っていた。
ラインマーは徐々にその規則性をつかみ始めていた。
アインの手の動きは、斬撃がどこから現れるかを直接示す手がかりにはならない。クリムゾン・ヴァラーの切っ先だけを追っていては、攻撃は常に見当違いの場所から飛んでくることになる。
だからこそ、ラインマーは周囲の何もない空間に意識を向けた。
脅威が形を成す直前には、裂け目が実際に開くよりも前に、わずかな変化が生じる。ラインマーはその変化を捉えることができた。それは、すでに定まった未来ではなく、これから起こる出来事がどの方向へ進むかという可能性だった。
その変化を間に合ううちに読み取れれば、攻撃が届く前に身体を動かすことは、まだ可能だった。
右側から、頭のすぐ脇を斬撃が走った。
ラインマーは身体を傾ける。斬撃は顔のすぐ前をかすめていったが、反対側からはすでに次の脅威が迫っていた。彼は即座に膝を曲げ、水平に薙がれた斬撃を肩の上へと通過させた。
やがて、ラインマーの正面に赤い裂け目が開いた。
今度は、ただ回避するだけではなかった。攻撃の軌道上に、氷の結晶柱が地面からせり上がる。
赤い斬撃がその表面を叩いた。
パキィンッ!
結晶柱は真っ二つに割れた。だが、赤い斬撃は鋭さを失うことなく、そのまま先へと走り続ける。まるで、先ほどの障害など何の妨げにもならなかったかのように。
二つに砕けた氷の破片が地面に落ちるよりも早く、ラインマーはすでにその場を離れていた。
彼は次の斬撃をフロスト・エンペラーで受け止めようとはしなかった。クリムゾン・ヴァラーの攻撃が触れたものを何であれ断ち切るのなら、物質の強度に頼ったところで、わずかな隙を与えられるだけだ。
だからこそ、彼は動き続けた。
頭上に裂け目が開き、垂直の斬撃が放たれる。ラインマーは右へ身をかわしたが、すぐさま背後にも別の裂け目が現れた。彼は身体をひねって前へ踏み込み、次の斬撃が先ほどまで立っていた場所を薙ぎ払う寸前に、その場から抜け出す。
裂け目の数はさらに増えていった。
空中に赤い亀裂が次々と現れ、地面すれすれにまで広がっていく。さらには、まるで自分自身の背後から攻撃が迫っているかのような角度にまで出現した。斬撃が通過した場所には長い切り傷が残り、戦場の損傷は刻一刻と広がっていく。
それでも、そのどれひとつとしてラインマーを捉えることはできなかった。
戦闘が始まって以来、初めてアインの表情に、はっきりとした満足の色が浮かんだ。
「ははっ……!」
次々と裂け目が生じる音の合間に、笑い声が響く。
「なるほどな。お前は本当に、まだその力を持っているんだな」
アインは手の中でクリムゾン・ヴァラーを回し、再び剣を振るった。
空中に二本の赤い軌跡が残る。
ラインマーはすぐに足場をずらした。最初の斬撃をかわしたあと、彼はいつものように大きく離れることはしなかった。代わりに、二つ目の裂け目が予想よりもずっと近くに開いた瞬間、あえてその位置を維持した。
裂け目から赤い線が飛び出し、まっすぐ彼の身体へと向かってくる。
ラインマーには、まだ回避する余地があった。
だが、今度はそうしなかった。
右手でフロスト・エンペラーを握ったまま、左手を持ち上げ、形成され始めた斬撃の軌道へと伸ばす。
赤い線が到達した瞬間、彼は指を閉じた。
斬撃の動きが、突如として止まった。
激しい衝突音は響かなかった。ラインマーの手のひらにも、傷ひとつない。ただ赤い線だけが、彼の指の間で激しく震えていた。本来たどるはずだった軌道を完遂しようと、なおも抗っているかのように。
ラインマーはそのまま握り続けた。
斬撃が軌道を完遂する寸前、その現象そのものが一点に固定されたかのように動きを止める。透明な結晶の層が赤い線を包み込み、ラインマーの指先から広がりながら、その斬撃を空中に凍りつかせていった。
鋭く輝いていた赤い光が、徐々に氷の層に覆われていく。
本来なら、進路上のあらゆるものを切り裂くはずの攻撃が、ラインマーの左手の指の間に挟まれたまま、あっけなく停止していた。
アインは一瞬、言葉を失った。
そして次の瞬間、その顔に再び満面の笑みが広がった。
「クリムゾン・ヴァラーは、何かを切るために、その耐久力を上回る必要はない。あの斬撃は、通過するものの連続性そのものを断ち切る。氷も、金属も、空間そのものさえもな」
アインはわずかに前へ踏み出し、ラインマーの指から数センチのところで停止している赤い線を眺めた。
「どれだけ強固な防御だろうと、斬撃が届いてしまえば何の意味もない」
アインの笑みはさらに深まった。今度は、抑えきれない喜びがその表情にありありと浮かんでいた。
「それなのに、届く前に止めたのか? お前はいったい、今、何者になっているんだ、ラインマー?」
ラインマーは答えず、目の前で凍りついた赤い線を見つめていた。彼の指は、その斬撃にわずかたりとも触れていない。
「お前は、自分の剣が何を斬れるのかということばかり考えすぎている」
赤い線を包み込むように、氷の層が空中を伝って広がっていく。斬撃の切断能力そのものを封じているのは、氷ではなかった。ラインマーは、斬撃が標的に到達するよりも前に、その進行を凍結させていたのだ。
「そのせいで、攻撃が結果に至るまでには、そこへ至る過程が必要だということを忘れている」
ラインマーが指をわずかに動かした。
赤い軌跡が震え、やがて、斬撃が形成される直前の瞬間へと引き戻されるかのように後退していく。次の瞬間、その現象は無数の赤い欠片となって砕け、地面に触れることなく消滅した。
周囲の氷の結晶もまた崩れ落ち、ラインマーの指の間には何も残らなかった。
アインは、依然として最初の位置に立っていた。その笑みは少しも薄れていない。何であれ切り裂くはずの攻撃が、ただの一度も届くことなく止められたというのに。
ラインマーは左手を下ろした。
「それがお前の知りたかった答えなら、今度は俺の番だ」
足元の地面が震えた。
空中に氷の結晶が次々と生まれ、続いて長大な剣身が一本ずつ形作られていく。数秒のうちに、数十本もの氷剣がラインマーを取り囲み、ほとんど完璧な間隔を保ちながら、幾重もの直線的な陣形を組み上げた。
すべての切っ先が、アインへと向けられている。
どの剣も、ほかの剣に先んじて動くことはなかった。数十本の剣は整然とした隊列を保ったまま宙に浮かび、持ち主の命令を待つ巨大な武装のように見えた。
刀身の表面を淡い青白い光が包み込む。剣先から霜がこぼれ落ち、空から差し込む光を受けて、きらめく結晶の粒となった。
アインはわずかに眉を上げた。
その笑みが、さらに大きくなる。
ラインマーはフロスト・エンペラーを身体の横へと移動させた。刀身がかすかに輝き、彼はその切っ先を前方へと向ける。
「全部、止めてみろ」
剣先が動いた。
数十本の氷剣が、一斉に飛び出した。
先頭の一列が突き進むと同時に、空気が爆ぜた。後続の列も間を置かずに続き、陣形を維持したまま前進する。そして、アインが回避に使いそうな進路を塞ぐように、次々と散開していった。
ラインマーは、氷剣の群れの後方を駆け抜けていた。
歩調は次第に速まり、フロスト・エンペラーを身体の脇に構えたまま、長い外套が風圧を受けて大きくはためく。彼は単に遠距離から攻撃を仕掛けているわけではなかった。飛翔する剣の軌道に沿って進み、その動きが生み出す風圧を利用することで、アインとの距離を一気に詰めようとしていた。
ついに、アインが動いた。
クリムゾン・ヴァラーが下から上へと振り抜かれる。
ガキィンッ!
先頭の氷剣が真っ二つに断ち切られた。アインは手首をひねり、そのまま振り抜いた剣を回転させ、並んで迫っていた二本の氷剣を砕く。
砕けた氷の破片が周囲に飛び散った。
その破片が地面に落ちるよりも早く、アインは前へと踏み出していた。五本の剣が描く軌道の隙間をすり抜け、身体をひねって側面を狙う一振りをかわす。
一本の刃が肩先をかすめた。
別の一本が、胸元へと真っ直ぐ迫る。
アインは後退しなかった。クリムゾン・ヴァラーを傾けて氷剣の側面を叩き、その軌道をわずか数寸だけ逸らす。正面の道が開いた瞬間、迷わずその隙間を突き抜けた。
眼前には、さらに距離を詰めてきたラインマーの姿があった。
だが、残る氷剣はまだ追撃をやめていない。
アインは左側から迫る刃を弾くため、クリムゾン・ヴァラーを背後へ振るった。続いて身を低くし、頭上を通過する別の剣をやり過ごす。そして足を止めると、正面から飛来した氷剣の柄を掴み取った。
冷たい結晶が掌を覆う。
アインはその剣が持つ勢いを利用して身体を回転させ、掴んだ氷剣をラインマーへと投げ返した。
氷の刃が二人の間を駆け抜ける。
ラインマーは肩をずらした。剣は顔のすぐ脇をかすめ、そのまま飛び続けて、はるか後方の地面へと突き刺さった。
アインはその隙を逃さず、攻勢を続けた。
クリムゾン・ヴァラーが空気を切り裂く。
ラインマーはフロスト・エンペラーを構え、それを迎え撃った。
ガキィィンッ!
二振りの剣が、二人のちょうど中間で激突した。
凄まじい圧力が衝突点から弾け飛ぶ。クリムゾン・ヴァラーからは赤いオーラが噴き上がり、荒れ狂う血のような光となってアインを包み込んだ。一方、ラインマーの側では、淡い青のエネルギーがフロスト・エンペラーの刀身を伝い、地面へと氷の結晶を広げていく。
衝撃波が戦場を薙ぎ払った。
飛来していた氷剣が軌道を弾き飛ばされ、地面には亀裂が走る。結晶の破片が舞い上がり、二人の周囲で渦を巻いた。
ラインマーとアインは、揃って後方へと押し戻された。
再び、二人の間に距離が生まれる。
だが、それも一瞬だった。
アインは地面を踏みしめ、すぐさま前方へと飛び出した。ラインマーも同時に駆け出し、迫り来るクリムゾン・ヴァラーを迎え撃つため、フロスト・エンペラーを振り上げる。
ガァンッ!
最初の衝撃波が消え去るよりも早く、二度目の激突が起こった。
今度は、どちらも一撃の威力だけで押し切ろうとはしなかった。二人は至近距離で斬撃を交わし始める。わずかな角度の違いが、刃を標的へ届かせるか、ただ空を切らせるかを左右する距離だった。
ラインマーがフロスト・エンペラーを水平に薙いだ。
アインは身を低くし、頭髪のすぐ上を通過する刃をかわすと、すかさず斜めの斬撃を返し、ラインマーの側面を狙った。
フロスト・エンペラーが即座に反転する。
二振りの剣がぶつかり合い、赤い光と氷の破片が間で弾けた。ラインマーは踏み込む位置をずらして防御の角度を調整し、衝突の勢いを利用して下方から剣を振り上げる。
アインは後方へ跳んだ。
ラインマーの剣が届かない位置まで離れた瞬間、その背後に赤い裂け目が開く。内側から斬撃が飛び出し、再びラインマーへと襲いかかった。
ラインマーは斬撃が完全に現れるよりも前に動いていた。身体を傾けて攻撃をかわすと、そのまま再び前進し、フロスト・エンペラーの切っ先をアインの肩へと向ける。
アインはクリムゾン・ヴァラーを傾けた。
ガキィンッ!
赤い刃がラインマーの攻撃を弾いた。しかし、衝突は一瞬で終わり、アインはそのまま剣を回転させて二撃目を繰り出す。
ラインマーはフロスト・エンペラーを身体の前へ引き戻した。
斬撃を横へと受け流すと、赤い線が外套のすぐ脇をかすめていく。同時に、なおも飛翔を続けていた氷剣の一本が、ラインマーの背後からアインへと向かう軌道を描いて襲いかかった。
アインは身体をひねって迎撃した。
氷剣が真っ二つに砕ける。
その飛び散る破片の向こうから、ラインマーがすでに迫っていた。フロスト・エンペラーが反対側から閃き、アインは即座にクリムゾン・ヴァラーを掲げて受け止める。
再び、空気が激しく弾けた。
二人は数歩ずつ後退したが、その視線は互いから離れなかった。
やがて、アインが笑みを浮かべる。
「相変わらず、俺を苦労させてくれるな」
その視線がフロスト・エンペラーへと移った。
「お前の剣は、ただ俺の斬撃に耐えられる氷ってわけじゃない。俺のセヴァランスで切断された瞬間、その創造物が切断される直前の状態に戻るよう、時間を操っているんだな」
アインはくつくつと笑った。
「時間内に修復できる限り、俺は斬撃の結果を維持できない。ほんの少しでも遅れれば、お前の剣はそのまま真っ二つだ」
クリムゾン・ヴァラーを持ち上げ、横へ一度振るう。
「なるほど……そう判断したわけか」
空中に裂け目が生じ、続いて高さの異なる位置に二つの亀裂が開いた。最初の斬撃がラインマーへと飛び出し、ほぼ同時に、残る二つの攻撃が異なる角度から襲いかかる。
「つまり、俺の考えは当たっているんだな?」
ラインマーは身をかがめた。
「完全にはな。お前が見たのは、フロスト・エンペラーがどうやって耐えているかだけだ」
「面白いな」
最初の斬撃が頭上を通過する。ラインマーはすぐさま足場を変え、身体の側面を薙ぐ二撃目をかわすと、二人の間を横切る氷剣をフロスト・エンペラーで弾いた。
三撃目は背後から迫っていた。
ラインマーは前へ踏み込み、今しがた離れたばかりの地面へ斬撃を叩きつけさせる。
地面が真っ二つに裂けた。
アインは巻き上がった砂塵に紛れて距離を詰める。まだ薄く漂っている煙の向こうからクリムゾン・ヴァラーが閃いたが、ラインマーは攻撃の変化を間一髪で捉え、フロスト・エンペラーを掲げた。
再び、二振りの刃が激突する。
一瞬、互いに力を押しつけ合う。やがてラインマーは手首をひねり、クリムゾン・ヴァラーの圧力を横へと受け流しながら、開いた隙間へ踏み込んだ。反撃の水平斬りがアインへと迫り、彼は身体を傾けてそれをかわす。
しかし、その背後にはすでに氷剣が待ち構えていた。
アインはクリムゾン・ヴァラーを回転させ、身体に届く前にその刃を断ち切った。結晶の破片が飛び散り、その隙を突いてラインマーが正面からさらに攻め込む。
二人の間に、完全に安全と呼べる瞬間はなかった。
一度の斬撃に対して、必ず応答を返さなければならない。位置を変えれば新たな攻撃経路が開く一方で、それまで使えていた道が閉ざされることもある。どちらかがわずかな優位を得たとしても、次元の裂け目や残存する氷剣が、たちまち形勢を覆しかねなかった。
周囲の戦場には、戦闘の痕跡がさらに増えていた。
空中にも地面にも、次元の傷跡が刻まれている。いくつかの裂け目はまだ開いたままで、別の場所には、先ほど斬撃が通過した際の赤い軌跡が残っていた。ラインマーの周囲では、氷剣の破片が散乱し、衝突地点から生じた結晶構造がいくつもそびえ立っている。
アインは変わり果てた戦場へ一瞬だけ視線を向けた。
その笑みは消えなかった。
「このまま続けたら、決着がつく前にここを丸ごと壊しちまいそうだな」
ラインマーはフロスト・エンペラーを構え、数歩の距離を保った。
「お前が始めたんだろ」
「それに付き合ったのはお前だ」
アインは小さく笑った。
そして、クリムゾン・ヴァラーを身体の前で交差させるように動かした。
今度は、空中に細い線が刻まれることはなかった。
剣の周囲から濃密な赤い霧が立ち上り、地面を這うように広がっていく。霧は氷の残骸の間を埋めるように流れ込み、さらに渦を巻きながら上昇し、戦場全体を覆い尽くした。
ラインマーはすぐさま足場を調整した。
数秒もしないうちに、アインの姿は赤い霧の向こうへと消えていった。
視界が急激に狭まる。周囲の結晶構造も輪郭がぼやけ、かすかな影となって、ゆっくりと霧の中へ呑み込まれていく。
もはや、これまでのように視覚だけを頼りにはできない。
その直後、身体に不快な感覚が広がり始めた。
この霧は、単なる視界を遮るためのものではない。内部には何かが作用しており、その影響は時間が経つほど無視できないものになっていく。
ブラッドミスト。
ラインマーは、アインの狙いを理解した。
この効果を受け続けながら戦えば、集中力は徐々に削られていく。霧による影響から身体の状態を守る時間防御を維持しながら、あらゆる方向から現れ得る脅威を読み取らなければならないのだ。
ラインマーは呼吸を整えた。
身体は動き続けていたが、意識の一部を周囲の脅威へ、もう一部を時間防御の安定維持へと割かなければならなくなっていた。
左側の霧の中から、ひとつの影が現れた。
ラインマーはフロスト・エンペラーを掲げ、迎え撃とうとする。
しかし、斬撃は肩の後ろから飛んできた。
次元の裂け目が開き、赤い線が首筋へと走る。ラインマーは即座に身を沈め、その攻撃を頭上へ通過させると、地面を蹴って裂け目のあった場所から離れた。
再び、眼前にアインの姿が現れる。
今度は、二人いた。
一方は右側から駆け寄り、もう一方は真っ直ぐこちらへ向かってくる。どちらも異なる構えでクリムゾン・ヴァラーを携えており、まるで二方向から同時に襲われているかのようだった。
ラインマーは、すぐにはどちらにも攻撃を仕掛けなかった。
目を細め、霧の中で生じるわずかな変化を観察する。二つの姿を見比べるだけでは判断できない、何らかの手がかりを探していた。
一方は、周囲の霧に何の変化も引き起こさずに動いている。もう一方は、進路に沿って赤い霧を切り裂いていた。
ラインマーは後者へと向かった。
正面からクリムゾン・ヴァラーが振り下ろされる。
フロスト・エンペラーを横から掲げ、その斬撃を受け止めた。しかし、二振りの刃が触れ合った瞬間、ラインマーの足元近くに新たな裂け目が開く。赤い斬撃が下から上へと走り、彼の身体に届く寸前、ラインマーは後方へと跳び退いた。
同時に、反対側から氷剣が霧を突き破って飛来した。
ラインマーは即座に身体を傾けた。刃は肩のすぐ脇を通過して地面に突き刺さり、赤い霧の中に結晶の破片を撒き散らす。
(俺の集中力を試しているのか)
ラインマーは再び呼吸を整え、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
脅威の出所を知るために、すべての影を見る必要はない。捉えるべきなのは、ある出来事に先立って生じる変化だ。そして、その可能性が現実の攻撃として形を成す前に動かなければならない。
やがて、閉じていた瞼がゆっくりと開かれた。
意識が、さらに研ぎ澄まされていく。
ラインマーの両目が淡い青色へと変わった。虹彩から氷のような光が輝き、戦場の大半を覆い隠す赤い霧を貫く。
周囲の世界が、まるで別の姿へと変わったかのようだった。
裂け目が開く前の変化を捉え、赤い線が飛び出す前に斬撃の軌道を読み取る。そして、本当に攻撃へとつながる動きと、視覚を欺くためだけの幻影とを見分けていく。
ハイ・テンポラル・パーセプション。
それは、絶対的な未来視ではない。今まさに生じつつある変化をもとに、これから起こり得る事象の展開を読み取り、その情報を次の行動を決めるために利用する能力だ。
今、ラインマーは、自らが維持できる限界までその知覚を引き上げていた。
背後にひとつの影が現れる。
ラインマーは反射的に距離を取ることなく、むしろ前へと踏み出した。その直後、背後の裂け目から放たれた斬撃が、彼のいた空間を薙ぎ払う。
左側からクリムゾン・ヴァラーが迫った。
すでにフロスト・エンペラーが、その斬撃を受け止める位置にあった。
アインが眼前に姿を現す。その表情には、先ほどにも増して興味をそそられた様子が浮かんでいた。再び剣を振るうが、ラインマーは斬撃が軌道を描き終える前に位置を変えていた。
二人は再び、霧の中で斬撃を交わし始めた。
赤い軌跡と青い閃光が交差し、時折、二人のシルエットが浮かび上がる。しかし、それもすぐにブラッドミストに呑み込まれていった。刃がぶつかるたびに火花のような光が一瞬だけ散り、次元の裂け目が開く音に混じって、金属音が響き渡る。
ラインマーは、次第にアインの攻撃のリズムを読み取り始めていた。
それは単なる剣の動きではない。ひとつひとつの斬撃が生まれる直前の変化、そして周囲の空間から斬撃を出現させることを可能にする、その変化の流れだった。
だが、このまま戦い続けるわけにはいかない。
ラインマーはフロスト・エンペラーを回転させ、その切っ先を地面へと突き立てた。
ゴゴゴッ!
剣が突き刺さった地点から、凄まじい冷気の波が爆発的に広がった。
氷の層があらゆる方向へと広がり、地面を覆いながら、亀裂に沿ってさらに伸びていく。結晶構造が瞬く間に成長し、瓦礫を包み込むとともに、凍結した領域を急速に拡大させた。
気温が急激に低下する。
冷気の波が戦場を駆け抜けると、ブラッドミストが激しく揺らいだ。霧の下層部が結晶化し、残った霧も冷たい風に引き裂かれ、淡い赤色の粒子となって崩れ落ちていく。それらは氷の破片の間へと沈み、やがて消えていった。
ほどなくして、その一帯からブラッドミストが完全に消え去った。
再び、周囲の景色が開ける。
ラインマーはフロスト・エンペラーを地面から引き抜いた。
氷の層は、今や戦場のほぼ全域を覆っていた。地面からは無数の結晶がそびえ立ち、それまで口を開けていた裂け目のいくつかも凍りついている。戦場は一面、青白い氷に覆われた光景へと変わっていた。
少し離れた場所に、アインの姿が再びはっきりと見えた。
凍りついた地面の上に立ち、クリムゾン・ヴァラーを手にしたまま、彼は余裕のある表情を崩していなかった。足元にはわずかに冷気が立ち上っていたが、その様子を気にするそぶりもない。
ラインマーは呼吸を整えた。両目の青い光は、まだ消えていなかった。
アインはしばらく、その瞳を見つめていた。
「綺麗な目だな」
「だからマリアーネはお前を選んだんだ」
ラインマーは眉を上げた。
「不満そうに聞こえるな」
「不満だと?」アインは笑った。「逆だよ。お前のせいで、この戦いが俺にとって簡単すぎるものになりそうで、心配になってきたところだ」
「お前はまだ、一度も俺に触れられていない」
「そしてお前も、まだ俺を止められていない」
二人は一瞬、沈黙した。
ラインマーはすぐには言い返さず、ただフロスト・エンペラーを握る手に力を込め直し、切っ先をアインへ向けたまま構えを保った。
今の二人の間には、互いが次の一手を繰り出すだけの十分な距離があった。
アインは何かを考えるように、クリムゾン・ヴァラーを一度だけ下げた。そして再び剣を前方斜め上へと持ち上げる。
赤い刃の先端が光を捉えた。
「お前がここに立っていられる理由が、少しずつ分かってきたよ」
アインはクリムゾン・ヴァラーを真っ直ぐ下へと引き下ろした。
その動きはゆっくりとしていて、まるで何もない場所に一本の線を引いているかのようだった。剣先から、濃い赤色の線が空中に残される。
ラインマーは、その動きを注意深く見つめていた。
線は消えなかった。
それどころか、光がさらに遠くへと伸びていく。空間を切り裂きながら赤い軌跡を残し、その線は徐々に広がっていった。同時に、ラインマーの周囲でも次元の裂け目が開き始める。
左側にひとつ。
続いて、右側にもひとつ。
頭上に亀裂が開き、さらに背後にも別の裂け目が生じた。やがて、その数は増え続け、ラインマーを取り囲む空間を埋め尽くしていく。
それらは、まるで目覚めたばかりの赤い瞳のようだった。それぞれの裂け目の奥から、濃密な赤い光が妖しく輝いていた。
すべての裂け目が、ひとつの中心へと向けられていた。
ラインマー。
裂け目はまだ斬撃を放っていなかった。ただ開き続け、周囲の空間を埋め尽くしていく。もはや、脅威の及ばない角度などほとんど残されていなかった。
ラインマーは身体を回し、自分を取り囲む裂け目の配置を見渡した。
アインの戦略はすぐに理解できた。
今回は、一度攻撃をかわして次の攻撃を読むという、これまでの対応を許すつもりがないのだ。あらゆる方向から斬撃が放たれる経路を同時に用意することで、ひとつの攻撃を避ける動きそのものが、別の攻撃の軌道へ飛び込む結果になりかねない。
時間知覚をもってしても、すべてをひとつずつ回避しようとするのは、必要のない賭けだった。
「俺が回避に使える経路を、すべて塞ぐつもりか」
アインは剣の動きを止めなかった。
その笑みがさらに深まる。
「その通りだ」
クリムゾン・ヴァラーの前では、赤い線がなおも伸び続けていた。
「お前は一方向から攻めるだけじゃ、手に負えないからな。だから今回は、あらゆる方向が同時に脅威となったとき、お前がどうやって耐えるのか見てみたいんだ」
ラインマーは答えなかった。
再び周囲に開いた裂け目へと視線を向ける。今度ばかりは、足捌きだけで切り抜けることはできないと理解していた。
だからこそ、彼はすぐに行動へ移った。
フロスト・エンペラーを持ち上げ、その切っ先を足元の氷へと突き立てる。
「分かった」
刀身に沿って、青い光が走った。
「ワームズ・バスティオン」
地面が爆ぜ、氷の結晶が勢いよくせり上がった。
ラインマーを取り囲むように、巨大な氷晶が成長していく。それらはやがて、口を大きく開いた竜の頭蓋骨を形作った。上下の顎には結晶の牙が幾重にも並び、互いに向かい合っている。
淡い青白い光が、結晶の隙間を流れていった。
その瞬間、ラインマーは巨大な顎のちょうど中央に位置していた。
上顎が下降し、下顎がそれを迎えるようにせり上がる。同時に竜の頭部全体が前方へと回転し、垂直に立っていた構造が、恐ろしい勢いで水平へと倒れ込んだ。
ゴガァァンッ!
巨大な顎が、ぴたりと閉じた。
結晶の牙が互いに噛み合い、顎の継ぎ目に沿って氷の層が結合する。残された隙間はことごとく塞がれ、完全に閉じた竜の頭蓋骨の内部、その中心には、フロスト・エンペラーが突き立ったまま残されていた。
外から見れば、巨大な氷竜の頭部が戦場に横たわり、その顎を固く閉ざしているように見えた。まるで、本当にラインマーを飲み込んでしまったかのようだった。
だが、これは単に氷で形作られた竜の頭ではない。
あらゆる方向からの攻撃を遮断し、その内部にいる使用者を守るために設計された要塞だった。
アインは興味深そうに、その構造を眺めていた。
「見事な防御だな」
彼が引いていた赤い軌跡は、今やクリムゾン・ヴァラーの切っ先近くまで伸びていた。
「だが、分かっているだろう、ラインマー……」
アインは剣を振る動作を完了させた。
「……その防壁も、いずれは砕け散る」
クリムゾン・ヴァラーの切っ先が、下へと動いた。
周囲に展開していたすべての次元の裂け目が、一斉に輝いた。
ズガガガガガッ!
四方八方から、無数の赤い斬撃が噴き出した。
ほぼ同時に、すべての攻撃が氷竜の頭蓋骨へと殺到する。赤い光が戦場を埋め尽くし、連続する轟音が周囲を揺るがした。衝撃波が凍りついた大地を薙ぎ払う。
巨大な結晶構造が激しく震えた。
最初の斬撃が頭蓋骨の正面を直撃する。続く攻撃が顎の側面を切り裂き、さらに無数の斬撃が上方、後方、左右の両側から立て続けに襲いかかった。
氷の層が砕け散る。
人間の身体ほどもある結晶の塊が宙へと弾き飛ばされた。その一部は地面に触れる前に細かな破片へと砕け散り、残りは凍りついた地表へ叩きつけられ、赤い閃光の間を跳ね回った。
それでも、ラインマーの防御はまだ崩れなかった。
途切れることのない集中攻撃を浴びながらも、竜の頭部はその場に踏みとどまっていた。頭蓋骨の表面には亀裂が広がっていたが、内側の結晶層が依然として構造を支え、四方から押し寄せる圧力を受け止めていた。
衝突音が戦場を満たす。淡い青白い結晶の破片の間で赤い閃光が明滅し、攻撃のたびに生じる衝撃波が地面を揺らしながら、氷の欠片を周囲へと撒き散らしていった。
アインは遠方に立ったまま、最後の赤い軌跡が描き終わるまで剣を振るい続けた。
そして、すべての攻撃が止まった。
瓦礫と氷の粒子が舞う戦場に、短い静寂が訪れる。
空中に残っていた結晶の破片が、ぱらぱらと落下していった。
氷竜の頭蓋骨は、まだそこに残っていた。顎の一部は砕け、頭部にもいくつか大きな亀裂が走っていたが、その隙間からは内部の結晶構造が覗いていた。
そして、その奥にはラインマーの姿が見えた。
彼は、初めに立っていた場所から一歩も動いていなかった。
ラインマーは防御の中心に突き立てていたフロスト・エンペラーを引き抜き、右手で握り直す。肩は真っ直ぐに保たれ、瞳の青い光も、残された霜の中で鋭く輝き続けていた。
目に見える傷は、どこにもなかった。
彼は顔を上げ、アインを真正面から見据えた。
その表情は、依然として真剣そのものだった。
アインもまた、それまでと変わらない満面の笑みで応じた。クリムゾン・ヴァラーを身体の横に掲げ、その刀身には淡い赤色の光がまだ残っていた。
「いいね」
口調こそ軽かったが、その顔に浮かぶ笑みは、彼が心から満足していることを物語っていた。
荒れ果てた戦場に、再び笑い声が響く。
「これだけやっても、まだ耐え切るとはな。大したものだ」
アインの笑みは、少しも薄れなかった。
「本当に、期待を裏切らない奴だな」




